3-20
俺は否定も肯定も、しやしない。どっちにも値しないからだ。次に久三野は、新樹のほうを見やった。
「色海新樹先輩でしたね」
「そうだよ」新樹は、涙を拭って久三野を見る。
「いづみのこと、ありがとうございます。おれ、ようやくいづみの気持ちに」
「まだだよ、久三野くん。本番はこれから。そうだよね。いづみちゃん」
新樹がそう言うと、上原さんは一回頷いた。
「臨くん、わたしを――後ろから抱きしめてください。あの日みたいに、強く――。そして、聞かせて。なんでわたしを抱きしめたのかを、全部」
上原さんは、久三野に背を向けた。久三野は久三野で、なにも言わず、しどろもどろしている。「今さらだけど……男性恐怖症、治ったんだな……」
「ごまかさないで!」
おとなしい印象の上原さんが、腹の底から声を張り上げた。人間ってすごい。
これには久三野は逃げるのも、茶化すのも諦念する。一旦、深呼吸して意を決した顔で、上原さんを後ろから、優しく抱きしめた。
張りつめた空気が流れる。二人とも無言で、ただ頬を赤らめた。これこそ今さらかもだが、俺たち以外、誰もいないとはいえ公然の面前で抱きしめる行為。正常な羞恥心を持っていれば、恥ずかしいことこの上ないだろう。
久三野は、息を吐いて、そのままの状態で語り始めた。
「おれがいづみの家を訪ねたあの日。その日、なにがあったか、憶えてるよな」
「お母さんが、亡くなった日だよね。それと関係、あるの……?」
久三野は、しんみりした顔になって、
「あのときのおれの記憶は、途中から曖昧で、とてもじゃないが『平常心』とは言いがたい状態だった。でも、これだけは信じてほしい。いづみがおれの心の支えだって」
上原さんは、久三野の回した腕にしがみついた。「じゃあ、なんで……」と問いかける。
「それは……」久三野は、まだ口に出すことをためらう。
「言って……お願い。わたしも逃げないから」
上原さんの強さに押されたのか、久三野も「うん」と弱く頷く。俺の位置からでもわかる、久三野の腕の力がより一段と強くなったのが。
「ずっと、お母さんに約束していたことがあったんだ。いづみを女の子として、意識し始めたころからだろうか。そのときから想像していたのかもしれない。可愛い彼女を作って、楽しそうにする姿。ドギマギする雰囲気。ちょっとしたことで喧嘩する距離。ふとした瞬間に笑いあう幸せを。そんな関係をお母さんに見せてあげたかった」
久三野の母親に対する想い。そんな気持ちが俺にもびんびんと波となって、伝わってくる。
「でも中学二年生に上がって間もないころ。医者に告げられた。――『お母さんの命。半年、持って一年だろう』と。末期のガンだった。手の施しようのない状態らしかった。それから延命治療が始まった」
久三野は、淡々と話す。それを上原さんは何度も頷いて、受けとめる。
「おれもお母さんになにかしてあげたかった。そこで思いだしたのが、昔から約束していたこと。それは――」
ひと呼吸置いて、久三野は上原さんに明かした。
「――孫の顔を見せてあげたい。もちろんそのときも、叶わぬ夢だとわかっていた。そのまま、なにもできないまま時間だけが流れて、次の年の夏、いづみと成り行きながらも、つきあうことになった。最高に嬉しかった。それをお母さんに話したときも、喜んでくれたんだ」
いつしか、久三野の目には涙があふれていた。
「そうだったんだ……」
「その反応のひとつひとつがおれには、逆に苦しかった。徐々になくなっていく笑顔。やせ細って衰退していく、腕。いづみを連れていった日。おれはすごくドキドキした……」
「わたしも鮮明に胸に残ってる。臨くんのお母さん、終始笑顔だったね。雲りのない笑みで、わたしたちの会話には入ってこないけど、ずっと見守ってくれているような。そんな優しさを持った、素敵なお母さんだったね」
上原さんが述べると、久三野は目を瞑った。
「その次の日から、お母さんは寝たきりだった。そして、そのまま――。まるでいづみにおれを授けたかのように……。受け入れられないまま、式は始まった。おれは現実から逃げるように式場を出ていった。そこから、記憶は曖昧で、無我夢中で。気づいたら、はだけているいづみを押し倒していた」
久三野は、それを告げると上原さんから離れて俯かせた。「ごめんな……」蚊の鳴くような声で、端的に謝る。
上原さんは、「いいよ。言ったでしょ。怒ってないって」そう言って、振り返る。手を後ろで組んで、それに合わせてスカートがひらりと宙を舞う。
「ねぇ、臨くん……わたしたち、また、惹かれあう関係になれるかな」
「え?」久三野は一瞬、呆然とした。だが、持ち直して続けて答える。
