幽霊
「まあ座り給えよ、少年」
そいつは朗らかに言って、空の弁当箱と箸を簡易テーブル上に投げ出した。けふ、と上機嫌に腹を擦った後、呆気に取られて立ち尽くす俺に涼しげな蒼い眼を向ける。
「どうした少年、立ち放しが好みなのか」
そんな訳がない。
簡易テーブルを挟んでそいつと対面するよう形で、クッションにどかりと腰を下ろす。そいつも俺を正面から見るように座り直した。
改めて眼前に据えてみると、中々美しい顔だった。男性的と言うよりは中性的、しかし彫りの深い、如何にも外人と言った風な美形だ。が、弁当フィルターに拠ってその表情は非情に憎らしく見える。顔が同じ高さにあるので、上背は俺とどっこいどっこい、166cm程度だろう。男二人が向き合ってみると、四畳半の小さい部室がより狭く感ぜられた。
「この辺りに私等が視える人間が残っているとはねぇ」
徐ろに、そいつは話し出した。
「私は希典と申す。幽霊だ。名乗られい、少年」
名乗ったから名乗れとは勝手だが、名乗らずに名乗れと言うよりは礼儀があると見るべきか。
「カタライ、カサネだ。新潟の潟に旧字体の來る、重箱の重で、潟來 重」
俺は一応丁寧に答えてから、そいつを睨みつける。
「三つ、質問させろ。自称幽霊」
「三つでいいのかい? 否、三つと言ったからには其れ以上は受け付けないがね」
ニヤリと笑う自称幽霊。その顔が更に癪に障ったので、より目元に力を込めて睨み直してから言ってやった。
「『三つ』は『満つ』から現れた言葉だ。多いくらいだぜ」
「ほう」
浅い知識を、と鼻で笑われた。礼儀があると見た過去を撤回しよう。
「一つ!」
静かに叫ぶ。
「お前が鍵のかかった我が部室に居たのは、お前が幽霊で壁を擦り抜けられるから?」
「応、そのと」
「だ、ろうが、」
引っ掛け其の一、成功。微温いクイズ番組でよく見られる、語尾を上げて相手に答えさせる技法だ。それを遮って話を続ける、謂わば嫌がらせである。
それくらいしても罰は当たらないと思う。
「何故俺の弁当を食べる必要があった!」
いいか! 俺の弁当だぞ! お、れ、の!!
と、言い添えたかったが、流石にしつこ過ぎるので自重した。対する自称幽霊はと云うと、きょとんと可愛らしく、もとい憎らしさを誘う様子で小首を傾げていた。
「食べたかったから?」
「から? じゃ、ね、え、よ! 俺は生きる為に弁当が要るの! あんたが幽霊だと仮に信じたとして、あんたは俺の生きる糧を奪ってまで食事をする必要が! あったのかって! 訊いてんだよ!!」
ご近所迷惑を気にしてあくまでも静かに糾弾する俺を尻目に、自称幽霊はふわりと欠伸をした。
「なんて×××野郎だ」
「一寸君其れは流石に酷くないかい!?」
つい地の文が台詞に出てしまったようだ。
「それにさっきから『お前』だの『あんた』だの『野郎』だのと、髄分失礼じゃ無いかい? 私は百年と少しは存在しているし、享年も二十四歳と君より年上だ。希典さんと呼び給えよ、かさねくん」
じっとりとした目で見られた俺は、しかしその言に不満を禁じ得なかった。と同時に、衝撃を受けていた。
こんな失礼な奴に、礼儀作法を説かれてしまった!
