境界を越えて(2)
「ありがとうございました! また来てくださいねー!」
土曜日、夕暮れ時の商店街。
その声は、行き交う雑踏を貫いて元気よく響き渡った。
声を辿ると、見えるのは小さな喫茶店。
一見すると古めかしい外観だ。
入り口には可愛らしいポップ調の文字で『Cafe Cait Sith』と書かれている。
その入り口に、ひとりの少女の姿があった。
鳴瀬結菜。
今年で19歳になるその少女は、さらさらのショートカットを風に揺らして、満面の笑顔で去っていく常連客の背中に手を振っている。
彼女はこの喫茶店のただ一人の従業員。
老若男女問わず人気で、彼女を目当てに来店する常連客もいるほどだ。
クォーターでありながら金髪碧眼。
確かに人を惹き付ける外見をしてはいる。
とはいえ、別に飛びぬけての美少女というわけではない。
スタイルも普通で、むしろ本人的には“小さい”ことが悩みの種である。
彼女の強みはその節々から溢れるハツラツとした陽気さと、飾り気のないあっけらかんとした雰囲気。
何より誰に対しても気さくに接することのできる人当たりのよさにあった。
「ふぅ、今日も忙しかったー。叔父さん、肩凝ってない? 何ならマッサージしてあげようか?」
店内に戻った結菜は大きく背伸びをすると、カウンターの向こうでティーカップを磨く長身の男性に明るい調子で声をかける。
閉店まではまだ少し時間があった。
しかし、普段の客足から察するに、これより後に来店する者はほぼいないと言っていい。
多少気を抜いたところでさしたる問題もないだろうが……。
「遠慮しておこう。君に任せたらかえって肩が凝りかねない」
「あ、ひっどーい! せっかく十代の女の子が合法的にお触りしてあげようって言ってるのに!」
頬を膨らませる結菜に対し、喫茶店のマスター・鳴瀬竜胆は、なんともいえない微妙な表情を作る。
そして、ため息混じりに磨いていたカップを置いた。
「申し訳ないが、君を異性だと認識したことはないのでね。子供に触られて悦ぶ大人はいないだろう?」
「こう見えて19歳なんだけど!? 来年でもう大人の仲間入りよ、私!」
「そうだったな。なら、もう十代というのも苦しいと思わないか?」
「ぐぬぬ……。ああ言えばこう言う……」
結菜は昔から、竜胆に対して口で勝ったことが一度もない。
彼は結菜の雇い主であると同時に叔父でもある。
幼い時に両親を失った彼女にとっては、唯一の保護者だった。
付き合いの長い間柄だからこそ、結菜の扱いをよく心得ているということなのだろう。
ただ、だからといっておとなしく引き下がってやるのも、なんだかしゃくに触るわけで。
「そんなんだから、四十近くなっても彼女のひとつできな……うひゃああああっ!?」
結菜が決死の反撃をしてやろうと口を開きかけたその時。
完全に閉まりきってなかった玄関のドアから、なにやら黒色の塊が飛んできた。
それはそのまま結菜の顔面に直撃すると、彼女のことなど意も介さぬと言うように机の上に飛び移り、竜胆の方へとぴょんぴょこ軽快な足取りで跳ねていく。
いきなりのことにすっかり固まっていた結菜だったが、
「ちょ、ちょっとロア!? あんたいったいどっから飛んでくんのよ! びっくりするじゃない!!」
怒りもむなしく。
ロアと呼ばれた黒猫は、ほんの一秒にも満たない時間、結菜の方をちらりと一瞥しただけだった。
「くっそー! また無視されたー!! あんたってばなんで毎度毎度あたしに嫌がらせしたあげく、そんなツンツンした態度わけ!? あんたがこの店に居つくようになってかれこれ2年、あたしにデレたの一回も見たことないんだけど!」
「と言っているが、どうなんだ? ロア」
愛用の銀縁メガネをかけ直しながら、飼い猫へと問いかける竜胆。
だが、しょせんただの猫である。
人の機微など分かるはずもなく。
「……にゃーご」
むしろ不機嫌さ全快のダミ声で短く鳴いた。
結菜のことなど、見向きもせずに。
「まあ、そういうことだ。残念だが、諦めたまえ。……それよりも、結菜」
「なによ?」
こみ上げる感情はあるものの。
これ以上、獣相手に腹を立て続けてもしょうがない。
気持ちを切り替え、竜胆へと向き直る。
「今日はどうする? 少しでも練習していくかね?」
「あー、うん。そだね。前やってからちょっと間も空いちゃったし。それに、明日からはまた出張なんでしょ? いいよ、教えて。叔父さんの“占い”」
***
そっと目を閉じ、深呼吸。
心臓から指先まで、くまなく神経を研ぎ澄ます。
雑念を追い出し、外の情報をシャットアウト。
すべての感覚を、己の内面のみへと向けていく。
眠りに落ちるように深く、より深く。
そうして、ゆっくりと目を開けると……。
「どうだ? なにが見える?」
伯父の言葉には答えず、目前の机へと視線を凝らす。
