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花手紙

作者: 音無アオ

文芸部部誌に掲載した小説を大幅改稿したものです。

 梅雨に入り雨の日が多くなった。

 降りやまない雨は太陽を隠し、空を灰色に染める。日に日に高くなる気温は湿気を含み、じっとりと皮膚にまとわりついた。

 蒸し器の中のような暑さの中、私は一人、苛立ちを顕わにしていた。

 乱雑に積まれた段ボール箱によって埋め尽くされた部屋。箱の上側にはマジックで『冬物』や『おもちゃ』などと大きく書かれていた。

「あーもうっ!どこに仕舞ってあるのよ?」

 苛立たしげな声が漏れる中、暗くほこりっぽい押し入れに上半身を押し込み、必要の無い箱を取り出しては、また潜った。

 よほど奥に仕舞い込んだのか、一向に目当ての箱は見つからない。再び、潜り込もうとした時、不意にひじが何かに当たった。

「痛っ!」

 大きな音を立て落ちたそれは衝撃で蓋が開き、中身が床に散らばっていた。

「何これ?」

 箱からあふれ出た何かを見た。遠目に見ると丸めたティッシュのようにも見えるそれは、実に鮮やかな色をしていた。

 そっと一つ摘み、目を凝らしてよく見る。

「造花?いや、折り紙の花かな?」

 もしかすると、これは自分が幼い頃に作ったものかもしれない。

 しかし、そう考えるには無理があるほど、折り紙の花は精緻な作りをしていた。

 折り紙の花と言えば、三回折るだけでできるチューリップが一番分かりやすい。だが、箱に詰められた花はそんな物とは比較にならないほど、どれも複雑に折り込まれていて子どもが折れるような物ではない。そもそも私はさほど器用ではないのだ。