「分かったよ希典さん。流石に言い過ぎた。いくら俺から弁当を奪った最低最悪の盗人だとしても、×××は言い過ぎだった」
「何か解せない言い方だなぁ」
「×××に失礼だった」
「もう君の口から何も聞きたくなくなってしまったなぁ!」
おお、良いリアクション。
何だか、初めてあった気がしない。
「で、どうなんだ?」
「まあ、必要は無いわな」
はっきりした、初対面だ。
こんな奴に出会っていたら、死んでも忘れてなんかやらない。
「お、落ち着けかさねくん! 話せば分かる!」
気付いたら、希典さんの胸倉を掴み上げていた。握り締めたYシャツを一瞥して、それをゆっくり放してから、もう一度繰り返す。
「で、何の必要があって食ったんだ。てか食える事の方が驚きだ」
「ああ、まあ、今殺気立ったかさねくんに胸倉掴まれたように、力のある者は実体化出来るのさ」
答えてけほ、と咳き込み、襟元を直した。
「殴られる為に実体化したのか、Mだな」
「この柔い座布団を尻に感じて居たかっただけだ失礼な! そんな目で見るな!」
成程、感覚神経も再現されるのか。
「失礼。しかしそれでは、代謝の再現も必至だな。排泄物なんかはどこに行くんだろうな」
「それは私達にも解らんなぁ。かさねくん、雲入道の仙爺、見た事有るだろう?」
丁度先程見た、あの大入道の事だろうか。
「あれ、雲入道って云うんだな」
そして、名前があるのか。
「じゃあ、あの朱い綿毛にも名前があるのかな」
「茜の胞子か? 彼奴等は総てで一個体だから、個々の別は無いぞ」
どうやら『物ノ怪』には逐一名前が付いているようだ。
「取り敢えず知っているようだな」
「ああ」
「あれと同じさ。彼奴も雲を食うだろう」
「食うには食うが、あれはそう見えるだけだろ。晴れた日に合わせて大入道が現れているとしか思えんな」
おや、と、希典さんは意外そうに片肘を着いた。
「私の存在も直ぐに信じたし、てっきり『両岸の徒』達を認めているとばかり思っていたが、違うのかい?」
「別に信じて無い。仮定として置いているだけだ」
『両岸の徒』。『物ノ怪』の総称か。
「天気図にでかい爺さんなんて居ないだろ」
「かさねくんは岸視の癖にりありすとだなぁ」
「ガンシ……」
思わず繰り返した。先程から、耳慣れない言葉ばかりだ。
「おや、此れも知らないかい? 岸を視るで『岸視』。此岸に居ながら彼岸の逸れ者を視る事が出来る人間の事だよ」
俺は少し黙った。
「……希典さんは彼岸だ此岸だと言っているが、あんたを信じるなら、俺は『物ノ怪』がそういう世界の存在だという事すら知らなかった」
今度こそ希典さんは、目を丸くして頬杖からずり落ちた。
「おっ魂消たなぁ、こりゃあ」
そして姿勢を立て直し、机に手を着いて身を乗り出す。俺は急に近付いた顔から逃げるように仰け反った。
「かさねくん、君は、私達の事を本当に何も知らないのかい?」
「あ、ああ」
俺にしか見えないようだから、俺の妄想の産物かと思っていたくらいだ。
とは、言えなかった。
希典さんの顔は純粋な驚きで満たされていて、蒼い眼はガラス球のように澄んでいた。そいつは美しい、と言うより気味が悪い代物で、口が自ずから閉じたのだ。
その眼は俺を見ているようで、その実なにも視ていないように見えた。
「ほう」
顔が遠退く。人心地つく事ができた。
「では、此れだけは教えて遣らないと可哀想だな」
頬杖を着き直しただけの希典さんは、にやついて俺を見た。
「君の周りに、霊感の有る人は居るかね?」
「まあ、何人かは」
「彼等の見る幽霊、見得た事も感じた事も無いだろう?」
息を呑む。
「何で知ってるんだ」
「まあまあ、落ち着き給えよ」
知らず知らず、語気が荒くなっていたようだ。一つ深呼吸してから、居住まいを正す。
「済まない。さっきのは忘れて、続けてくれ」
「ああ。つまりな、かさねくん」
ずい、と。
また身を乗り出して、得意げに。
「私達は皆、『現象化した幽霊』なのさ。幽霊で在ることを辞めた幽霊。変質して彼岸の端と此岸の端を行き来する逸れ者。其れが私達『両岸の徒』なのだよ」
解ったかい? と。
希典さんは、美しい顔で笑んだ。
お読み頂き有難う御座いました。
今回は少し長めです。次回も長くなるかも知れません。