世界で一番静かな海
灰色の海の向こうに瑠璃色のまあるい地球が浮かぶ。
でも、この風景を見る事ができるのは今の所わたし一人だ。この間不思議な船に乗ってやってきた白い服の人間たちは、すぐに天が下へと帰っていった。やっとここにも人間が住む時がきたのかと期待したのに。
イザナギもイザナミも、アマテラスもスサノオもわたしの事を忘れてしまったのだろうか。
はやく人間が月に住むようにしてくれなければ、ヒマでたまらない。
砂礫の上にしゃがみこんで膝を抱え、ため息をつく。
あの美しい星を、早くだれかと一緒にみたいなぁ。
居住区に第一酸素生成ユニットの異常を示す警報がコールされ、トシミツ=アオバは報告用日誌を作成する手を止め、監視モニターを見た。画面はブラックアウトしていたので、各研究プラントに一次警報を発令した後、急いで(と言っても一時間はかかる)宇宙服を着込み、居住区からパイプでつながれた、700メートル先に設置された生命維持複合プラントに駆けつけたのだ。
5メートル立法の銀色のコンテナがいくつか設置され、そのコンテナの一つに直径1メートルほどの大穴が出来ていた。おそらくレーダーには反応しないレベルのデプリが衝突したのだろう。確率は小さいがゼロではない。ライトを照らして中を覗いてみたが修復は無理だろう。
ヘリウム3試験採取プラント、軌道エレベータ研究プラント、生物実験プラントなど、次々と追加されるプロジェクト、人員にあわせて追加されているはずだった第二酸素生成ユニットは予算の都合で未完成。予備タンクの数と総人員数、成人一人当たりの酸素消費量と、地球または宇宙ステーションからのシャトル到着までの日数を頭で計算してみたが、良くて生き残れるのは一人か二人だろう。
居住区からの無線呼出しがさっきからしつこく鳴り続けているが、応答する気にはならないので規定違反だが手首のユニットを操作してスイッチを切った。
トシミツはコンテナの前に立ち尽くして目を閉じた。
「困っているようだな」
無線は切っているはずなのになぜかヘルメットの内側のスピーカーから声がした。
目を開けるとトシミツの傍らに人が立っていて、腕を組んでコンテナを見つめていた。
なぜ神主のような格好で腰に剣を差した人間がいるのか。宇宙人の幻覚なのか?
「壊れてしまったのか?」
「……あ、そうです」
「直してやろうか?」
「いや、基盤やユニットに大穴が開いてしまってて修理は無理です。正常なパーツに交換するしか……」
「しかし、直らないと困るのだろう」
「はい……このままでは、月面基地に来ている十五人が一週間ほどで死んでしまいます」
「私なら直してやれるぞ、禁忌を冒す故、もう二度とこのような事はできなくなるが」
「ここにいるのは研究の最前線に立つ地球でもトップクラスの知能を持つ若い学者達です。死ねば代わりの者が派遣されるでしょうが、計画はまた遅れてしまうでしょう。でもどうやって……」
「本来あるべき姿を強く頭に思い浮かべよ、それをわたしが読んで元通りに直すことができる。その前に、ひとつ頼みがあるのだ……」
トシミツは宇宙服を着て居住区から出た。50メートルほどぴょんぴょんと飛び跳ねて、立ち止まった。視線の先には赤い二本の柱と、その上方にわたされた二本のアーチの巨大な建造物が立っていた。その向こうには広大な灰色の海が広がり、瑠璃色の地球がぽっかりと浮かんでいた。