 こんなもの、誰が作ったのだろうか。

「お母さん、これ何?」

 キッチンの母に花の詰まった箱を差し出す。

 夕食を作る手を止め振り返った母は、私の持つ箱を見た瞬間、目を丸くした。

「まぁ懐かしい。まだ小さかったから、覚えてないわよね」

 そう言うと母は優しく微笑んで花を一つつまみ、指先で弄んだ。

「これはね、お父さんが作ったものよ」

「お父さん?」

 私は物心つく前に父を亡くしている。だから父のことをよく知らなかった。

 今まで誰も父の事を教えてくれず、それならばと私もまた、あえて自分から父を知ろうとはしなかった。

 父方の祖父母にも会ったことがない。とうの昔に亡くなったという話だが、本当かどうか疑わしい。

 父がいい人でなかったから、誰も自分に教えないのだ。そんな人だったのなら知らない方が良いのだと、誰にも訊こうとしないでいたのだ。

 “父親”という存在を心のどこかで理解はしていながらも、それが実感に繋がることは決してなかった。

 しかし、予想外の父の遺物に心が揺らいだ。くしゃりと手の中で転がる紙の花は、私の心を掴んで離さない。

 父を知りたいと、そう思った。

「ねぇ、お父さんってどんな人だったの?」

 私の言葉に母は目を丸くしたが、それと同時にどこか嬉しそうだった。

「そう言えば、ゆきにはお父さんの話をしたことなかったか」

 今更気付いたのかと思いつつ、言葉の続きを待った。

「倖のお父さんは『そうすけ』って名前よ。字は・・・」

 あたりに落ちていたメモ紙に適当に書き綴る。

「『蒼介』?」

「そう、蒼介。本当に夫としては最低の男だったわ」

 少し困ったような声色で言った。

「え?最低なの?」

 やはり父は嫌な人なのか。箱を持つ手に力がこもる。

「そう、最低だったの。私より良い顔立ちで、器用で、だけど家事はまったくできなくて、男らしさなんて欠片もない人」

 花を弄ぶ指先が不意に止まった。

「何より、妻を置いていくなんて、本当に最低よ」

 私はその時、母の母ではない一人の女性としての一面を垣間見た気がした。

「それでも、父親としては最高の人だった」

 母は、母の顔をして笑った。私のよく知る、母の顔だった。

「知りたい?お父さんのこと」

 私は首を縦に振った。

 娘の答えに母は秘密を教える子どものように笑うのだった。


「・・・なんで蒼介が」

 眠る蒼介の枕元で春は強く手を握りしめた。

 腕に抱かれた娘は不思議そうにじっと春の顔を見上げている。

「倖・・・。お母さん、どうしたらいいか分からないよ」

 言ったところで生まれたばかりのこの娘には理解できまい。それでも、今の春にはそれしかできなかった。

 春は大学を卒業してすぐ、就職することなく蒼介と結婚した。程なくして春は身籠もり、一家は新たな命とともにより一層幸せに包まれるはずだった。

 しかし、幸せはそう長く続かなかった。

 妊娠が発覚したのとほぼ同時期に突然、蒼介が病に倒れたのだ。いわゆる不治の病というものだった。

 取り乱す春に、周囲の人間は皆同じ事を言った。大丈夫。必ず良くなる。多くの人がそう春をなぐさめようとした。

 しかし、どれだけ待っても一向に回復の兆しは見えてこない。日に日に大きくなる春の腹部とは反対に、蒼介の体は痩せ細っていった。

 不安で、不安で、不安だった。

 歩くことも、話すことも出来ない娘と、これからどうやって生きていけばいい?自分の力だけで生きていく方法を、春は知らなかった。

「どうしたらいいの?」

 失うことへの覚悟はもう出来ていた。それでも、涙をこぼさずにはいられなかった。

 つい娘を抱く腕に力が籠もり、急に強まった力に倖の体が固まった。零れた涙は頬を伝い、自らを見上げる娘の頬に落ちた。

「・・・泣くな、春。君が泣いたら倖も泣く」

 気付けば蒼介が目を覚ましていた。枕元で泣きじゃくる妻に、困ったなと笑いながらゆっくりと重たい体を持ち上げた。

「貸して」

 腕の中で硬直した娘に手を伸ばす。

「そんな、物みたいに」

「いいから」

 そう言うと蒼介は倖を抱き上げ、優しくあやし始めた。

「大丈夫」

 お互いの体温が洋服越しに伝わる。優しい父のぬくもりに少しずつ、強ばった体が弛緩していき、大きな瞳が潤み輝き始めた。次の瞬間、倖は割れんばかりに声を張り上げ泣き出した。

「あーあ。泣いちゃった」

「蒼介っ!」

 春が慌てて倖を受け取ろうとする。

 ところが、蒼介はそれをやんわりと拒み、妻の顔を指さした。

「顔。化粧崩れてる。鏡見てきなよ」

 何を突然、春はそう言おうとした。

 しかし、すぐにその言葉の裏に隠された夫の心遣いに気付き、素直にそれに従うことにした。


「本当にひどい顔」

 鏡に映る顔は、化粧の崩れ以上に、にじみ出る疲労で滅茶苦茶だった。

 まだ、ドアの向こうからは倖の泣き声が響いてくる。

 本当に蒼介に預けて良かったのか。今更ながらに後悔した。春は蒼介が倖をあやしているところを見たことがない。毎日、春が世話しているところを見ているのだから、やり方は知っているはずだ。

