a dear sister
兄貴は馬鹿だ。
昔から泣き虫で甘ったれで、とことん勉強がダメだったけど。
こんなに馬鹿で、阿呆で、どうしようもない間抜けだなんて思わなかった。
「兄貴はー?」
「今日もお泊りだって。さっき電話が来たわ」
「……」
「これで四日連続ね」
お母さんと二人で囲む夕食の席は随分と味気ないものだった。
久しぶりに食べるカレーは確かに美味しいけど、確実に何かが足りなかった。
別にそれは食卓に兄貴がいないからとかではない。
今現在も彼女の部屋で馬鹿みたいに乳繰り合っているだろう糞兄貴がいないのは別にいい。
むしろ最近は同じ部屋の空気を吸いたくないほど鬱陶しいので逆に好都合だ。
美味しいはずのカレーに何かが足りない。
高校に上がってから、いや、兄貴に彼女が出来てからめっきり来なくなった三軒先のお隣さん。
私の大好きな「お姉ちゃん」がいないからだ。
私と兄貴とお姉ちゃん。
幼稚園の頃から私達は一緒だった。
お姉ちゃんのお母さんはパートで忙しく、お父さんは単身赴任で地方にいる。
鍵っ子だったお姉ちゃんをいつもわが家が面倒をみていた。
面倒をみるというのには少し語弊があるほどお姉ちゃんは大人しくて手のかからない子供だった。
そして面倒見がよくて私と兄貴の世話をしてくれた。
お母さんもお姉ちゃんのおかげで大分楽をしたと本気で感謝しているほど、私と兄貴はお姉ちゃんのお世話になっていた。
兄貴なんかは今と比べ物にならないほど昔は身体が小さくて、すぐにわんわんわんわん泣いちゃう弱虫だった。
だから近所の悪ガキには格好のいじめ相手で、いつも意地悪をされていた。
当時のことはよく覚えていないけど、兄貴はいつも鼻水を垂らしながらお姉ちゃんの手にしがみ付いていた。
普段は弱虫のくせにお姉ちゃんの手を握る時の力だけは無駄に強かったのを覚えている。
お姉ちゃんは汚い手で触られても怒らなかった。
兄貴の頭をなでなでして、ついでにハンカチで鼻水を拭いてあげてた。
今思い出してもお姉ちゃんは本当に献身的だった。
私がお姉ちゃんのお人形を壊しちゃったときも、お姉ちゃんはよしよしって頭を撫でてくれた。
お母さんよりもお父さんよりも、お姉ちゃんは私と兄貴を大事にしてくれていた。
お姉ちゃんと兄貴が小学校に上がった時は悔しくて一日中泣いていた気がする。
お姉ちゃんと同い年だからってお姉ちゃんを独り占めする兄貴が憎らしくて憎らしくて、家の中ではむしろ悪ガキ以上に兄貴に意地悪をしていた。
まだ力も全然ない幼稚園児の私がちょっと殴っただけで、小学生の兄貴は盛大に泣いた。
お母さんもそういう時は私よりも兄貴を叱っていた。
お兄ちゃんなんだから。
これぐらい我慢しないさいって。
だけどお姉ちゃんは違う。
私が兄貴をいじめるとお姉ちゃんは私を叱って、兄貴に謝れって言う。
だからお姉ちゃんのいる前では絶対しないことにした。
兄貴はどうでもいいけど、お姉ちゃんに嫌われるのはだけは嫌だったから。
お姉ちゃんが大好きだから。
「カレー余っちゃったわねー」
タッパーに入れても、こんだけ余っちゃったらね……困ったわー
と、うちのお母さんは随分とのんびりした人だ。
カレーが余るのはだいぶ珍しかった。
カレーが大好物の兄貴がいないからだ。
中学に入る頃にはどんどん伸びて、随分と図体がでかくなった兄貴。
サッカー部に入るようになってからは馬鹿みたいにご飯を食べていた。
おかげで一時期わが家の冷蔵庫はすっからかんになった。
その兄貴も今は彼女のお宅で何か美味しいものを食べさせてもらっている。
この前久しぶりに夕食を一緒に食べた兄貴は自慢気に彼女が作ったシチューがどれだけ美味かったのかを力説していた。
その時食べていたのもシチューだったため、お母さんには嫌味に聞こえたそうだ。
のんびりしているからこそ、うちのお母さんは怒るとき容赦ない。
無言で兄貴の皿を下げた。
ざまぁみろと内心喜んだ。
彼女が出来てからの兄貴は本気でウザイ。
毎日毎日彼女の家にお泊りして、久しぶりに帰って来たと思ったら惚気オンリー。
こっちはまだ中学生だって言うのに、こう、色々とR指定が入るような内容まで赤裸々に話すもんだからウザイを通り越してもはや公害レベルの何かだ。
