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この町に住み始めて八年の月日が流れた。
ちょうど半生。嘘みたいに平和で、俺の身に危険が生じるような物事や出来事もなく、ごく一般のごく普通の一高校生として、今日も学校までの道のりをぐったり歩いている。
「あっついな……それにしても、暑すぎるだろうよ……」
ぶつぶつ文句を垂らしつつ、長めに伸びた前髪を避ける。
今年の夏。俺こと解森州は、高校二年生になり早三ヶ月。衣替えの半袖の白シャツに腕を通し、ジメジメとした中受けた期末テストも、鬱陶しかった梅雨前線も過ぎ去った七月上旬。
通学路に使う大きな広場。真ん中にシンボル的な噴水があるだけのシンプルな広場だ。早朝は通学、通勤、散歩に利用する人であふれ返る。
なにより緑が盛んで、ここだけほかより日中も気温が二度から三度低いらしい。
人気の理由はさておき、利用者は俺も例外でなく、早足で横切っているときだった。
「あ……でも、弱ったな……」
ベンチの陰に七、八歳ぐらいの男の子が背負ったランドセルをこちらに見せて、しゃがみこんでいた。どうやらなにかさがしているみたいで、ずっと地面と睨めっこしている。
俺は四方向を見渡す。気にかけることもなく、俺に関わらずたくさんの仕事に向かう大人。健康維持で散歩をする老人。男の子と同年代の子も、俺と同じ制服を着た学生もみんな気づかず、または気づいているものの、見て見ぬフリをして通りすぎていく。
それが普通というものだろう。かくゆう俺もある理由がなければ、周りの人とまったく同じ行動を取ったはずだ。
ほかの人に見えなくて、俺だけに視えるもの――。
そう――なぜならその男の子の全身には、青く濁った煙みたいなものが纏わりついていたからだ。
言わずとも、この現象は俺にしか視えない――視え始めたきっかけも俺自身も憶えていない。気づけば、これが俺の中の「普通」と化していた。
オーラ――と言えば、響きがいいかもしれない。
オーラとは、華々しいイメージで人が醸す雰囲気だろう。しかし、俺のこれは少し意味合いが違うものが視えているらしい。おそらく、多分、多分だ。
これは人間それぞれが必ず、いつでも抱えている「心境」がオーラとなって、具現化されていると俺は思っている。
ちなみに経験上、青いオーラは『悲しみ』を表す場合が多い。けどこのオーラは少し濁っている。おそらく『不安』な心境が現れているんだと思う。
俺は突っ立ったまま、どうしようか悩んだ。悩む必要性がどこにあるんだ、って思うかもしれない。簡単なことだ。男の子の不安を取り除いてあげればいい。そうすれば禍々しく渦巻いた、剥きだしにされた心境を変えることができる。
俺は手を差しだ――そうとして引っこめた。
人を助けるコト――。これまで幾度も遭遇した場面だが、いまだにできそうにない。どうしてだか、自分でもわかってはいる。けど、やっぱり……考えてしまう。
今の俺にその「資格」があるのだろうか、と。
そのときだった。
「州~ちょっとまってよ~」
不意に後方から、可愛く癒されるような間延びした声で呼び止められる。
踵を返すと明るい白湯のようなオーラが目に入った。茶髪のショートボブで大きなスポーツバッグを揺らして、俺の元に走ってくる。薄い靄のようなオーラは『呑気』を表していると思う。「州、なんで先に行っちゃうの。……ん?」
「いや、悪い」
彼女は色海新樹。家がお向かいで、俺がこの町に住んで初めてできた友達。もっといえば幼馴染。こめかみ近くに、太陽で煌めく四つ葉のクローバーの髪留めを愛用し、それに願いをこめたかのように活発で、俺とは真逆なフレンドリーでフランクな奴だ。学校でも交友関係は広い。
スタイルもいいし、見た目も可愛い。瞳もぱっちりしていて大きい。チャームポイントと言える端整な顔が笑顔に変わった瞬間は、何度見ても胸がドキリとなってしまう。だから『呑気』であり、象徴する絶対的な『幸福』なんだな、と考えている。
そんな新樹が、八年以上も俺と仲よくしてくれている。こんな幸せは、ない。今日は寝坊したみたいで、朝メールで「一緒に行こう」と来ていたのをすっかり忘れていた。