「ちょっとだけ」

 心配するあまり、そっとドアの隙間から二人の様子を覗き見た。

「泣くな、倖。泣かないでくれ」

 泣き声に混じって苦しそうな、困った声が聞こえた。

「泣くな・・・」

 ドア越しに見えた蒼介の顔に、春は息をのんだ。

 そこには春の初めて見る顔があった。蒼介の父親としての顔。

「笑ってくれ。元気に笑って大きくなれ」

 ありったけの力で、春を持ち上げる。

「あんまり泣くと不細工になるぞ。春に似て美人になるはずだから、今は泣くな」

 ひどく悲しい声と、見たことのない優しい顔。『父親』の蒼介はひどく不確かだった。

「すぐに、大人になるんだろうな」

 ああ、これは蒼介の願いだ。

「色んな人に出会って、恋をして、たった一人の大切な人を見つけるのか」

 娘の将来、自分のいない未来への願いだ。

「結婚なんて、絶対許さないからな」

 気が早いよ。昔だったらそう言えたのに、今の春には無理だった。

 きっと、その頃には蒼介はいない。それを知っているからこそ、春には蒼介の言葉が辛かった。

「倖はどんな人を連れてくるのかな」

 遠い、本当に遠い未来を蒼介は視ていた。

「・・・そうだ、良い物があった」

 蒼介の言葉が止まった。よく見えなかったが、蒼介は何かを倖に渡したようだ。

 気付けば泣き声は止んでいた。鮮やかな桃色をした何かを、倖は小さな手でぎゅっと握りしめている。

 静寂が流れ始めた部屋に、蒼介の声だけが弱々しく響いた。

「ごめん・・・ごめん。泣きたくもなるよな」

 泣きやんだ娘を強く抱きしめる。

「だけど、笑ってくれ。笑って、幸せに生きてくれ」

 低く、低く呟いた。

「悪いのは全部お父さんだから」

 心の奥に暗く響く声。垣間見えた影に春は堪えきれなくなり、ドアを開けた。

「・・・・・・っ」

 視線の先の倖は、右手に折り紙のチューリップ、左手に父の指を握りしめ、満足げに笑っていた。

 先ほどの言葉など無かったかのような空気。

 涙など忘れて無邪気に笑う娘を、蒼介もまた、優しく見つめていた。

「蒼介・・・」

 春は言葉を失った。神というものが本当にいるのならば、なんと無慈悲なのだろうか。

 今も蒼介は娘を抱いて笑っている。昔と何一つ変わることなく、春の前にいる。

 それなのに、見えない何かは蒼介の心臓を刺し、首を絞め、体の端から溶かしていく。日に日に低くなる体温。不安定な心音。弱まっていく、握った手の力。確実に終わりは迫っていた。