兄貴のへらへらした顔を思い出して余計にむしゃくしゃしてきた。
テレビのお笑い番組もまったく面白くない。
何がお馬鹿タレントだ。
馬鹿なんて滅びてしまえ。
「ねぇー、ナツキー?」
お母さんののんびりとした呼び声に「何!?」と半ばキレ気味に振り返った。
「♪」
さっきとは打って変わって、今の私は上機嫌だ。
街灯がぽつぽつと光る夜道をそれこそスキップしそうなノリで歩く。
余ったカレーがたっぷり入ったタッパーをしっかり胸に抱いて、久しぶりに会うお姉ちゃんの喜ぶ顔を想像しながら足早に進んだ。
お姉ちゃんもカレーが大好物だ。
うちのお母さんが作る具が大きいカレーが大好きで、兄貴に彼女が出来る前まではカレーの日にお姉ちゃんを必ず呼ぶというのがわが家のルールだった。
本当は毎日来て欲しいけど、お姉ちゃんが妙な遠慮をしてしまうからとお母さんは間を空けて呼ぶようにしている。
昔は本当に毎日一緒に食べていたのにな…
毎日一緒に食べれなくても、カレーの日だけは絶対一緒だったのに。
原因はきっと、兄貴だ。
兄貴に彼女が出来たと告げられたあの日。
私はついにこの日が来たかと、覚悟を決めて兄貴の話を聞いた。
なのに、だ。
兄貴の口から出た彼女の名前は私のまったく知らない女のものだった。
はっ?
とまずは耳を疑った。
目の前で興奮しながらその女に告白されたこと、随分前から兄貴も気になっていた隣りのクラスの可愛い子だということ……
全部聞き終えても、まだ信じられなかった。
唖然とする私を見てゲラゲラ笑い始めた兄貴に本気で殺意が湧いた。
思わずその時手元にあった広辞苑を兄貴の顔面に投げつけた。
その後はただ馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿死ね死ね馬鹿兄貴と延々と罵った気がする。
ヒステリックに、ひたすら兄貴のことを馬鹿だと言い続けた。
でも。
なんでそんなに怒ってるんだ?と痛む顔を手で抑えながら聞いてきた兄貴に、結局何も言えなかった。
言える筈がなかった。
なんでお姉ちゃんじゃないの
兄貴の彼女は、お姉ちゃんでしょう
どうして違う女が兄貴と付き合ってるの
どうして兄貴はその女と付き合っちゃうの!
そんなの、言える筈がなかった。
二階のお姉ちゃんの部屋には灯りがついていた。
やっぱり今日もおばさんは忙しいみたい。
優しいおばさんのことだから、きっと今日もお姉ちゃんを独りにさせることを申し訳なく思いながら働いているんだろうな……
おばさんの優しい顔立ちを思い出しながら、私は玄関のチャイムを押した。
この頃は物騒だからインターフォンに替えたほうがいいんじゃないかなってお節介なことを考えてしまう。
久しぶりに会うお姉ちゃんのことを考えると胸がどきどきした。
ずっと本物の姉妹みたいだねって言われてきたけど、やっぱりしばらく会わなくなるとどう接すればいいのか分からなくなる。
悶々と考えている内に玄関の扉が開いた。
慌てて挨拶しようとした。
「こんばんっ………は?」
出迎えてくれたのは、まったく知らない男の人だった。
「こんばんは」
にっこり微笑んだその人からは大人の香りがした。
唖然としながら、馬鹿みたいにお姉ちゃんの家から出てきたその男の人を見ていた。
その男の人は髪をミルクティー色に染めていて、お姉ちゃんと兄貴と同じ制服を着ていた。
緩く巻かれたネクタイ、襟がだらしく開いていて、鎖骨にきらりと光るネックレスをしていた。
髪に隠れているが両耳にお洒落なピアスもしている。
それがすごく似合っていて、だらしない着方をしているはずなのに爽やかで優しい印象を与えた。
正直言って物凄く格好良かった。
うちの馬鹿兄貴も顔だけはよかったけど、なんだろう、目の前の男の人からは善い人オーラがばんばん出ているのだ。
柔らかい笑顔と優しい瞳がその要因だと思う。
兄貴と違って知的な感じもする。
一瞬で、兄貴との違いを感じ取った。
この人は誰だろうと、一瞬警戒したけど、その優しい瞳を見ると悪い人ではないんだなと直感した。
そして、すぐに目の前の男の人が何者で、どうしてお姉ちゃんの家にいるのか、理解した。
そんなの、一つしかないのに。
「お姉ちゃんの、彼氏?」
ぽろりと口から転びだしたそのまんまな台詞に内心慌てた。
