34話 さようなら、エンフィールド公爵
――バジル様からカトレア夫人に、王宮女官のお話をいただいた数日後。
カトレア夫人が、私とデイジーに話があるというので、私たちは向き合って座っています。
「いつでも良いというから、来週から働くことにしたの」
カトレア夫人のその言葉に、デイジーは驚きの声をあげました。
「え?! 来週?!」
カトレア夫人は、バジル様から持ち掛けられた王宮女官の話を即決しました。
そして来週からもう、離宮に移り、あちらで働き始めるつもりであることを私とデイジーに告げました。
「そ、そんなに急に?!」
この急な予定にデイジーは衝撃を受けたようで、悲愴な顔をしました。
しかしカトレア夫人は、野望に燃えるような眼差しで言いました。
「だって結婚を考えているなら早いほうが良いでしょう? 一日も早く女官の経歴が欲しいのよ」
「……」
デイジーは、母であるカトレア夫人がいなくなることに戸惑っているようですが。
新しい人生に踏み出そうとしているカトレア夫人を、引き留めることは憚られたのでしょう。
不安そうな顔をしながらも了承の返事をしました。
「わ、解ったわ……。母さんの新しい人生を応援している」
「ありがとう、デイジー」
カトレア夫人は明るい笑顔を浮かべました。
「私もデイジーのことをいつでも応援しているわ。口の上手い男に騙されちゃダメよ。結婚相手はしっかり選びなさいね」
「……うん……解ってる」
「デイジーは社交界一の美女で、頑張り屋で、私の自慢の娘ですもの。きっと良い人に出会えるわ」
「うん……」
母と離れることになり少し落ち込んだのか、元気がなくなったデイジーを、カトレア夫人は励ましました。
そしてカトレア夫人は私を振り向いて言いました。
「リナリア様、デイジーをよろしくお願いします」
「ええ、任せてください」
初対面のときには、私に疑惑の目を向けて来たカトレア夫人ですが。
今ではすっかり私の事を信用してくれています。
「それで、話は少し変わりますが、リナリア様、私……」
カトレア夫人は、少し表情を曇らせて切り出しました。
「お父様に……、セージ・エンフィールドにきちんとお別れをしたいのです。あの人、次はいつ帰ってくるのかしら?」
「そういうことなら呼びにやりましょう。大体の居場所は解ります。それから……そうですね……」
私は少し考えました。
「そういうお話なら、ガジュマル叔父様に来てもらいましょう。お父様がもし駄々をこねたりするようだったら、ガジュマル叔父様に言ってもらうのが一番ですから」
◆
「ははははっ……!」
私がカトレア夫人の事情を話すと、ガジュマル叔父は笑い出しました。
不機嫌そうな顔をしていることが常で、あまり笑わない叔父が、珍しく声を上げて大笑いしました。
「それは良い! 凄く良い! 面白い!」
ひとしきり笑い転げると、叔父は楽しそうに私に言いました。
「ぜひお手伝いさせてくれ。いや、呼ばれなくても絶対に見に行く」
◆
「ガ、ガジュマル……! どうしてここに……?!」
カトレア夫人がエンフィールド家を出る前日。
私はガジュマル叔父様と相談して、カトレア夫人がエンフィールド公爵セージ・エンフィールドに別れを告げるための場を設けました。
私とデイジー、そしてガジュマル叔父が立ち会いました。
私の叔父ガジュマル・エンフィールドは、父の実弟で、実業家でもありますが、事実上エンフィールド領の管理をしている有能な人です。
ちゃらんぽらんで口先だけの父とは正反対で、真面目で口数はあまり多くなく仕事が出来る人です。
ガジュマル叔父を恐れている父は、叔父の姿を見るやいなや顔色を変えました。
「兄上に、カトレア夫人から話があるそうだ」
ガジュマル叔父は針のように鋭い視線で、父を見て言いました。
「あ、ああ、うむ……」
父は顔を強張らせて頷きました。
ガジュマル叔父はにっこりと微笑を浮かべました。
普段あまり笑顔を見せない叔父が微笑むと、何となく凄みのようなものがあります。
叔父の笑顔に、父がびくっと身を縮めました。
「カトレア夫人、さあ、兄上に何でも言ってやれば良い。私が立ち会います」
ガジュマル叔父にそう促され、カトレア夫人は頷くと、父の前に立ちました。
「セージ・エンフィールド、貴方とお別れしようと思うの」
カトレア夫人が毅然とした態度でそう言うと、父は面食らったように目を見開きました。
「なっ……、何と?」
キョトン顔をしている父に、カトレア夫人はもう一度言いました。
「貴方と、お別れ、しようと思うの!」
「ど、どうしたんだ。何があったのだ? 何か問題があったのか?」
「問題だらけよ!」
カトレア夫人は怒気を露わにして声を荒らげました。
「貴方、他にも愛人がいるんでしょう! 何が『愛しているのは君だけ』よ! 私の事ずっと騙していたでしょう!」
「そ、そ、それは、愛している人には幸せになって欲しいから……」
「言い訳になってないわよ!」
「カ、カトレア、な、何を怒っているんだ。何があったんだ……」
「貴方がずーっと浮気してたのよ!」
「浮気なんてしてない! 愛している!」
「後から後から、よくもそんな嘘が吐けるわね! 何人に同じこと言っていたのよ!」
怒れるカトレア夫人は破壊神のような形相で、右手を大きく振りかぶりました。
「この、スケコマシ!」
力強く振り下ろされたカトレア夫人の右手が、父の頬に直撃しました。
――バッチーン!