「――なれる。おれといづみなら、きっとなれる。だって――」
「いつまでも好きでいられるから――でしょ?」
上原さんはそれを口にするとつま先立ちになって、久三野の顔に近づけた。
「い、いづみ……?」
「キス……しよ」
そこで俺は視線を逸らした。二人だけの世界に踏み入ろうとは思わないから。時間にして数秒。もう一度、目を向けると、二人はにこやかに立ち尽くしていた。そこに、タイミングを合わせたように――
「お二人さん――
おめでとぉーございます!」
パン、と鳴らされるミニクラッカー。新樹の立っていた後方に、それを持った五人の子供たちと、メガネ越しでもわかる満面の笑みを浮かべるコウがいた。
「お、岡くん……!? どうしてここに?」
戸惑う上原さんに、俺が説明する。
「俺が頼んだんだ。二人にハナムケしてほしいって」
すると、久三野が鼻で笑い、「くだらない……」そう吐き捨てたものの。浮かべている顔は、満更でもない感じだった。
そして、子供たちの中から見憶えのある一人の男の子が、二人のところに歩きだした。その手には、バラバラで様々な種類に彩られた花束が抱えられている。
「かづき!? なんで、かづきまで」
「姉ちゃんのいわいごとがあるってきいたから……おとこなら、とうぜんだと思って」
――かづき。ということは上原さんの弟か。俺にも気づいているようだが、姉がいる手前、見てくるだけで留まっている。
「そっか。お姉ちゃんうれしい。ありがとう、かづき」
「ありがとな」
二人ははにかみながら、かづきから花束を受け取った。
もうあの二人はこの先、なにがあっても大丈夫だろう。
と。安堵している俺のところに、新樹が歩いてきた。
「ごめんね。すぐに駆け寄りたかったんだけど、いづみちゃんを放っておくわけにもいかなかったから……」
「いいよ。新樹の判断は、間違ってない。そのために払った代償なんだからな」
「……うん。それよりも怪我、大丈夫なの? だいぶ酷いようだけど……」
まじまじと、心配する目で俺の現状を確認する。
「打撲とかすり傷とかと思うが、それよりも言いたいことがある」
「なに?」
「なんで、俺の制服着てんの?」
最初から気づいてはいた。たしかに俺と新樹は、たいして身長に差はないが、よく着られたな、と思う。
「フフン、似合う? 家の前にいたらタイミングよく深砂さんが帰ってきたから、勝手にお借りしました次第であります、隊長!」
「誰が隊長だ、いてて……」
「もう無理しちゃって。ほら、いまから病院行くよ」
そう言った新樹の顔は、なぜかうれしそうだった。肩を借り、歩きだして身に沁みて感じたこと。もしリラが治療してくれていなかったら、この程度じゃ済まなかっただろうな、ってこと。やはりリラには、感謝すべき――
(呼んだか? それにしても――)俺の思考に横入りしてきたリラが意味深に、言葉を途切れさせる。なんだよ。そう呟く。
(いい~や~。なんでもないねぇ~)
空中で寝そべって、口笛を吹きだすリラ。やはりアフロをいじってやるべきだな。
そう心に決めつつ、コウが近づいてきた。
「うまくいったみたいだね。よかったよ」
「まあな。無駄にならなくてよかった」
「それより、あの二人に負けず劣らず、見せつけてくれるじゃないか。州と新樹ちゃんも」
「なっ!? これはだな――」
俺が弁解する前に、コウが「じゃあ、僕はこども会のみんなを送ってくるから。また明日」と颯爽と去っていった。
ったく……コウは。
「おい、解森州」入れ替わりに、少し怒気のこもった声で止められる。振り返ると、久三野が困惑した顔で立っていた。
「なに?」と問いかける。
「なんで、あんな嘘をついたんだ。早とちりとはいえ、殴ってしまったおれもだけど、どうしてあんな嘘を……。もしかしてお前、わざとおれといづみを引きあわそうと――」
「そんなわけないだろ。バカかよ、お前は。仮にそうだと思うのなら、それこそ勝手な早とちりだ」
俺が前に向き直って暴言を吐くと、久三野は高笑って、
「やっぱりお前って、心の底から変人なんだな。そうだよな、そうだよな……」
久三野は、その場で何度も「そうだよな」と言う。認めたくないなにかを自分に沁みこませるように。
「新樹、行くぞ」
「本当にこれでいいの、州。せっかく……」
「しょぼくれた顔すんな。いいんだ、俺はこれで。俺は、新樹とこの瞬間を共有できるだけで、幸せ者だ」
「州らしいね。私も、幸せかな、州といれて。よし、早く病院いこ、州」
「ああ、頼む」
俺と新樹はやっと歩きだした。
一歩ずつ、確実にゆっくりと地面を噛み締めた。それはまるで、近くにある幸せに気づいたときみたいに。
次回から四章に移ります。乞うご期待くださいませ。
友城にい




