はじめに
いまだに紅楼夢というタイトルにしたことを悔いている。
私の翻案の話順どおりにするならば、「石頭記」とするのが適当だろうからだ。
もし、「紅楼夢」というタイトルにし、かつ賈宝玉を主人公とするならば、絳珠草が神瑛侍者に甘露を与えられ、涙で返すと約束する場面から始めるべきだろう。
だが、私は話順をそうしなかった。この名前も定かではない作品をフルスペックで味わおうとするならば石の来歴から語らなければならない。
ただ、紅楼夢と言葉があまりに魅力的でこのタイトルにするのを我慢することができなかった。そのためタイトルと内容、名と実がちぐはぐになっている。どうかご容赦いただきたい。
もし、エンターテインメントとしてこの作品(以降紅楼夢とする)を扱うならば、太虚幻境の最初の契りの場面から、恋愛小説として仕上げるのが一番良いと思う。宝玉、黛玉、宝釵の三者関係はいかにも分かりやすい。
だが、紅楼夢にも「恋愛小説としての欠陥」があって、それは三者関係が必ずしも三角関係になっていないことだ。宝玉と黛玉はいわずもがなだが、宝釵は宝玉のことを意に介していない(ように見える)。 宝釵は自分の本心をあまり語らない。古典小説のヒロインのなかでも筋金入りのひねくれもの、林黛玉の人気が高いのは、彼女が「情」で多くを語るからだろう。紅楼夢は「情」が前に見えやすい。
私も最初は紅楼夢を「情」の文学であると思っていた。だが、実際に書き進めるにつれて、そこに疑問がわいてきた。「情」だけでは説明できない部分が紅楼夢にはある。
分かりやすいのは原書中にも言及がある、真は仮、仮は真という言葉。「真」と「仮」。「本物」と「偽物」。それを体現するのはもちろん甄士隠と賈雨村である。出家して世俗を離れる士隠、世俗に没入していく雨村。ただし、単純に出家することが素晴らしいということではないのは寧国府の賈敬を見ても明らかだろう。
この「真」から「仮」の軸をじっくり描いているのが一話から二話、林黛玉が登場する前までで、このあたりまで物語はローギアで進む。率直にいえばつまらない。私もここは動かすことができず、ほぼ直訳で原書や過去の翻訳にならうより他なかった。ただこれに意図があることは、後述する紅楼夢の解説本、脂評にも言及されているところだ。
三話から紅楼夢のもう一つの軸が顔をのぞかせる。「情」と「理」である。「情」の体現者である黛玉が栄国府で会う人物で初めて詳しく描かれるのは「理」の体現者である王熙鳳だ。
「情」が「理」を侵食し、「理」が「情」を制圧して寧栄の賈府は崩壊し始める。
従来言われていた「情」の宝玉の成長と破滅の物語というのは片手落ちで、「理」の側の人々の成長と破滅の物語でもあると今では考えている。だが、一人の人間にどちらか一つとは限らない。一個の人間に「情」も「理」も両立しうるだろう。それが両立したと思われる人物も物語中に存在する。
前置きが長くなったが、本稿は私の備忘録であり、資料のまとめであり、脂評と翻案中に言及できない、微に入り細を穿つ箇所を紹介していくつもりである。私の妄想に近い考えと脂評は分けて紹介するつもりだが、妄想の部分はただの戯れと一笑に付していただけるとうれしい。
この原書の作者が誰かはよく分からないが、読者に明かされない良い意味でのほのめかしの部分があまりにも大きく、そのほのめかしの深意は読み込めば読み込むほど深長、その文学的態度は高潔で一語を加えることも一語を削ることも許されないという脂評は正しい、と私は思う。
それに一考、一語を加えるのはそもそも冒涜であると思うけれども、翻案者である自分にだけ分かり、読者には分からない状況を悦に入る自分もいやだ、という相反する感情のせめぎあいで拙稿を披歴することにした。
これから先の文章は物語の先の展開、種明かしを含む。それに留意され、お目通しいただければ幸いである。
また現行の翻案、第七話から稿を始めることをお許しいただきたい。