帝國建つ
九月二一日
「そうか、甲斐将軍は勝利を収めたか」
日郷から西へ向かった隼人たちは、伝令兵から幾つかの伝達事項の一つとして、その情報を得た。真紅の鎧に身を包んだ彼の傍らには、赤毛の女性が並んでいる。彼女はその手に自らの背丈ほどもある錫杖を持っていた。錫杖の上部には鳥が翼を広げたような飾りが付いており、その飾り部分には、幾つかの宝石がはめ込まれている。これが彼女の武器だ。
「智顕の予測通りに物事は動いているな。そうすると、俺たちはより一層、隠密行動を要求される訳か」
彼らが率いる部隊はこのまま西へ向かい、柴津を治める諸侯、御子柴義時の支配する神科城を偽装攻撃する手筈になっていた。神科城を抜けば、後は御子柴の本拠地である津見までは目と鼻の先だ。ここを坐視するはずもなく、必ず柴津から援軍が送られるか、もしくは柴津への援軍がなくなるかのどちらかだ。いづれにせよ、柴津の備えは薄くならざるを得ない。
「智顕の師匠は、恐ろしい兵法を編み出したんだな……」
今更ながらに彼は感慨深げに呟いた。今までは小人数の戦闘しか経験したことがないので、それほどに脅威には感じなかったけれども、こうして本格的な戦争を行う段階に至ると、その効果的な運用法は末恐ろしくなってくる。
「何も知らない敵に同情したくなってくるな」
「何を言っておる隼人!」
いきなり彼の頭に拳骨が見舞われた。その主は言わずと知れた赤毛の女性である。
「いって~……、瑞穂、その口より先に手が動く癖は、直した方がいいぞ」
殴られた後頭部をさすりながら、隼人は抗議する。しかし彼女に応えた風はない。
「莫迦なことを言うからだ。敵兵に同情してどうする。これから戦おうという者には情けを見せてはならぬ。投降しようとする者には情けをかけても良いが、戦いに情けは禁物だ。最後には自らを滅ぼす元になる」
瑞穂の言葉は一々もっともだった。隼人は反論の糸口が掴めなかったので、後頭部の痛みにかこつけて、それ以上は何も言わない。
「よし、では出立だ」
瑞穂が号令をかけると、二千人余の歩兵部隊は滞りなく進軍を再開した。目的地である神科城までは後一日で到着する。けれども今日はギリギリまで近づいて、攻撃を仕掛けるのは明後日だ。日取りを間違えば、作戦は水泡に帰す。
「やはり思い通りに動く兵たちは良いな。誰かさんたちのように、思い通りに動かぬ連中は、指揮せぬぞ」
「思い通りに動かなくて、悪かったな」
「ああ、お蔭で、一度は死ぬような目にも遭ったしな」
瑞穂が言っているのは、先の魔族討伐時である。その時は彼女だけでなく、全滅寸前までになったのだから、隼人にすれば、言われたくない出来事だ。
「相手にもよる」
憮然とした表情で彼は一言だけ返した。その一言で瑞穂は全てを諒解したのか、大きく口を開けて笑い出す。
「あれほどの戦いを経験したのだ、これから先にあれ以上の困難はないだろうな」
「そう願いたい」
隼人は瑞穂の豪胆さに半ば呆れていた。これでは男同士の会話と同じだ。
「……一体、どこで瑞穂の性格は、こうなったんだ?」
以前より抱えていた疑問がつい口から出る。彼女とは出会った当初からこうなので、どの時点までが女性らしかったのかは判然としない。
隣を歩く瑞穂は、大股で進んで行く。隼人は遅れないように歩調を合わせた。それでもいろいろと考えながら歩き続ける彼に、瑞穂が声をかける。
「おい隼人、どの辺りまで進めばいいのだ?」
「ん、ああ、そうだな……」
彼は思考を停止させて周囲を確認する。隼人は既に目的地に辿り着いているのを確認して、それを彼女に伝えた。
「全軍停止!」
瑞穂の号令に従って、部隊は停止する。更に宿営の準備を命令して、彼女自身は兵士たちを見て回る。兵士たちの心を和合させるのも将軍たる者の使命だ。そうこうして、陽が没する前に宿営の準備を終えた。
「火はなるべく起こすな。敵に察知されぬように用心せよ」
瑞穂の命令が再び全軍に伝えられる。その命令で、本来ならば灯される松明が灯されない。周囲は暗闇であり、ここで奇襲攻撃を受ければ全く抵抗できないかも知れない。けれども兵士たちには未だ訓練中であると偽っているので、恐れて逃げ出したり、騒ぎ出したりという不都合は起こっていなかった。
「こうなると、ほとんど詐欺だよな」
隼人は一人呟いた。智顕の策とは言え、兵士たちを騙したまま敵地に投入するなど、今までの兵書には書かれていない。
「だから恐ろしい兵法なんだよな……」
軽く溜息をついて、彼は自らの天幕に引き上げた。明日はいよいよ敵地に侵入する。戦闘も予測されるため、充分に休養を取っておかねばならない。何も考える暇もなく眠りについていた。
さて、この辺りで柴津側の状況を見よう。
柴津は柴川の南側に広がる商業都市で、本拠地である津見とは船を用いて連絡されている。最前線に位置し、経済的にも重要な拠点であるので、ここに駐屯する兵士たちは多い。街の周囲は堅固な石壁で囲まれ、容易に敵を寄せ付けない。ここを守る主将は、義時の血族、御子柴高時だ。彼は防禦戦に優れ、冷静沈着な将軍との評判があった。
「将軍、八山に派遣した部隊が全滅しました」
「なんと……」
高時は配下の報告を受けて絶句する。八山を攻略はできないまでも、三日ほどは戦えるだけの兵力を派遣したつもりだった。
「派兵してすぐに全滅するとは、一体何が起こったのだ?」
冷静に思考しても答えは出ない。一日の一回のみの戦闘で全滅したとなれば、彼ならずとも苦悩するだろう。
「我が軍勢を破ったのは、どこの軍勢か?」
「八山に援軍としてやって来た、日郷は旭野昇配下の将、甲斐力也です」
「旭野が援軍に?」
高時は腕組みして考える。八山や真津だけならば、どうにか柴津を守備できるが、日郷の軍勢が加わるとなれば、話は別だ。
「津見から増援を呼ぼう」
高時の判断は的確と言えた。
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