008:大切なもの
いつものように仕事を終えたあと、いつもとは違いミライは組合へ顔を出した。
仕事を辞めるためである。
新しく人が入ると聞いたので、それを機に氷の運搬業務を辞めて王都に向かおうと思っていた。
組合にその旨を告げるべく担当だった男性を呼んで貰ったのだが、
「おい! そいつがよくてなんで俺がだめなんだ!」
話している最中に横からミライと担当の間に入ってきた男がいる。
男はがっちりとした体付きでいかにも現場で働いていそうな雰囲気だ。
ミライは困惑して担当者を見るが、担当者は慣れたとばかりに首を振って男に言い放つ。
「あんた、今まで何回問題を起こしてると思ってんだ?記録がちゃんとあるぞ。過去三回、現場で恐喝まがいのことをしてるじゃねえか」
「恐喝だぁ? 俺はただ仕事についてちょっと聞いただけだろうが!」
「自分の仕事を他人に押し付けたそうだな? そんなことすれば仕事はなくなる。既に三回注意しただろうが」
「そんな証拠がどこにあんだ? 俺はやってねえ。仕事のことでわからないところを教えて貰っただけだ!」
間にミライを挟んで大きな男が言い合いをする様はなんとも滑稽で、何より挟まれたミライが可哀想だ。
組合にいたほぼ全員がミライを不憫に思っていた。
若干男からの唾も飛んでいる。あの子可哀想だな、と小声で誰かが言ったが、止めようという勇気のあるものはこの場にはいないらしかった。
しかし、こっそりとその場にいたものの一人が組合を出て行く。
そして、その数分後には治安維持隊へこの件が報告されていた。
「氷の運搬くらい、俺にだってできる。そいつは辞めるんだろ? その穴を俺が埋めてやるって言ってんだ」
「余計な気を回さなくとも新しい人間は決まっている。こいつは追加の人員が決まってから辞めると申し出たんだ」
「こんなお嬢ちゃんを使ってたんだ、新しい人員なんぞより俺の方がずっと役立つだろうが! 二人分働いてやる。新しいやつには別の仕事を回してやれよ」
よっぽど自分に自信があるらしい。
男は担当者にそう言い切ってミライの肩を押しのける。
それが、一つ目の「切っ掛け」だった。
「わっ……」
急に押しのけられたミライはそのまま転倒した。
とはいっても尻餅をついたくらいで、顔から転倒したわけではない。
ぺたんと床に座り込むような形になり、男はそのまま前に進んだ。
しかし、ミライはハッとして声をあげる。
「……足を!」
「あ?」
「足をどけてください!」
「はあ?」
ツヴァイの上着の端を男が踏んでいたのだ。
ツヴァイの上着は通常のものより丈が長い。現代でいえばコートのようなものである。
裾の長いそれはミライが着れば膝の裏くらいまでの長さになる。が、今現在ミライはツヴァイのコートを腕にかけるだけにしていた。
着ていたわけではないのだが、こんなことになるならば着ていた方が良かったかも知れない。
現場であまりにも心配されるので、しぶしぶミライはツヴァイのコートを着ることにした。
それがつい昨日のことだ。
現場から出たミライはその足で組合へ向かい、組合に入る前に着ていたコートを脱いでいた。
その際、亜空間に仕舞おうかとも考えたのだが、思いのほか人通りが多かったので、宿屋に帰ってからコートは仕舞うことにしたのである。
腕にかけていた焦げ茶色のコート、ツヴァイの愛用していた上着。
その裾が男に踏みつけられて靴の下敷きになっていた。
「足をどけてください。踏んでいます!」
ミライはいつになく声を荒らげた。
しかし、それが鼻についたのか男はコートを踏んだままその場にしゃがみこんだ。
「なあ、お嬢ちゃん。お嬢ちゃんからも言ってやれよ。現場じゃ俺みたいな男はかなり役に立つだろ?」
「そこを退いてください」
頑なに退けと繰り返すミライに驚いたのは男だけはなかった。
ミライを担当していた中年男性も、こんなに強気なミライは初めて見たと内心驚愕していた。
しかし、その理由が担当者の男にはわかる。
つい先ほど、語られたのだ。
――ツヴァイのコート。
ミライの父親がミライに遺してくれたものなのだと。
また長話にならなきゃいいが、と思っていた担当者だったが、ミライはあっさりと自慢し終えると本題に移り辞職の為の手続きを始めた。
だからそこまで注目していなかったが、これほどミライが主張するということは男が想像していた以上に大切なものなのだろう。
「おい、あんた。こっちに座れ。話だけは聞いてやる」
コートから離そうと担当者は声をかけたが、男はミライを睨みつけてあろうことか足を動かした。
「言えよ、ほら! 俺の方が相応しいって言えよ!」
ミライの反発的な態度を見て意地にでもなったのか、男は執拗にミライに迫り怒鳴り声をあげる。
「退いて……汚れる……お父さんの上着が汚れちゃう……」
「言えっつってんだろうが!」
「おい! あんた! いい加減にしろ!」
男の怒声が一際大きくなったのを切っ掛けに、担当者はカウンターを叩き男の注目を引いた。
「そこを退け! その子が持ってるコートはその子にとって大事なもんだ! あんたがどうこうしていいもんじゃない!」
はぁ?とでも言いたげな顔を男が浮かべたその数秒後、組合の入口から帯剣した男が入ってくる。
くすんだ白の眼帯をした、逞しい体付きの壮年の男性だ。
明らかに一般市民とは違い、荒々しい雰囲気を醸し出している。
治安維持隊、隊長――過去に王都の大会で表彰されたことがあるらしいとの噂の持つ武闘家の男だった。