そこには何枚かのカードが裏返した状態で並んでいた。
一見、ただのタロット占い。
しかし、結菜にはまったく違う世界が見えていた。
「……青い光。ぼうっとしてて、まるで火の玉みたいな。霊子……エーテルって言ってたっけ。それがいっぱい、カードの周りを包んでる」
「それでいい。少しは慣れてきたようだな」
褒められているのだろうが、喜んでもいられない。
せっかくの集中力が途切れるからだ。
あくまでも意識はカードに集中。
竜胆の声は、BGM感覚で思考の片隅に置いておく。
「エーテルは空気中にごく自然に存在する微粒子。ただ、物理的に観測するのは不可能に近い。霊感と呼ばれる感覚をもってのみ、感知することが出来る。ちょうど、今の君のようにな」
幼い頃から、結菜は特殊な感性を持っていた。
明確な根拠こそないものの、これから起こる出来事を予感したり、こうなって欲しいと強く願ったことが叶ったり。
そういう経験が、これまでに幾度となくあったのだ。
竜胆に言わせれば、その感覚こそが霊感というものらしい。
「エーテルは人の意志に強く反応する。あれこれ思う必要はない。強く念じればいい。そうすれば、エーテルが自ずと答えを導く。今の君にとって、一番必要な答えをな」
なんとも現実味のない竜胆の話。
まるで、危ないセミナーでも受けているようだ。
しかし、そんな彼が趣味でやっている占いは、非常によく当たると評判だった。
ほぼ毎日のように、何人ものお客さんが噂を聞きつけてやってくる。
そんな叔父の姿を近くで見てきたからこそ。
彼の話はたぶん事実なのだと、結菜も自然と信じられるのだった。
いつか自分も叔父のようになってみたい。
そう、憧れるほどに。
「なんとなく分かるよ。これとこれは違う、これも違う。エーテルの輝きが淡いから。強く光を感じるのはこれと、それからこれと……。あと、これとこれも」
「ふむ、なるほどな。では、その中からひとつだけ。君がもっとも強く輝きを感じるものを選ぶといい。迷わず、考えず、感じるままに。ただ、カンや直感で適当に選んではならない。あくまで君自身の予感に従い、自分の意志で選ぶこと」
まったく無理難題を言うものだ。
直感ではなく、感じるままに?
予感に従い、自分の意志で?
きっと、少し前までならこの時点で投げ出していただろう。
ただ、今は違う。
訓練を重ねてきたことで、叔父の言うことも少しは理解できるようになっていた。
「……うん。やってみるよ」
竜胆の言葉に頷き、感覚をより研ぎ澄ます。
そして念じる。
自分が何を求めているか。
自分が何を願っているのか。
強く、もっと強く。
そうして、数あるカードの中でただひとつ。
一際強い輝きを放つカードを、結菜は見つけた。
「じゃあ、これ」
手に取ったカードを表返す。
描かれていた絵札は、
「……運命の輪」
自ずから発した言葉に、結菜の心はざわついた。
占いとは言っても、所詮は何の変哲もないただのカードだ。
でも、それを自分の意志で選んでしまったことに、奇妙な必然性を感じる。
不安感?
いや、違う。
期待感なのだろうか。
この、言い知れない心の高揚は。
しかし、そんな感傷に浸る間もなく。
「うみゃー」
鳴き声と共に、ガサゴソという音が聞こえ、結菜は思わず振り向いた。
見ると、カウンターの端に置かれた小さな紙袋を、ロアがごそごそと漁っている。
「あ! ちょっと、それ!」
さっきまでの集中力もどこへやら。
結菜は思わず声を荒げる。
無理もない。
なにしろ袋の中には、彼女にとって大事なものが詰まっていたのだ。
「それはダメ! 本当にダメなんだから!!」
あまりの剣幕にただならぬ気配を感じたのか。
ロアはほんの一瞬だけ結菜へと振り返ると、すぐさまぴょんと飛び退いた。
その一部始終を静かに見ていた竜胆は、ほんのわずか考え込むように瞼を細めると、
「そうか、今日だったな。彼がいなくなったのは」
叔父の言葉に、結奈は何も答えない。
ぐっと拳を握り、唇を噛みしめただけだった。
「……今日はここまだ。日の暮れも早くなってきた。明るいうちに行ってくるといい。夕飯は私が構えよう」
「いいの? 夕方には出るって言ってたのに」
「構わないさ。旅の支度はもうできている。それに、成長した君にしてあげられることも、そう多くなくなってきたしな」
いつになく穏やかな竜胆の声が心に響く。
だが、その優しさがかえって彼女の胸を締め付けていた。
気遣われ、労られるほどに、自分はまだ沈んでいるのだと。
今もなお、逃れ得ない過去の傷に。
決して忘れることのできない、“彼”の思い出に。
行き場のない感情を押し殺すようにして。
「……うん、ありがと! じゃあ、お言葉に甘えて先あがるから。後片づけ、よろしくね!」
精一杯の空元気を振りまき、結菜は外出の支度に取りかかった。