「あのさ。ちょっと……」俺がひっそり訊く前に、
「少年よ。なにをおさがしですか?」
新樹は気づけば、俺よりも優先すべき行動を取っていた。男の子にもフレンドリーな対応で声をかける。
少しして、「州~っ。ちょっときてぇ」
「ん、なんだ?」
新樹の呼ぶ声に男の子が小さく、「しゅう……」と呟きを漏らす。
まずいな、と脳裏によぎるが、今は気にせずに新樹の話を聞く。
「この子。大切なお守りをここらへんに落としたんだって。一緒にさがしてあげない?」
「はあ……お前ってやつは……」
呆れ返る俺の言動をよそに男の子と視線がぶつかった。
そこでさっきの男の子の呟きがリピートされる。俺が人助けに躊躇する理由――。それをこの子もやっぱり知っているのだろうか。考えすぎか。
とりあえずは落とし物をさがした。草木を掻き分けること数分。幸いにもすぐにお守りは見つかった。
新樹が男の子に手渡す。大概はこれで薄っすらな桃色の『安心』に変わるはずだ。
「もう、なくしちゃダメだよ」
「う、うん……」
頭をくしゃくしゃと掻き撫でる新樹。男の子は少しイヤそうに顔をしかませた。
ニッコリと笑い、「じゃあね」と愛用している大きなバッグを肩にかける。重そうなバッグからはみでたバットが、弾みでカランと鳴る。
それに興味を示したのか、男の子が甲高い声でこう言った。
「おねえさん野球するの?」
「うん? やるよー。ソフトボールだけどね」
バットを取りだして構える。さすが小学生のころからレギュラーを張っているだけに、様になったスタイルだ。そこからひと振り。ブウーン、と突風のような音がここまで聞こえる。
ここで余談だがスイングと一緒に、赤を基調とした緑のタータンチェックのスカートが、めくりあがった。けっこう豪快に。しかし、本人も気づいていないし、あとの祭りなわけで。俺もキレイな川に放流しておく。ぴ、ぴん……いや、忘れよう。
「そうなんだ! ぼくも友達とやるんだ。ぼくとおねえさん気があいそうだね」
「そうかもね」
男の子が新樹の反応を見て、俺を一瞥。なにか意図を感じる。それに沿ってオーラの色がどんどん鉛筆で塗りつぶすように、濃くなっていく。これは本気でまずいな、そう感じた。
「そうだ。今度ぼくに野球をおしえてよ」
男の子の喋りが異常に速くなった。なにか急いでいるように。
「うーん。ごめんね。私、試合が近いから」新樹は手を合わせて断る。
「じ、じゃー……」
「どした? ゆっくり話していいよ。私最後まで聞いてるから」
目線を合わせて、優しく諭す。男の子はしばらく黙りこむ。そのあいだ新樹は笑顔を絶やさない。ホント、ある意味すごいやつだ。しかし……。
「そろそろ、まずいか……」
喋りが速くなったあたりから、男の子のオーラは『必死』を表す漆黒へと変貌していた。黒が濃くて、もう俺からは男の子の顔がほとんど確認できない。あのレベルの『必死』になると、半日は反動で気力が失われてしまう。
無力で突っ立ったままの俺は、「新樹……」と呼ぶほかない。
「わかってるよ、全部。州は心配しないで」
頼もしいの一言だった。それを止める手筈も思いつかず、俺はじっと傍観していた。男の子が再び口を開いたのは、それから一分ぐらい経ったころだ。
「ねぇ、おねえさんはなんで、この人と一緒にいるの?」
男の子は俺に容赦なく指を差した。これじゃ俺が悪人みたいだった。新樹がその指を下ろさせて、こう答えた。
「私がいたいから……かな」と、困ったような顔をする新樹。
けど新樹の答えに男の子は、納得いっていない様子だった。口元だけだがわかった。
「おねえさん!」と、突然、生気の入った声で呼びかける。すると次の瞬間、男の子は大人顔負けの七、八歳とは思えない行動を取った。
しゃがんでいる新樹の手を取り、一言。
「ぼくの彼女になってください!」
十ぐらい下の子に告白された新樹。男の手はまだ小さく新樹の手の大きさには、遠く及ばない。しかし男らしい真剣な告白に、新樹は静かに瞼を閉じる。
「ありがとう。嬉しいよ。けど、ごめんね。私、ほかに好きな人がいるんだ」
男の子の勇気ある初めてであろう告白は、見事に玉砕した。
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