「治安維持隊、隊長のオストラルだ。周りの人間、誰か一人でいい! 状況を説明してくれんか。それから、そこの男、お嬢ちゃん、組合の……ザイナンか。その三人は一切動くな!」
迫力のある低い声でオストラルはそう言って、周囲をぐるりと見渡した。
組合のカウンターに座っていたもうひとりの組合員がそっと前に出る。
「私で良ければご説明しますが……」
「いや、ザイナンが間に入っているからな。組合のもの以外で――この男とお嬢ちゃんを知らない人間はおらんか? 公平に状況を説明して欲しい」
そう言うと、オストラルは近くにいた隊員に小声で騎士団への報告を命じた。
「誰かおらんか。身柄の安全は保証しよう。この件で証言をしても何ら不利益を被ることはないと隊長として宣言する! 誰かおらんか!」
オストラルの問いかけに、ひとりの男が前に出た。次いで、四十代くらいだろうか、薬草の入ったかごを持つ女性も意を決して前に出る。
「俺が説明しよう」
「あたしも説明するわ。一人じゃ公平とは言えないでしょうから」
勇気ある二人にオストラルは感謝を持って会釈をする。
事情を聞こうとオストラルが動き始め、治安維持隊が来てくれたことで周囲も安堵していたが、ミライだけはふつふつと怒りのゲージを上げ続けていた。
「だから!」
「……なんだ?」
「退いてよ! 足を退けて!」
オストラルが怪訝な表情で振り返ると、ミライは悲痛に眉を顰めて今にも泣きそうな顔をしていた。
「ああん? 動くなって言われてんだろうが。動きたくても動けねぇんだ」
からかうように男が言った。その場の全員が、男に対して不愉快な感情を抱く。
そしてこれが、ミライにとって二つ目の「切っ掛け」だった。
「隊長さん、この男が踏んでる上着はこの子にとってすげえ大事なものなんだ。返してやってくれねえか」
組合のミライの担当者――ザイナンがミライにとっての助け舟を出す。
オストラルは少し考えて、それを許可しようとした。しかし、許可の言葉を口にする前に男は笑い声をあげて足の角度を斜めにする。
ミライは、気が付いていた。
じっと足元だけを見ていたからだ。
周囲が男の声に気を引かれて男の顔を見ている間に、三度。
ぐり、ぐり、と動かされたつま先がツヴァイのコートを傷つけた。
「足をあげろ。そのコートを返してやるんだ。問題はないと判断する」
オストラルがそう言うと、男は面白くなさそうな顔をして足を――思い切り引いた。
ツヴァイのコートは革製ではない。
この世界にしかいない生き物――その生き物の毛から作られているコートだ。
かなり使い込まれて古くなっていることもあり、扱いは丁重に行っていた。
洗濯も乾燥も、手入れはすべて魔法で行っている。
この世界の人間が聞けば「なんて贅沢な」と思うであろうたっぷりの魔力を使い、ミライは大事に扱っていた。
こんな事態を想定して、保護の魔法をかけておけば良かった。
何重にも魔法をかけて、決して損なわれることがないようにしていれば良かった。
修繕はできるだろうか。
元の状態に戻せるだろうか。
時を戻す魔法なんていうものができるだろうか。
ツヴァイが遺した状態に戻すことが最優先だ。新品になっては意味がない。
ツヴァイの歴史があるからこそ、このコートが大事なのだ。
ミライはとても後悔していた。
どうして予測しなかった、どうして魔法をかけなかった。
踏まれた瞬間から、ずっと自分を責めていた。
ビッ、と歪な音がして、気が付いたらミライは魔法陣を展開させていた。
「――消失。消して、消して、消して、消して! 魔力提供者は私、ミライ! おねがい、今すぐ消してっ!」
何を、と指定しなかった。
しかしミライの魔法はとても優しい。何よりもミライの気持ちを汲んでくれる。
発動したのは消失の魔法、範囲はミライが望むよりずっとずっと狭かった。
ミライはいまここにあるもの全部、それから男を消したいと願い、本心では人を消すことに躊躇いを感じていた。
感情的になったミライの、心の奥底をやさしい魔法はすくい取る。
魔法陣が浮かび上がり、一瞬で周囲の物は消えた。
人間以外の物、その周辺にあった物がすべてきれいに消えた。
人が身につけていたものは消えていなかったが、組合の建物も周囲の建物も全て消えて呆然とする人だけが周囲に残っていた。
騎士見習いはものものしい雰囲気を感じ到着してからも中に入らず、外で様子を窺っていた。
もし、ベルガー――マーメント担当の正式な騎士団の騎士が来ていれば躊躇いなく組合の中に入っていっただろう。どれだけ面倒臭がりでも騎士団所属の男である。
そして、事態を最悪にした男もまた騎士団が来ていればずっと早くに身を引いていただろう。
治安維持隊という存在はあまり立場が強いと思われてはいない。
実力あれど、騎士団のネームバリューには敵わない。
日本で言うところの、治安維持ボランティア団体の男性と警察くらいの違いがあった。
真っ青な顔をしてベルガーに報告をした見習いは、その翌日に見習いをやめ、実家の農業を継いだという。
あんなに恐ろしい現場に、自分は出ていけない。
一生騎士にはなりたくないと思うほど強烈な事件だった。
ベルガーは街の惨状に驚き、慄き、それでも事態を把握することに努めた。
魔法を使ったという少女はぼろぼろと涙をこぼしながら、焦げ茶色の上着らしきものを強く抱きしめていた。
魔法使いのための手錠というものを厳重管理庫から持ってこさせ、ベルガーはその少女の腕に嵌めた。
驚く程、抵抗はされなかった。
話を先に聞いていて、上着を取り上げなかったのが幸いしたのかもしれない。
少女はミルァイと名乗り、俯いてベルガーにおとなしく連行された。