はじまりの秋
「もういいかーい?」
ある秋の夕暮れ。
幼さの残る少女の声が、ヒグラシの鳴き声をかきわけ、茜色の空に染みわたる。
彼女の周りには輝くほどの金色に彩られた稲穂の森。
そこに飛びかうとんぼもまた綺麗な朱に染まっており、まるで絵に描いたような色彩のコントラストを放っていた。
「まあだだよー!」
身をくすぐるような爽やかな風に乗って返ってきたのは、同じ年頃の少年の声。
未だ少女のものとそう変わらない、高く可憐な響きである。
もう何度目かになる言葉の応酬。
それでも、少女は飽きることなく問いかける。
彼女にとって、少年と共に過ごす今の時間こそ、何にも勝る幸福な時だったからだ。
少女の問いかけに、少年もまた普段のおとなしさからは想像できない大声で答え続ける。
そうして、どれほどそのやり取りが続いただろう。
「もういーよー!」
清々しくも、むせ返るような稲の香りを伴って、少し自信を覗かせた少年の声が返ってきた。
『つぎはぜったいにみつからないよ』
少年の言葉を思い出し、それでも少女は不敵な笑みをこらえ切れない。
スタート地点に定めている、古い大木から体を離し、
「ふっふー! ダメダメ! すぐに見つけてやるんだからっ!!」
余裕の宣言。
その時だった。
まるで台風でもやってきたかのような強い旋風が、一面を薙ぐように吹き抜ける。
その力にあおられて、少女の被っていた麦わら帽子はひらひらと飛んでいってしまった。
それはこの夏、彼女の祖母が少女と少年のために買ってくれたもの。
既に季節はずれの感はあるが、いまだ強い日差しと田畑に飛び交う虫たちから身を守るため、ふたりは揃って被っていたのだった。
慌てて少女は帽子のもとへ。
つい、少年を探しに行くことも忘れて駆けていく。
もし失くしたら、祖母はきっと悲しむだろうし、母にはきつく叱られるだろう。
そんな予感が小さな胸に渦巻いた。
ほどなく、少女は田んぼから少し離れた河川沿いの、小さな枯れ木のその枝に、自分の帽子が引っかかっていることに気がついた。
「うーん」と唸りながら、精一杯に手を伸ばす。
だが、あいにくと短い彼女の手では届かない。
一陣吹いた突風に再び淡い期待を寄せてみるも、ただ続くのは不自然なまでの静かな凪だけだ。
すっかり困り果てた少女。
ふと、少年のことを思い出し、彼の名前を呼んでみた。
一回だけじゃなく、何度も何度も。
「あれ? おかしいなー」
返事がない。
もしかしてさっきの場所から離れたせいかも。
そう思い、少女は再び田んぼの中へと走り出す。
多い茂った稲の葉に柔やわい素肌をくすぐられながら、彼女が大木のもとへと帰ったとき、
「これって……」
枝には青いリボンの巻かれた、見覚えのある麦わら帽子がひとつ。
間違いなく、少年のものだった。
「ねえー!! どこにいるのー!?」
風に吹かれてゆらゆら揺れる帽子の影に、急に心細くなった少女は大きな声を張り上げる。
「ねえってばー!!」
声を枯らし、幾度ともなく呼びかけた。
それでも少年の声は聞こえない。
「でてきてよー! あたしのぼうしがとんでっちゃたのー!」
稲穂の影。
あぜ道の裏。
案山子の足元。
田んぼの傍の小さな祠。
水をあてる用水路。
どこもかしこも、隠れられそうな場所はくまなく探した。
しかし、少年はいっこうに見つからない。
とうとう少女は、不安と寂しさから大きな声で泣き出した。
それから、どのくらいの時間が経ったのか。
目元を真っ赤に腫らした少女の周囲には、異変に気付いた大人たちの輪があった。
理由を尋ねる彼らに、少女はしゃくりながら事情を話す。
すぐさま地元の消防団が召集され、少年の捜索が始まった。
だが……。
その必死の行いも空しく、少年――柊宮昴が見つかることは、ついになかった。