「きゃんっ!」
平手打ちされた父が、細い悲鳴を上げました。
「母さん、駄目!」
二発目の平手を振りかぶったカトレア夫人を、デイジーが体ごと押さえました。
「お父様はあんなんでも公爵なのよ! 公爵に危害を加えたら縛り首よ!」
階級社会について勉強をしたデイジーは、平民が貴族に危害を加えたらどうなるかを知っていますので、怒りで気が立っているカトレア夫人を必死に止めようとしました。
「デイジー、心配しなくて良い」
ガジュマル叔父は楽しそうにしながらデイジーにそういうと、平手打ちされたショックで呆然としている父の背後に、さっと回りました。
そして父を羽交い絞めにしました。
「ぴゃっ!」
父が恐怖に顔を引きつらせて悲鳴を上げました。
「ガ、ガジュマル、な、な、何をする気だ……!」
「兄上、か弱い女性にひっぱたかれたくらいで、貴族の権利を振り回して仕返しするなんて、そんな男としてみっともない真似はしませんよね?」
「も、も、も、もちろんだ……!」
「と、いうことですので、カトレア夫人、存分に兄上をひっぱたいてどうぞ」
「ぴゃぁ!」
父は恐怖を叫びましたが、カトレア夫人は静謐な表情で言いました。
「ガジュマル様、ありがとうございます。では、お言葉に甘えて……!」
カトレア夫人は鋭い眼差しで父に狙いを定め、もう一度右手を振りかぶり、父の顔を目掛けて振り下ろしました。
――バッチーン!
「ぴぅ!」
父が変な声を上げました。
「ふん!」
カトレア夫人は蔑みの目を父に向けて言いました。
「セージ、お別れよ」
「カ、カトレア……! それはどういう意味……?!」
「貴方と別れるって言っているの。浮気者には愛想が尽きたの」
「そ、そんな、嘘だ! 君は私の事を愛している!」
「それは昔の話。今はもう愛してなんかいません。うんざりよ。だからもうお別れするの」
「嘘だ!」
「私はここを出て行くから。もう二度と会わない」
「どうして、どうして……!」
「愛想が尽きたって言っているでしょう。もう顔も見たくないの」
「嘘だ、嘘だ!」
「そういうことだから……」
カトレア夫人は冷め切った顔で父に言いました。
「さようなら、エンフィールド公爵」
◆
父はその後、失恋のショックで寝込んでしまいました。
ガジュマル叔父が言うには、父が女性に面と向かって振られたのは、これが初めてだったそうです。
「でも、父の愛人の数は昔より減っていますよね? とっくに何度も振られていたのではありませんか?」
私の質問に、叔父は楽しそうに笑って答えました。
「うん、愛想を尽かして離れていった女性もいるよ。でもはっきり別れを告げた女性はいなかったんだ。だから兄上は、離れた女性たちは何か事情があって会えなくなったと思っている。そして彼女たちは今でも兄上のことを愛しているはずだと信じ切っている」
「そんな……都合の良い解釈を……」
「そういう生き物なんだよ、あれは」
次が最終話です。