男の人は少し驚いた顔をしたけどすぐに顔を赤くした。
着崩した制服と大人びた雰囲気を漂わせる男の人が赤面して目をきょろきょろと動かすとは思わなかった。
「……『お姉ちゃん』ってユキのことだよね?」
「はい」
「えーと……うん、そうだよ。二週間ぐらい前から付き合ってるんだ、」
俺達。
そう言って、男の人は恥ずかしそうに微笑んだ。
とっても幸せそうな笑顔を浮かべて。
その笑顔を見て、何故か安心した。
(あ、大丈夫だ)
この人なら大丈夫だって。
目の前のこの人なら、お姉ちゃんを幸せに出来るって。
どういう経緯でお姉ちゃんと付き合うようになったのかとか、むしろ今目の前にいる彼氏さんの名前すら知らないのに、私はその場で腰が抜けてしまうぐらい安心した。
大丈夫だ。
目の前の、この男の人ならお姉ちゃんを幸せにできる。
何も知らないけど、そもそもお姉ちゃんに彼氏が出来たなんて全然聞いてなかったけど、お姉ちゃんはきっと今幸せなんだと思う。
だって、
だって、この人からはこんなにもお姉ちゃんが大好きだって、愛しているんだっていう気持ちが、愛情が、溢れ出ている。
(あ。やばい……っ)
本気で涙が出そうになった。
見えないように顔を隠しながら、急いでカレーの匂いがするタッパーを差し出した。
「これ、『三軒先の三村からです』ってお姉ちゃんに伝えて」
「え……!あっ、カレー……?」
「お肉、いっぱい取ったから……」
お姉ちゃんと一緒にどうぞ!
なんだかその場にいるのが居た堪れなくて、男の人にタッパーを押し付けてすぐにわが家に向かってダッシュした。
慌てた感じの男の人の声が聞こえたけど、そんなの気にしない。
お姉ちゃんは今、何をしているんだろう。
部屋にいるのかな。
勉強でもしているのかな。
それで男の人が代わりに玄関に出たのかな。
どうでもいいようですごく重要な疑問がどんどん溢れてくるけど、脚は止まらなかった。
お姉ちゃんの家から三軒先のわが家。
すぐに着く。
その距離は昔と全然変わらないはずなのに、心は随分と遠くなってしまった。
きっと昔のお姉ちゃんだったら彼氏が出来たらすぐに報告してくれただろうな。
そして昔のお姉ちゃんだったら、
きっと、兄貴以外の男に振り向くなんてこと、なかった。
だって、お姉ちゃんはずっと、ずっと兄貴だけを見てきたから。
私はそんなお姉ちゃんと兄貴をずっと見てきたから。
「おかえりー」
家に帰ると、のんびりしたお母さんが出迎えてくれた。
いつものわが家だ。
さっき会った男の人が、まるで夢のようだった。
「……どうしたの?」
心配そうな顔で慌ててお母さんが私の顔を覗いた。
涙がポロポロと零れて、止まらないのだ。
嬉しい筈なのに。
お姉ちゃんに格好良い彼氏が出来て、すごく嬉しい筈なのに。
お姉ちゃんが何も言わなかったことが哀しくて、兄貴がムカついて、彼女が出来て浮かれる兄貴に何も言えなかった自分が悔しくて、
ただ黙って兄貴を祝福したお姉ちゃんに腹が立って。
どうして自分の気持ちを言わないの。
お姉ちゃんの気持ち、気付いていないのはあの馬鹿兄貴ぐらいだよ。
お母さんだって、おばさんだって、兄貴をいじめてた悪ガキだって、みんな知っているのに。
どうして、「好き」だって言わなかったの。
どうして、兄貴以外の人と付き合っちゃうの。
いつの間にかお母さんに頭を撫でられていた。
泣いている私を抱きしめて、お母さんは小さい子にするみたいに背中をぽんぽんと叩いてくれた。
いつも、慰めてくれたのは、泣いている私を慰めてくれたのはお姉ちゃんだった。
私と兄貴の味方は、ずっとお姉ちゃんだった。
ああ、ごめんね。
ごめんね、お姉ちゃん。
今はお姉ちゃんに「おめでとう」って言えない。
だって、だって私はずっとお姉ちゃんと兄貴が一緒にいるところを見てきた。
お姉ちゃんの右手は私のもので、お姉ちゃんの左手は兄貴のものだった。
ずっと、ずっと、三人でいられるって、馬鹿みたいに信じていた。
大好きなお姉ちゃん。
タッパーを返しに来るまでには、気持ちの整理をつけるから。
あの男の人と、幸せになってね。
兄貴は馬鹿だ。
昔から泣き虫で甘ったれで、とことん勉強がダメだったけど。
ほら、お姉ちゃんをとられちゃった。




