第3話 棚の奥の囁き
夜の11時。店内は静まり返り、風の音だけが窓を震わせる。
さっきの足音、白い影、そして笑い声……すべてが頭にこびりついて離れない。俺、九島龍堂は深夜の事故物件コンビニで、恐怖と好奇心に押し潰されそうになりながら、レジに立っていた。
棚の奥の扉を、ついに意識して見てしまう。黒く深い闇の中から、微かに囁く声が聞こえる気がした。風でもない、空気の流れでもない、誰かが低く呟く声――いや、声ではなく、音そのものが意味を持って俺に迫ってくる。
「……来い……」
かすかな声。耳を澄ませると、何度も繰り返される。まるで俺の名前を呼ぶように。
手元の懐中電灯を握り直す。光を棚の奥に向けると、埃が舞い、微かに影が揺れる。
「……やめろ……」
心の中でつぶやくが、声にならない。影は確かに、俺を引き込もうとするように動く。
棚の隙間に古びた紙片が落ちていた。拾い上げると、文字がぼやけて読めない。インクは黒というより濃い赤で、湿っていて指先に粘る感触があった。腐敗臭が混ざり、吐き気をもよおす。
ふと、棚の奥から冷たい風が吹き、紙片がひらりと舞った。その瞬間、背後に視線を感じる。振り向くが誰もいない。ただ、店内の空気が押し付けるように重い。
再び扉に目をやる。奥の闇が、微かに光を帯び、俺を覗き込んでいるように見えた。
心臓が跳ねる。手が震え、息が浅くなる。
「……棚の奥……本当にいるのか……」
呟くと、返事のように低い囁きが重なった。言葉にはならず、ただ耳の奥で蠢く何か。まるで、俺の脳をじわじわと押さえつける感覚だ。
レジの奥の日誌がまた揺れた。ページをめくると、過去のアルバイトたちの記録が断片的に残っている。
「夜勤中に影に触れられた」「声が聞こえる」「消えた客」
赤い文字がところどころに滲み、読むだけで胸が悪くなる。視線を上げると、棚の奥の闇は確実に深く、蠢く影は確かに存在する。
足元で小さな音がした。紙や包装紙ではない、骨か何かを擦るような音。
振り返ると、そこには何もない。ただ、棚の奥に、俺を見つめる闇だけがある。
影はじっと待っている。俺が近づくのを、奥で静かに待っている――。
恐怖と嫌悪感で吐きそうになりながらも、俺は棚に手を伸ばす。
触れた瞬間、冷たい感触が指先に走り、棚の奥から微かに囁きが増幅した。耳を覆いたくなるほどの低い声。
「……来い……」
その一言で、全身の血が凍った。息が止まり、視界の端で黒い影がゆらりと動く。
棚の奥に何がいるのか――今の俺にはまだ分からない。だが、確かに、そこには得体の知れない何かが蠢き、俺を呼んでいる。




