05話 デビュタント
――私がデイジーの指導を始めてから一年が経過しました。
この一年間、デイジーはよく学びました。
礼儀作法、立ち居振る舞い、上流の言葉遣い、手紙の書き方、序列や主だった貴族についての知識。
貴族出身の家庭教師を雇い、私はデイジーにはこれらを学ばせました。
ダンス教師を雇いダンスも習わせました。
ダンスの習得は早かったです。
平民だったデイジーは街のお祭りではよくダンスを踊っていたらしく、舞踏会で踊られるカドリールやワルツはステップを覚えたらすぐに踊れるようになりました。
貴族の子女はさらに、外国語、歴史、地理、楽器演奏、絵画なども学びます。
一年間でそれらを全て修めるのは、いくらデイジーが優秀でやる気があっても厳しいですから、デイジーには社交場で必要なことを重点的に学ばせました。
美術展、音楽会、オペラ鑑賞、観劇にも連れて行き、教養もつけさせました。
身内だけの晩餐会や茶会や舞踏会を開いて、実践訓練も行いました。
そしてついに、デビュタント舞踏会のシーズンがやって来ました。
私が一年間、手塩にかけて育て上げたデイジーが、いよいよ社交界デビューです。
◆
「デイジー、とても綺麗よ」
デビュタントの真珠色のドレスを纏ったデイジーの姿に、私は感無量でした。
平民育ちだったデイジーは我が家に来た当初には肌が日焼けして荒れていましたが、貴族の娘として一年間過ごし、肌は雪花石膏のように美しくなりました。
ドレスは上等の光沢のある布地の上に透ける紗が重ねられているものです。
この薄紗はデイジーの動きに合わせてふわりふわりと揺れます。
デコルテの開いた首元には真珠のネックレス。
黄金色の髪を編み込んで結い上げ、長手袋をはめた姿は、どこからどう見ても高貴な生まれの清楚な令嬢です。
そして何よりデイジーの花の顔。
あどけない愛嬌のある美貌は、汚れを知らぬ天使のよう。
紫水晶の瞳には、金色のまつ毛が煙るように影を落としています。
この高貴で儚げで美しい令嬢が、ほんの一年前には『お姉様のドレスちょうだい』などと卑しくも物乞いをして、キョトン顔で『へ?』と変な声を出し、『ピエロって何よ! 馬鹿にしないで!』とイキリ立っていたなどと、一体誰が信じるでしょう。
美しい淑女に仕上がったデイジーの姿に、私は胸が熱くなりました。
私もデイジーも、よくぞここまで頑張ったものです。
「今日はきっとデイジーが一番美しいわ。デイジーはエンフィールド公爵家の宝石よ」
「リナリアお姉様、ありがとうございます」
デイジーは楚々とした仕草で言いました。
「でもリナリアお姉様にそんなふうに褒められると、何か皮肉を言われているのではないかと不安になってしまいます」
「皮肉じゃないわ。心からの言葉よ。デイジーは私の最高傑作よ!」
「お姉様、そのお言葉は信じていいのですか?!」
「もちろんよ! デイジー、見事な淑女ぶりよ!」
「お姉様!」
「デイジー!」
私たち姉妹は手を取り合い、今日という日を喜び合いました。
「これでエスコートが、お父様でさえなければ……」
デイジーがふっと表情を影らせてそう言ったので、私は苦笑しました。
「そこは仕方ないわ。あれで一応エンフィールド公爵なのだもの」
「はあ……」
儚げな天使のように美しいデイジーは、物憂げに小さな溜息を吐きました。
デイジーの憂鬱の原因は父です。
デビュタント舞踏会でのデイジーのエスコートは、最初は従兄に頼む予定でした。
デイジーの淑女教育の実践訓練として行った内輪の舞踏会に、従兄弟たちは何度も協力してくれていたので、勝手知ったる相手でした。
しかし父が、自分がデイジーをエスコートするといって横槍を入れたのです。
さすがにこれには私も腸が煮えくり返りました。
父はデイジーの世話をまったくせず放置していたのに、美味しい役だけかっさらおうというのですから。
ですが、父はエンフィールド公爵であり、デイジーはエンフィールド公爵の娘であるからこそ王宮のデビュタント舞踏会に参加できるので、父の決定に従わざるを得ませんでした。
婚約者のいないデビュタントを父親がエスコートすることは珍しくありません。
しかしデイジーは父に複数の愛人がいることを知って以来、父とは距離をとるようになっていましたので、父にエスコートされることは当然ながら嫌なようです。
