薄汚れた神
「傑作とは牢獄から神に向かって書かれた手紙の事だ」
彼はよくそんな事を言っていた。少々気障だったが、それが彼のお気に入りのフレーズだった。
私は質問したものだ。「本当にあらゆる傑作がそうなのか?」と。彼はすぐにーー待っていたようにーー答えた。
「そうだ。全てがそうだ。『源氏物語』にしろ、『ドン・キホーテ』にしろ、『カラスのいる麦畑』にしろ、あらゆる作品がそうだ。全ては神に捧げられた供物だ。だが、人が神に供物を捧げるには、牢獄に入っていなくてはならない」
「どうして牢獄に入っている必要がある?」
「人間を斥ける為さ。神に出会う為には、人間から疎外されている必要がある。考えてみろ。『人々』と一緒くたに仲良くなっている連中に、神に出会えるはずがない」
「僕の記憶ではゲーテは社交的な人物だったそうだがね?」
「ゲーテか……。彼は内心に牢獄を飼っていた。嘘だと思うなら『ゲーテとの対話』を読めばいい。彼は胸中深くに孤独の檻を飼っていて、その中から『ファウスト』を書いた。ゲーテが『ファウスト』に七重の封印を施した事を思い出してみればいい。彼もまた、牢獄から手紙を書いたのだ」
「ふーん。それは全ての場合に当てはまるのかね?」
「全て、だよ。まあ、牢獄を失った現代では、もうそれを当てはめる必要がないがね」
彼は一瞬立ち上がって、すぐ座った。彼にはここが、本当に牢獄に見えているのかもしれなかった。
「誰もいない。人は一人もいない。全てが『人々』になってしまった。そこいらの誰彼と喋ってみろ。どいつでもいい。みんな同じ顔をして、同じ事を話す。どこの国の人間でも。多様性という名の元、みなが同じ面で同じ事を言うようになった。この私の言葉に対しても、どこかで聞きかじった言葉が差し向けられるだろう。彼らは集塊だ。彼らは……神に向かって言葉を発する機会がない。いいか、君にだけは言っておくが…」
彼は人差し指を立てた。
「神がいなければ人間はいない。人間は神との対比で地上に現れるものだ。…同時に悪魔も現れるがね。それにしても、今は人間しかいない。だから、『人間』はいなくなった。牢獄は消えた。神も消えた。何もかも消えた。人類の消滅も間近だ」
「そうか。それは…困ったな。しかし、今も傑作はどこかにあるんじゃないか」
「ありはしないね。牢獄が消え、神が消えた為に、あるゆる作品は堂々巡りの世界を回覧するものとなった。誰に向かっても書かれていない言葉や作品。それが、同一者達の群れによって消費されているだけだ。彼らは神を失い、人間も失った。彼らは獣でもなければ神でもない。何者でもない。彼らは人間ではない。人間ではないからこそ、人間性を主張する。彼らは自分達は人間で、あらゆる権利があると主張する。彼らは人間ではないから、そう主張せざるを得ないのだ。彼らもまた自分達が何者でないかにうっすらと気づいている。だから、彼らはそれを装う」
彼は頭をボリボリと掻いた。
「終わりだよ。この世界は大きな牢獄になってしまった。あまりにも巨大な牢獄になりすぎて、誰も牢獄とは思わなくなったのだ。この世界はユートピアとディストピアが渾然一体となっている。病院は天国に似ていると言うだろう? この世界そのものが牢獄なんだ。しかし、あまりにも牢獄は広すぎる為に、誰も檻の中に入っているとは思わない。驚いた事に、看守も支配者もみんな、自分から牢獄に入ってしまった。この檻はでかすぎる。だから、誰も檻の外を想像する事すらできない。地獄だ。地獄だよ」
「そこからなら神に向かって手紙を書く事はできない?」
「神は殺された。ニーチェの言うとおりだよ。神は牢に入れられ、リンチされて殺された。そこで、世界は牢獄となり、支配者も被支配者となり、全ての人間が自分達が生み出したものに洗脳されてそうして自分達が全てだと信じ込むようになった。大したものだよ。これを『歴史的進歩』と言っているのだからな」
