境界を越えて(1)
争いというものはどこの世界にも存在する。
生命がふたつ揃えばそこに強弱が生まれ、支配するものとされるものが定義されるからだ。
それこそが万物の真理にして、自然の摂理。
誰もその輪からは逃れられない。
“その世界”は多くの幻想に満ちていた。
絵画のように美しく、命の息吹に彩られた大自然。
自然法則すら捻じ曲げて意志を具現する、奇跡の力。
そして、その力を科学利用することで高度な文明を築いた、偉大なる種族“エルフ”。
しかし、かように神秘的な世界にも、争いの種は尽きることがない。
階級間の抗争。
民族間の紛争。
国家間の戦争。
そして、種族間の生存競争。
争いは犠牲を生み、犠牲は新たな争いを生む。
それは永劫続くメビウスの輪。
望む、望まずに関わらず、誰もが求めるものを掴むために戦いに明け暮れる。
その世界の名は“エア”。
境界の先。
遙か天空に存在する、もうひとつの現世。
物語は、あるひとりの少年がエアに招かれて、ちょうど八年を迎えた日より動き出す。
***
「……遅かったな。もう来ないんじゃないかと思ってたぜ」
苛立たしげな声が、涼やかな夜空にこだまする。
淡い月明かりに照らされて、風化した赤い石畳に三つの影が浮かび上がっていた。
「お待たせして申し訳ありません。少しばかり準備に手間取ってしましまして」
「しっかりしてくれよ。俺たちは今日の作戦にすべてを賭けてるんだ。今回のチャンスを逃せば、次はいつになるか分からない。……そうだろ?」
「ええ。だからこそ失敗するわけにはいかないのです。ご安心ください。私も重々承知していますよ。『力を示し、自分たちの居場所を勝ち取る』 貴方がどれだけそれを望み、そのために戦ってきたのか」
そう語るのは、全身を赤い布で纏った妖しい男。
口調は穏やかながらも、しかし声音は冷ややかだ。
おおよそ本心から告げられているような印象は受けない。
無機質で無感情。
まるで用意された台本を読んでいるような……。
そんな違和感があった。
「ふん……。ま、構わねぇさ。俺だって感謝はしてるんだ。あんたがこの話を持ってきてくれなきゃ、俺たちはあのまま泥水をすすり、寒さに震える生活を続けるしかなかった。戦いになれば使い捨ての肉の壁、勝っても負けても無一文。……もしかしたら、今日明日にはくたばってたかもしれない」
「なるほど。それが貴方たち、“獣憑き”――失礼。ワイルドエルフの生き方、というわけですか。実に涙ぐましいことです」
「どこに行っても、どこで生きても差別や迫害からは逃げられない。はじめから俺たちに生きていい世界なんてないんだ。この世界のどこにもな。だったら、俺は……。俺たちは勝ち取ってみせる。自分たちの居場所を。自分の力で」
確かな決意を覗かせる少年の言葉。
それに応えるようにして、彼の横に立つ小柄な少女がかすかに揺れる。
ともすれば震えているようにも、あるいは恐れているようにも見え……。
しかし、何かをきっぱりと否定しているような意志の強さも感じさせる、どこか不満そうな動きだった。
「とにかく、決めた以上はやるだけだ。“特異点”を討ち、エアに安定をもたらす。そして、世界に俺たちの力を認めさせてやる」
「そのために大切なパートナーを危険にさらすことになっても、ですか?」
「こいつは……。いや、そうだな」
先ほどまでの威勢はどこへやら。
少年の声はとたんに迫力を失い、ただ吹きずさむ夜風の中、消えゆくようにか細くなる。
これまでのやりとりがきれいさっぱりなくなったかのように、突然訪れた長い沈黙。
しかし、それを破ったのは、
「……大丈夫だよ。私、怖くないから」
「なんだよ、いきなり」
「ずっと一緒にいる。そう決めたもん。だから、どこにだって私は着いていく。離れろって言われたって離れない。だって、あの夜にそう、約束したから」
確かな決意を感じさせる、どこか儚そうな少女の声。
紡いだ想いの悲痛さとは裏腹に、清く透き通ったその声は、それでも不思議な暖かさを伴って冷えた夜に熱を灯した。
「ったく、お前は。最初はあんなに反対してたくせに」
「だって」
しかし、少女の言葉はそこで途絶える。
「なんだ? 風が……」
止まった。
いや、止められてしまった。
そう錯覚してしまいそうになるほど不可思議な静けさが、少年の周囲を覆っていた。
明らかに自然現象ではない。
かといって、何者かによる特別な力が作用した様子もない。
あえて言うならそう。
“世界を支配する理”とでも言うべき、理不尽かつ絶対的な現象。
「どうやら始まったようですね」
男の声に続いたのは、少年が息を飲む音のみ。
それまでうるさく鳴いていた草葉の虫たちも、みな死に絶えてしまったように奇妙な静寂を保っている。
ただの凪ではない。
まるで世界そのものが息を止めてしまったかのような、そんな不穏な状況だった。
「さあ、お二人とも。準備はいいですか?」
「……ああ」
少しの逡巡をはさみ、ゆっくりと口に出された肯定の言葉。
そこに少女の同意はなくとも、反対に否定の言葉もまたない。
ただじっと、少年の決定に運命を委ねているようだ。
「転移後の手順は説明した通りに。テラにいる特異点を探し出し、始末すること。それこそが貴方がたの使命です。猶予はふたつの世界の結びつきが強くなる結界節、今日からの5日間のみ。まあ、案ずることはありません。以前、お送りした“もの”は持っていますね?」
「もちろん。なにせ、今回の切り札なんだろ」
言いながら、少年は濃緑の外套に隠された左腕をわずかに揺らす。
「結構。以前にも説明した通り、それは特異点とある種の絆を持った代物です。手にしていれば、自ずと特異点へと導くでしょう」
「よくそんな貴重なもんを、素性もろくに知れない俺たちなんかに寄越したもんだ」
「誰しもが触れられるものではないのですよ。制霊力を有しながらも、同時に頑強な肉体を持つ者。すなわちワイルドエルフである貴方たちだからこそ、手にする資格があるのです」
「ふうん。そいつはどうも」
無関心を装っても、心の高揚は隠せない。
今までの境遇に比して、その言葉は明らかに身に余るものだった。
少年の様子に意味深げな微笑を浮かべる男。
反対に、少女はどこか浮かない表情で俯いていた。
「では、始めましょうか」
「ああ。頼む」
「目を閉じ、楽にしていてください。流れに身を任せ、ただ意識を――」
詠うような声が響き、そして。
「成功……ですかね」
幾ばくかの時が流れた。
残された影はひとつだけ。
少年と少女、ふたりの姿は、その場から完全に消失している。
まるであたかも最初から、存在そのものがなかったかのように。
静寂の中、残された男は天を仰ぐように見上げると、
「さあ、賽は投げられました。お往きなさい、寄る辺なき哀れな獣たちよ。貴方たちの尊い犠牲を以て、エアは真の姿を取り戻すことでしょう」
どこまでも冷め切った声で、他人事のように呟いた。