すでに壊れている夫婦関係にも分岐点があったのかもしれないけれど、見なかったことにした話
「まだ、連絡ないの?」
母親は視線をこちらに向けず、洗い物をしながら訊いてきた。
「ないけど、別にいいよ。居場所はわかってるし」
「別にいいって……あんただけの問題じゃないから。美帆さんの親御さんには何度も謝罪されて気まずいし」
「それはしょうがないよ。娘が妻の役割を放棄して逃げ出したんだから」
スマホをいじりながら答えると、水の流れる音がやみ、「悠真」と低い声で名を呼ばれた。
(やべ、気を抜いてたからつい本音が……)
「わかってるよ、俺のせいだって言いたいんだろ」
「夫婦のことだから口出ししたくないけど、行き違いがあったならあんたが折れなさいよ。男でしょ」
「わかってるって」
なんで男だからって折れなきゃいけないんだ――と内心思っていても、口にしたら話が長くなるだけなので適当に返事をする。
夕食も食べ終えたし、長居してもいいことはなさそうだ。
「そろそろ帰るわ」
テーブルに置いてあった車のキーを手にとりながら言えば、
「何度も言うけど、長引かせてもしょうがないんだから話し合いなさいよ」と母。
何度もどころか会うたびにだろ――と、言い返したくなるところをなんとかこらえ、
「わかってる」
と、こちらもいつもと同じ返答をし、今日もまた実家をあとにした。
♢♢
妻の美帆は2年前に置き手紙一つ残して出て行った。
手紙には、頻繁に他人が寝泊まりするストレスのことや、居場所がないとか、先が見えないと書かれていた。
たしかにほぼ毎日友人たちを招いていた。終電がなくなれば当たり前のように泊まらせた。
酒を飲みながらの会話は楽しいし、仕事面でも他業種の話を聞くことができて学ぶことも多い。夫婦だけで単調な生活を送るのはまだ先でいいと思っていたから、悪いことをしている意識はなかった。
もちろん、友人達から本当に大丈夫かと聞かれることはあった。
けれど、美帆は不平を言わず、嫌そうな表情さえ一度も見せたことがなかったから、大丈夫と答えてきた。
まさかそれが美帆を傷つけた原因だと思いもしなかった。
妻が家をでる前日、帰りが遅かったり挙動がおかしいので、怪しく思い問い詰めると、離婚したいと告げられた。
理由もハッキリ言わず「もう無理なの」としか言わない。納得などできるはずもなく、頭を冷やさせるために慰謝料という言葉をだした。妻は冷ややかに俺を見ただけで何も言わなかった。
翌日、妻は体調が悪いからと仕事を休んだ。
俺は、心配というよりイヤな予感がして、仕事を早退した。
夕暮れどきの薄暗い部屋。いつもと変わらない様子にホッとした。けれど、やけに静かな室内。妻の名を呼び、ネクタイを緩めながらリビングに行くと、そこには白い便箋が置かれていて―――
忘れようとしていた、手紙を読んだ時の光景をまた思い出し、息を深く吸いこむ。
「……くそっ」
目についたソファのクッションを殴りつける。あの時の感情だけはいまだに処理しきれず、こうして物にあたって凌ぐことも一度や二度ではない。
離婚すればいいことくらいわかっている。
ただ、手紙一つで終わらせるつもりみたいだから、それは筋が通らないんじゃないかって話だ。
♢♢
「戻ってくると思う?」
「そういうこと、わざわざ言うなって」
「だって」
「なにがだってだよ」
「だって、女の浮気は本気って言うし」
「だからわざわざ……しっ! 悠真が来た」
――全部聞いてたし、そんなこと初めからわかってる。
逆にトイレに行って戻るまでの短時間によくその話をしようと思ったな、と女性の迂闊さに苛立ちを感じた。
今日は親友のマサトと、マサトの彼女が来訪している。結婚の報告だから彼女でなく妻か。
「婚姻届けの証人は俺に頼むんじゃなかったっけ?」
「悪い。そのつもりだったけどフミカの親友の、なんだっけ」
「彩子」
「そう、彩子さんと旦那さんが証人になりたいって……な?」
「そ、そうなの。ごめんね。あとから約束のこと聞いたから、今日は謝りに来たのもあって」
「冗談だよ。おめでとう」
(なんとなくイヤだよな。妻に逃げられた男に証人になってもらうなんて。それくらい俺だってわかる)
気まずそうに視線を送り合っている二人に祝いの言葉をかけながら、自分の“今”を思い自虐めいたことを考えてしまうのは仕方ない。
