4-12
俺は五歳のとき、両親からネグレクトを受けた――。
――ネグレクト。主に育児放棄や児童虐待のことを指す用語。
俺の両親が、育児に対して初めから意欲がなかったのかと問われれば、答えは否だろう。真逆に熱心であったはずだ。それがなぜネグレクトに陥ってしまったのか。理由は至って簡単で、すべての原因の一端は、やはり俺自身にある。
そう――このオーラを視る能力が、すべての元凶であり、俺の人生の始まりだった。
いつからだっただろう。この能力を認識したのは――。
四歳ぐらいだっただろうか。それ以前から視えていたのかもしれない。もしかしたら、生まれたときにはすでに――。
話を戻す。俺の摩訶不思議な言動が目立つようになったのは、四歳になり幼稚園に通いだして、言語力を身につけたあたりだ。
幼い知性で赤は怒り。青は不安。緑は穏やかだと本能でわかっていた。でも当の本人からしてみれば、なんら不思議な現象でもなくて、むしろ当たり前のことだと思っていた。
毎日どんよりと重苦しいオーラを身に纏いながらも、子供たちと笑顔で遊ぶ先生に、俺は子供心ながらに気を遣ったつもりで言った。
「せんせい、つかれてるの?」
って。先生は、そんな俺に顔ひとつ変えず、「先生はいつも元気よ。気遣ってくれてありがとう」と俺の頭を撫でた。でも先生のオーラは変わっていない。当時の俺からしたら、不思議でなかった。
次の日も言った。「せんせい、ねてないの?」と。今度は質問を変えて。それでも先生は、「大丈夫よ。心配しないで。ほら、元気元気」そう言って、俺の手を握る。オーラは変わらなかった。
それから俺は、毎日のように先生に訊いた。体調のことを。純粋に心配だったから。たまにある体調のいい日は、普通に遊んだ。
それが逆に不自然だったみたいで、俺に不審を抱いていたのは先生だけじゃなく、両親や親御さんも同じだった。
これぐらいからだろうか。環境に変化が生じ始めたのは。
あるとき。一緒に遊んでいた男の子から、こう言われた。
「おまえ、へんな子だって、ママがいってたぞ」
と。すぐに先生が止めに入った。先生はフォローするように、「こら。州くんは、全然変な子じゃないでしょ。ダメだよ。そんなこと言っちゃあ」と、その子に言い聞かせる。そのとき、俺はひとつの色を憶えた。
「せんせいのうそつき! うそだ! ぜんぶうそだ!」
指を差して、大きな声で張り上げた。当然、周りにいた先生たちで俺は、なだめられる結果に終わる。
それからしばらくのあいだ家にいた。俺の奇行が知れ渡り、母親が元気をなくしていた。それを慰めるために、俺は声をかけた。
「ママ、げんきだして。ぼく、わらってるママが……」
こっちに振り向いた母親は、犯罪者でも見るようなおぞましい目で、幼い俺を睨めつけたのだ。とてもじゃないが、少なくとも我が子に向ける目つきではもうすでになかった。
そうした中で、刻一刻と狂っていく歯車の日常は、着々と俺を迫っていた。
幼稚園に復帰しても、俺は完全に居場所を失っていた。言わば幼稚園生にして、『孤立』していた。それでもかまってほしくて、ついつい突発した行動を取ってしまう。
「あか! きいろ! あおおおい! もも! くろこわい! みかんもいるー、あれわー」
翌日、精神科に連れていかれた。といっても、まともに取りあってもらえるはずもなく、両親は頭を抱えていた。
俺はなにを思ったのか。不意にこんな質問をしたのだ。
「ママ、ぼくのこときらいなんでしょ?」
「そ、そんなこと、ないわよ……」
「ママも、うそついてる……いしと、おなじ色がみえた。たくやくんもこのまえ、その色でうそついてたよ……」
不用意な発言した次の日、幼稚園を即刻辞めた。正確には、行かせてもらえなくなった。半年も通っていないはずだ。
けれども、狭くなっていく範囲の中で、平日の昼間だけ外出が許された。同年代。社会人に鉢合わせないためだ。だが、そう長くは持たなかった。
独りで遊んでいれば、当然といえば当然の結果なわけで。つまりはそういうことである。両親はキツイ叱責を受けた。
今回の件に関しては、俺に非がない。なのに、ついに外出までなくなった。家で暇を持て余す俺の相手をしてくれるのは、母親しかいない。しかし、その母親は完全に病んでいた。
遊びたい、という当たり前の欲求を満たすために、無理を承知に強請った。「あそんで」「これしよ」と何度も強請った。
母親は、疲れ切っているような顔で俺の顔を覗きこむ。「お前なんて――」ためらった表情で数秒固まる。そこに迷いがあったが、意を決した感じに我が子に言った。
「――シッパイサクよ」
そうはっきり言ったのだ。
そこから、食事も入浴もまともに与えてくれなくなった。日中は隔離された物置部屋に閉じこめられて、たびたび父親か母親が入ってきては罵声を浴びせられ、暴力も少なくなかった。
シッパイサクよ――これが引き金だったように。
最後には、家にさえ入れさせてもらえなくなり、庭で――一年間過ごした。
両親はその後逮捕された。でも、両親はうつ病を患っていることが判明し、カウンセリングを受けながらの獄中生活が始まった。
俺は身寄りのすべてに受け取りを断られ、孤児院で二年間過ごしたのち――今の父さんと母さんの養子として引き取られた。
両親は、罪の償いは終わったものの、カウンセリングのほうを八年受けたらしい。それが終わったのが二年前。
俺とやり直したいと言ってきたのは去年。
俺は、両親の顔や声を忘れた。けど――頭や心に刻まれた。あふれるほどの、
「言葉」は忘れられないでいる――。
州の過去の過去編ですね。ここらへんは難しかったです。
友城にい




