夏衣のすずめ
北陸の初夏。
肌寒い朝だった。
「小童、もう一度言ってみろ!」
尾山城、本丸御殿の濡れ縁で、城主の前田利家が、庭に向かって怒鳴りつけた。
夏衣のすずめが、一斉に飛び立った。
家臣らは、ビクッと肩を縮めて、固まった。
妙な静けさのなか、利家は仁王立ちで、むんずと腕を組み、鬼の形相で一点を睨みつけている。
いつも快活で温厚な利家が怒ったところなど、古参の家臣でさえ、ほとんど見たことがない。
天変地異に等しい事態だが、利家を怒らせた童は、先ほどから態度が全く変わっていない。
手を縛られて、地べたに座らされ。頭を押さえつけられても尚、眼光鋭く、利家を睨みつけていた。
利家の傍に控えている与六郎は、地割れでも起こりそうな主の怒りに、かみ殺していたあくびが引っ込んだ。
今頃になって童をよくよく見れば、見たこともない着物を身に着け、濡れそぼち、海藻をくっつけ、砂だらけだ。それはそれはみすぼらしく、海から打ち出でてきた妖怪のような風貌が、薄気味悪さを誘っていた。
与六郎は、前田家の典医である。
真っ先に童を観察して、主である利家に報告をしないとならない立場であるが……なにせ朝が弱い。
日がのぼる前、前田利家お抱えの忍び、四井主馬に叩き起こされ「妙な童が見つかった」と、引きずられるように城へ連れてこられた。
だが眠い。眠くてたまらない。うとうとしている間に、利家と童のやり取りはこじれてしまったようだ。
与六郎は思う。童が、もう一度同じ言葉を繰り返したら、次こそ命はないだろうと。
その時だ。縛られている童の表情がふと、緩んだように見えた。
妙な余裕がくゆった気がして、与六郎は、柄にもなく背筋を冷やした。
まさか――と思った、刹那。
童は口を大きく動かして、明朗に返した。まるで、耳の遠い老翁に話しかけるように。
「い や だ。」
それは、先ほど利家を怒らせた言葉と、一字一句、同じだった。
表面上装う冷静の反面、与六郎の鼓動は早くなっていた。
ともすると、この童は死にたいのだろうか。やけに不安が胸を苛むのだ。薄汚れた、薄気味悪い、童の行く末が。
初めて会った者の事情を汲むような与六郎ではないが、どうしてか、考えてしまう。
利家の頬が、引きつった。
「貴様……ふざけたことを抜かして……!」
扇子を握っている拳に、筋が浮かび上がる。
しかし、童は口を閉じなかった。
「先ほど名を名乗れというから名乗ったのに、あんたは名乗らない。しかも小童とか貴様とか、失礼だよね。それに。夜伽を命ずるだって? こっちにも選ぶ権利ってもんがある。ふざけたこと言ってるのはあんたの方。衆道は趣味じゃないけど顔が好みだから試してみるか、だって? 言っとくけど、この尻の穴を見ず知らずの奴にくれてやるくらいなら死んだほうがマシだよっ」
清々と啖呵を切られ、豆鉄砲を食らった鳩のような顔で突っ立っていた利家だが。
唐突に、笑い出した。鷹揚な笑い声が、朝日の輝る庭に響き渡る。
「確かに、たくみの言う通りだ。無礼をした。許せ」
先ほどまで利家を蝕んでいた怒りは、いつの間にか消えていた。
利家は庭に降りると、縛っていた縄を手ずから切ってやった。
「これで贖罪になるかわからないが。何もしていないのに、縛りつけてすまなかった」
縄の跡が残る細い手首をさすっている童――たくみ――の前でひざを折り、快活に笑う。
「尾山城城主、前田利家だ。よろしくな」
「はい……こちらこそ、よろしくお願いします」
すると、利家は妙なことを言った。
「たくみ、お前は未来人だな?」
「どうしてそれを、」
「着ている衣がな。そうじゃないかと思ったんだが、当たりのようだな。織田家にもいるんだ、同じような衣を着て現れた、この世のものと思えないくらい愛らしい、未来人の姫がな。信長様の側室はすべて未来人ではないかと思うほどだ。だから……尾山城にも未来人の姫が来ないものかと、期待しすぎた感はある……童だからとて未来人、帰るところがなければ俺の家臣にしてやろう。命をかけて前田家の役に立つことが条件だが。どうだ?」
「ふふ、話が早くて助かります。お世話になります」
「では早速、次回の戦に参陣を命ずる。俺の近習として」
「それって、どういう――」
「磨いとけよ」
有無を言わさず、利家はおもむろに立ち上がると。自分の尻をたくみに向け、軽く叩いて見せて。それから悠々と御殿に上がった。
控えている与六郎に、利家は言った。
「たくみは与六郎預かりとする。イロハを教えておけ」
与六郎は見た。
気障な笑みの奥にある瞳が、本気だった。