留守がちな父は、デイジーに避けられていることに気付いていませんが。
デイジーが厳しい淑女教育に熱意をもって取り組めたのは、父から離れたいという気持ちが原動力でもありました。
デイジーが淑女となり良い結婚相手を得れば、デイジーが母であるカトレア夫人の面倒をみれるようになります。
実はカトレア夫人は、父と別れるためにメイドとして身を立てることを考えていて、今はこの屋敷でメイドの仕事をして給金を得ています。
家政を使用人に丸投げしている父は、当然カトレア夫人が働いていることを知りません。
カトレア夫人はこの屋敷で働くのはデイジーが結婚するまでで、その後は他の家で働くつもりのようです。
ですがデイジーは、良い結婚をしてカトレア夫人の生活の面倒をみて、楽をさせたいと言っています。
そう、カトレア夫人も、父に愛想をつかしているのです。
デイジーとカトレア夫人にとって、父の愛人遍歴の話はよほどショックだったようです。
それゆえデイジーは、より良い結婚相手を見つけるために、厳しい淑女教育を頑張りました。
自分の価値を高めれば良い選択肢が増えることをデイジーは理解しているのです。
とはいえ、デイジーは父のせいで、貴族全般に幻滅してしまっているらしく、結婚するなら資産家の平民が良いと言っています。
誠実な人と結婚して幸せになりたいので、爛れた貴族とは結婚したくないのだそうです。
平民でも資産家は、女優や歌手のパトロンになっていたり、高級娼館に出入りしたりしていることを、私は父の愛人パンジーさんやジャスミンさんから聞いて知っていましたが、そこはデイジーには黙っていました。
モチベーションが下がったら大変ですから。
それからもう一つ。
デイジーが淑女教育に熱意を持てた理由は、やはり貴族に対する感情でした。
爛れた貴族に馬鹿にされて見下されるのは腹が立つので「文句が言えないようにしてやるわ」とのことです。
デイジーは見た目はあどけなく可愛らしいですが、負けん気が強く、不撓不屈の精神力を持っています。
かつて私のところに「お姉様のドレスちょうだい」と突撃して先制攻撃を仕掛けて来たくらいですから。
その強靭な精神力に「文句のつけようのない淑女になって、貴族たちを黙らせる」という方向性を与えてやったら、素晴らしい成果をあげてくれました。
「デイジー、お父様がいるからといって感情を見せては駄目よ。笑顔の仮面を忘れずにね」
「はい、お姉様。心得ております」
父の愛人遍歴は社交界でも知れていましたので、デイジーには「あのエンフィールド公爵が平民に生ませた庶子らしい」という、あまり良くない前評判があります。
父は自分のせいでデイジーに良くない前評判があることなど知らないようで、気楽なものですが、皆の好奇の眼差しの矢面に立つのはデイジーです。
「完全武装しているのだから大丈夫よ」
社交界という戦場でこれから初陣を飾ろうとしているデイジーを、私は激励しました。
「今のデイジーに隙はないわ」
「本当ですか? お姉様の目から見ても?」
「装いは完璧。木っ端貴族たちはネックレスを見ただけで怯えて逃げ出すでしょう。これだけ大粒の真珠は、雑魚には一生手が届かない代物よ」
デイジーの真珠のネックレスには大粒の真珠が使われていて、これはかなり値が張る品です。
真珠は控えめな輝きで、見た目は清楚なのですが、大粒になるほどに値段は凶暴さを増すのです。
しかし何と言っても最大戦力は、デイジーのあどけない美貌です。
「貴女の美しさの前に皆がひれ伏すでしょう。大丈夫、お作法だって何度も練習したのだもの。いつも通りにやれば良いのよ。全員黙らせておやりなさい」
「は、はい、お姉様。頑張ります! 黙らせてやります!」
デイジーの士気もなかなか高いようで、私は勝利を確信しました。
世界よ、とくとご覧なさい!
私のデイジーを!
◆
――その夜。
エンフィールド公爵令嬢デイジー・エンフィールドのデビューに、デビュタント舞踏会は震撼しました。
後に『傾国の令嬢』の二つ名で呼ばれることになるデイジーが、社交界に鮮烈にデビューした瞬間でした。
そしてそれは国家を揺るがす大騒動のプロローグとなったのです。