 それでも春は、目の前の柔らかく、暖かな幸せに縋ろうとした。蒼介と娘がいる幸せをまだ手放したくはなかった。 

 だから、なにもかもを知らないように、気付いていないように笑うのだ。

「それ何?チューリップ?」

 娘の手に握られたピンクの花。握りしめられ、元の形がよく分からなくなってしまっていた。

「そう。女の子ってこういうの好きでしょ?」

 楽しそうな蒼介の顔。抱かれている倖も楽しそうだ。

「まぁ、そうね」

 春の返事に蒼介は満足そうに頷いた。

「今度は何を作ろうかな」

 蒼介は倖を春に渡すと、サイドテーブルから折り紙とペンを取り出した。

 そして、そのまますぐに折り始めるのではなく、何かをサラサラと書き始めた。

「何してるの?」

「秘密」

 蒼介は子どものように笑いながら言った。

 紙を眺めながら、何を折るか真剣に悩む蒼介を見て、春は泣きそうになった。無視しようとしたのに、やはりできなかった。

「・・・せめて」

「ん?」

「せめて、倖に物心つくまで」

 生きて欲しい。春は願った。

「倖がかわいそう。まだ生まれて間もないのに」

「それを言ったら、君だってかわいそうだよ。子どもと二人、遺されるのだから」

 春がかわいそう。蒼介は、春があえて避けたことをはっきりと言ってのけた。

「それを貴方が言うの?」

「分かってる。でも、そう願うことだけはしたくない」

 本当は蒼介だって生きたい。生きて、倖の成長を見守りたい。夢だって、やりたいことだってまだいっぱいある。

 娘に物心がつくまで、そう願うことは簡単だ。しかし、もしもその願いが叶ったとき、自分はきっともっと大きな事を望んでしまう。

 入学するまで、成人するまで、果てには孫ができるまで。きっと自分は望んでしまう。

「無意味な願いを積み重ねても、何もそこにはないんだよ。きっと虚しいだけなんだ」

 だから僕は望まない。そう蒼介は笑った。

「ずるいよ」

 春には分かる。それが蒼介の強がりであることを。

 誰よりも未来を願っているのは蒼介だ。誰よりも心の奥底で生きることを望み、願いに願いを重ねているのは彼なのだ。

 しかし、それを認めたくなくて、蒼介は願いを虚しいと言う。願ったところで意味など無いのだと、蒼介は自分に言い聞かせているだけなのだ。

「ごめん」

 謝らないで、春はそう言いたかった。悪いのは蒼介ではない。蒼介が謝る必要などどこにもないのだ。

 それなのに、春は泣くことを止められなかった。

「・・・折角、化粧直したのに」



「それから蒼介は毎日倖のために花を折ったの」

 母はひとしきり話した後、ほっと息をついた。

「お父さんは」

 私は優しく手で花を包み込み、静かに言った。

「お父さんは幸せだったのかな?」

 未来に夢を見ることを止めた父は、その目に何を映していたのだろうか。すぐそこにある終わりを常に感じ、何を想いながら生きたのだろうか。

 不安そうに言う私に、母はどこか嬉しそうだった。

「幸せだったよ。いつも『幸せだ』って笑ってた」

 母の言葉にはそれが真実であることを証明するのに十分の力がこもっていた。

「そっか」

 純粋にそれを嬉しいと思えている自分がいる。そのことが不思議だった。

「そういえば、何でお父さんのこと何も教えてくれなかったの?」

 せめて名前くらいは教えてくれてもいいはずだと目で非難する。

「だって何も言うなって蒼介が言ったから」

「何で?」

「知らないわよ、蒼介の考えてることなんて。元々何考えてるかよく分からない人だったし」

 やはり父は不思議だ。煮え切らない感情に私が唸っていると、母は思い出したかのように言った。

「そういえば、何か折り紙に書いていたな」

 母はそう言うと花を一つ、私に差し出してきた。

「好きなようにしなさい。倖の花なんだから」

 おそるおそる、手を伸ばす。指先からカサリと、無機質な音が漏れた。

 知るも、知らないも私次第。しかし、もう迷いなど無かった。

 一つ一つ、折り目を丁寧に伸ばしていく。花には小さく「四月十日」と書かれていた。

 やがて、全ての折り目が無くなり、花は一枚の紙となった。

『いつまでも、笑っていて欲しい』

 そこに書かれていたのは紛れもない確かな父の願いだった。強がりの中に隠された、本当の思いがそこにあった。

「蒼介らしいなあ・・・」

 母は小さく笑うとそっと箱を差しだした。それを手にした私は一つの花を無意識のうちにに探し始めていた。

「・・・あった」

 美しい花弁に書かれた日付は六月一九日、文字はひどく歪んでいた。

 きっとこれは最期の花。父は亡くなるその日まで花を折っていたのだ。

 美しく儚げなその花を手に、私は俯いた。父は最期に自分に何を願ったのだろうか。

 この花を開けば、その願いを知ることができる。しかし、それと同時にこの花はもう二度と元には戻らない。散った花が再び咲くことはないのだ。

 そう思っても、それでも、私は父の願いを知りたかった。

 ゆっくりと手が動き出した。複雑に折り込まれた想いが少しずつ、解かれていく。

『幸せに、どうか幸せに』

 そこにあったのは、父からの無償の愛。

 たった一行、たった十文字の言葉の連なりが、胸の奥を叩く。一五センチ四方の紙に閉じこめられた願いが花開き、短い言葉に込められた想いが命を持って流れ出した。触れた指先から父の鼓動が、呼吸が、温度が伝わってくるようだった。

「お父さん・・・」

 正しく意味と価値を持った言葉が初めて零れた。

 積み重なった願いを虚しいだけと言った父。それを強がりだと言った母。

 でも、私はそう思わない。父の遺した願いは虚しくないと信じた。想いは願いに重みを与え、いつまでも留まり続ける。父の積み重ねた想いは今、自分の心に意味を持って響いた。

 だからきっと、父の願いは無駄じゃない。

「もうすぐ命日だね」

 母はぽつりと呟いた。

 もうすぐ十六回目の六月一九日が来る。

「お母さん。折り紙ある?」

 花を折ろう。今度は自分が、父に花を贈ろう。願いを込めて、伝えたい想いを込めて。

 どんな顔をするだろうか。天国の父を思い、私はくすりと笑って呟いた。

「何を折ろうかな」



「何を折ろうかな」

 泣き疲れ、椅子で眠ってしまった妻を見る。

「ごめん」

 謝っても、謝り足りない。

 最期の先を願い、蒼介は一粒だけ涙を零した。遺される者を想い、自らの意志がいつまでも残ることを祈り、涙を零す。

「全部・・・全部ここにあるから。想いは全部込めたから」

 蒼介は願いに願いを抱く。

 幼い娘の未来が、どうか幸せなものであるように。苦しかったら花一つ、泣きたくなったら花二つ。いつか娘の助けとなるように願いを込めて花を折る。

『幸せに、どうか幸せに』

 愛情と命を込めた花手紙。いつか娘の心に届きますように。

 そう、蒼介はまた願った。


読んでいただきありがとうございました。

感想をいただけると嬉しいです。

また、近々続編を投稿する予定なので、是非そちらの方も読んでください。

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― 新着の感想 ―
[一言] お世話になっております、太ましき猫です。 開かれた花が伝える想い。 温かくて、優しくて、そこに今も亡き人の想いがあり続けていると感じられ、何とも胸が和らぎました。 確かに願いは届いたのだと…
2015/09/23 20:45 退会済み
管理
[良い点] 拝読しました! 今回も切なくて温かくて素敵なお話でした…! 倖という名前もきっと春さん蒼介さんの願いですよね アオさんのお話に出てくる人たちは優しいですね。 読んでいてほっこりしますし、切…
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