最近は訪れる友人が減った。妻が不在なことを気にする者、仕事が忙しい者、結婚したり恋人ができたり他に気の合う友人ができた者などが疎遠になっていき、今は週末に数人会う程度。普通ならそれを妻に伝えて戻るよう説得するところなのだろうが……
――今さら戻ってこられてもなぁ。
彼女の顔を見れば心が安らいだ。
一緒にいるだけで穏やかな気持ちになる女性だから結婚を申し込んだ。だけど、それはもう――
「悠真、次の約束があるからもう帰るわ」
マサトの声に、物思いからさめる。二人は既に立っていて、座る俺を見下ろしていた。俺も慌てて立ち上がる。
玄関まで送るつもりで、マサトの横に並ぶと「一人で抱え込むなよ」とこちらを見ずに一言。
「ちょっとボーッとしてただけなのに大げさな」
「……なんかあれば言えよ。力になるから」
「だから、なんの話だよ」
「なんでもない」
「じゃあ、またな」
「またな」
ドアを閉めて、フッと息を吐く。
“力になる”
その一言は、いつもなら必要ないと跳ねつけるのに今は心に残ったのを自覚している。
自分に足りないものを入れるスペースが、ようやくあいたような感覚だった。
――寄り添われたんだな、今。
俺に足りなかったもの。
いたわる気持ち。
それがあれば、こんなことにならなかったのだろう。
♢♢
妻の勤務先からは、たまに連絡がきていた。正確には社長の奥さんから。心が傷ついているから傷が癒えるまで自分のところで預かる、ということになっているから、元気にしているとかそんな感じで。
茶番すぎる。男といることくらい初めからわかっているのに。なぜ俺が疑わないと思うのか。大の大人が揃いも揃って。
《鈴木さん?》
電話口で名を呼ばれてハッとする。また考えこんでいたみたいだ。
マサトを見送ってすぐにかかってきた電話は、社長の奥さんからだった。
《すみません。もう一度言ってもらえますか》
《奥さん……美帆さんが今後のことを話し合いたいと言っています》
社長の奥さんは、いつもと違い少し言い方が硬い。
《今?》
《いえ、場を設けて後日に》
《妻は、そこにいますか》
《ええ。話します?》
――今、話す? なにを?
《妻は僕と話す意思があるのですか》
《あるようです》
《それなら、今はいいです。後日で》
――男と切れたか。
単純にそう考えた。
俺と直接会っても平気ならきっとそうだ。
勝手すぎる。
♢♢
話し合いの場はファミレスにしたいと連絡があった。よく聞くあれだろう。周りに人がいる方が冷静に話し合えるとかいうやつだ。妻は知り合いと一緒に来るという。俺が感情的になると思われたのだろうか。それは心外だが、確かに顔を見てどうなるかは自分でも予想できなかったから了承した。
話し合いの日に現れた妻は、見知らぬ女だった。
顔は妻だけれど、全く違うものに見えた。
思い出すたびに苛立ちを感じていたはずなのに、今はもうなんの感情もわかない。
――関わるだけ時間の無駄だ。さっさと終わらせて帰ろう。
やり残した仕事のような感覚になった。
俺は営業スマイルをつくり、彼女に謝罪を述べる。
ごめんね、いいよ、で離婚が決まった。
茶番劇の仕上げに、「今までありがとう」と握手を求めたら変な顔をされた。まるで、戻ってこいと言ったら戻ってきそうな。
それは勘弁と、手を引っ込める。
一瞬流れた奇妙な空気は、俺だけが感じたのだろうか。俺は戻ってこいとは口が裂けても言わないし、妻が戻る訳もないのに。
まるで、そんな未来もあると示されたような気がした。
数秒見つめ合ったけれど、俺が先に目をそらした。
「もう、行くね」と彼女が荷物を持ち、連れの女性も席を立つ。俺の返事は必要ないのか、二人が背を向けた。
(元気で)
声に出さずにそれだけ思った。
「ボケーっとして、何考えてる?」
茶番劇に付き合ったマサトが隣に座る。
「優しい心を手に入れた傷心の男はモテモテになるかなぁと考えてた」
「アホか」
「どう思う?」
「知らん。俺たちも帰るか」
「……今日は助かった」
「それが言えるなら次は大丈夫かもな」
「なんだそれ」
「別に。なんか食い足りないな。デザートたのむか?」
「いいね」
「疲れた時は甘いものだよな」
「だな」
「……おつかれさん」
「おつかれ」
これが一番先の明るい話な気がします。
もし三編ともお付き合いくださったかたがいるなら、ありがとうございました。
★誤字報告をいただいたので修正しました。なんとなく雰囲気でひらがなにしていましたが、見直すと漢字の方がわかりやすいですね。報告、ありがとうございました。