「もうどうにもできないと言いたいわけか?」
「私が言いたいのは…『どうにかする』という言葉の意味そのものがこの空間の中では捻じ曲げられるという事だ。私の言葉の全ては、意味が変換され、変質し、別の何かになる。私は私の言おうとする事を禁じられている。神は内側にいる。つまり、人々は共同の神であって、そこで全ての事が決定されるが、誰一人として決定者はいないんだ。反抗者もいない。私の言葉は反抗そのものだ……それによって、意味が消えるか、変質するんだ」
「今、君の言っている言葉も変質するのか?」
「そうだ。その通り。君にもわかってきたようだな。この世界は地獄だよ。ユートピアという名の地獄だ。例えば、『望む』という事を考えてみればいい。人々が口々に言う『望む』とは望まさせられている事を指している。人々はシステムから与えられた欲望を自分の欲望と誤認する。世界の望みを自分の望みと理解する。だが、それを支配する人間すらいない。黒幕はいない。誰もいない。いれば楽だがな。黒幕は最初に自分自身を洗脳してしまった。だから、誰しもが、『そう』なっているのだ。」
「それで? 傑作はもはや不可能だと?」
「そうさ。この牢獄に『外部』がなくなったからな。だから、外部に向けて手紙を書く事もできなくなった。外部の神は死んだ。外部にいられるのは神だけだ。悪魔は、我々の中にいるが、ある意味、悪魔は我々の仲間だ。神は敵なんだよ。『外部』という意味においては。我々はとらわれているが、それは自らそう望んだからさ。頭をロボトミー手術されて、その後に『ロボトミー手術される事の正当性』を必死にみんなで主張している。そんな滑稽な連中が世界の大半となった。いいや、『全て』と言っていいだろうな。彼らは望む。が、望む以上の事は望まない」
「なるほどね。君の言いたい事はうっすらとわかってきたような気がする。極めて抽象化されていてわかりにくいが……それで? 君はそうした人々の中で、一体何をしようというんだ?」
「何も。ニーチェは発狂した。私もまた発狂しようと思っている」
「……しかし、最後に聞きたいのだが……重要な事だ。君はどうして、僕にそんな話をした? 僕もまた、腐った『人々』の一人だろう? どうしてそんな話をした?」
「君は友人だからだ。私の唯一の…友人だからだ」
「ほう…しかし、それなら君の論理には綻びが出るな。なぜなら……」
その時、ウエイターがやってきた。ウエイターは「失礼します」と言って、二人分のコーヒーカップを取り上げて持って行った。
私達はあまりに長く話をしていたらしい。私達は立ち上がった。勘定を済ませ、店を出た。彼はそそくさと別れの挨拶をした。私はろくに返答もしなかった。彼は右に折れ、私は左の路地に入った。
歩きながら、私は何か言い忘れたような気がした。が、それが何か、どうしても思い出せなかった。
しかし、そんな事はどうでも良い事だった。
私は駅に向かい、電車に乗った。私は彼と会って話して、疲れていた。明日の仕事を考えると、気が遠くなった。
その後、彼とはロクに会わなかった。月日が過ぎ、彼とは音信不通になった。私は別に驚かなかった。メールの返信がなくても、腹も立たなかった。
それ以降、彼と会う事は二度となかった。声を聞く事も。それでも、私は時々、彼の姿を思い出した。
彼はまるでーーこの人間路地を歩く、薄暗い天使の姿だった。あるいは地上に遣わされた神だったのかもしれない。私の記憶の中の彼はとてつもなく薄汚れたコートを着ていた。髪も伸び放題で、全体に灰色のイメージだった。私は思った。彼は現代に現れた「神」だったから、あんなにも薄汚れていたのだと。あんなにも薄汚れた男を後にも先にも私は見た事がない。それにも関わらず…いや、それだからこそ、私の記憶の中の彼は神々しかった。彼は今も薄汚れたコートを着て、この世界のどこかを歩いているような気がする。そんな気がした。