33話 王宮女官
私とデイジーと、デイジーの母カトレア夫人は、バジル様のご招待を受けて王弟殿下のお住まいである離宮へと伺いました。
「カトレア夫人、王宮女官としてこの離宮で働いてみませんか?」
バジル様はカトレア夫人に女官の仕事を持ちかけました。
女官とは、平たく言えば王宮で働くメイドです。
身分や官位がなければ王宮には立ち入れないため、王宮でメイドとして採用される女性には、低い身分ではありますが、官位が与えられます。
そのため王宮で働くメイドは女官と呼ばれています。
「どうして私などを取り立ててくださるのですか? 私はただの平民ですのに」
カトレア夫人は恐縮しながらも首を傾げました。
不思議ではないと思いますよ?
だってバジル様はデイジーに求婚しているのですから、母親であるカトレア夫人を懐柔しようとするのは常套手段です。
将を射んとする者はまず馬を射よ、と申しますもの。
デイジーも私と同じことを考えているのか、疑惑の眼差しでバジル様の様子を窺っています。
「私はエンフィールド家のご姉妹には、常日頃、親しくしていただいております。デイジー嬢のお母君、カトレア夫人が、メイドとして身を立てることをお考えだと知り、日ごろの感謝をこめて、ぜひともお手伝いをしたいと思ったのです」
「お気持ちありがたく存じます。ですが……」
カトレア夫人はコテンと首を傾げました。
「デイジーが結婚相手に貴方を選ぶかどうかは、まだ解りませんのよ?」
いきなり真っ直ぐにカトレア夫人は切り込みました。
無邪気な顔をしてさらっと衝撃的なことを言うところ、やはりデイジーのお母様だなと実感いたします。
「……っ!」
バジル様が一瞬、ぎくりとしたお顔をなさいました。
見え見えの手段ですもの。
見透かされていても、驚くようなことではないと思うのですが。
「その件につきまして、お気兼ねは無用です」
バジル様は社交的な笑顔でカトレア夫人に答えました。
「私はたしかにデイジー嬢に求婚しておりますが、それとこれとは別です。これはエンフィールド家のご姉妹への感謝をこめて、カトレア夫人のお手伝いがしたいと思った次第です」
バジル様はしかつめらしい顔をしました。
「……カトレア夫人が、いずれエンフィールド家を出るおつもりだとお聞きしております……」
なるほど。
それでこの話は父には内密にということだったのですね。
カトレア夫人は、私たちの父、エンフィールド公爵セージ・エンフィールドの愛人ですが、彼女は父と別れる決心をしてメイドの仕事を始めたのです。
カトレア夫人は現在、エンフィールド家のメイドとして働いています。
ですがデイジーが結婚してエンフィールド家を出たら、カトレア夫人もエンフィールド家のメイドを辞職し、別の家でメイドの仕事をして生活するつもりなのです。
カトレア夫人がメイドの仕事を始めたのは、父と別れるためですので、エンフィールド家を出て行くのは当然と言えます。
ちなみに父は、カトレア夫人にすでに捨てられていることに、まだ気づいていません。
「ええ、はい。いずれはエンフィールド家を出て、他家のメイドになるつもりです」
「他家に移るおつもりでしたら、ぜひ我が家で働いていただきたいと思ったのです」
バジル様の『我が家』とは、広大な王宮の敷地の一画に建つこの離宮のことです。
「私はエンフィールド家のご姉妹とは親しくさせていただいておりますので、我が家に来ていただければ、いつでもご姉妹と気兼ねなく会うこともできます」
「でもデイジーが貴方と結婚するとは限りませんのよ?」
カトレア夫人がまた、バジル様に鋭く切り込みました。
しかしバジル様は怯まずに進軍を続けました。
「求婚について、デイジー嬢に良い返事をいただけなかったとしても、友人であることには変わりありません。大切な友人のお母君であるカトレア夫人のことは私が責任を持ってお世話いたします。それに……」
バジル様は切り札でも出すのか、自信がありそうな表情を浮かべました。
「メイドを目指すなら、王宮の女官はメイドの最高峰です。もし王宮女官を辞職なさるときには、私の母、王弟妃殿下が紹介状を書きますので、再就職も思いのままとなるでしょう」
「……!」
それまで俯き加減だったカトレア夫人が、ぱっと顔を上げて目を輝かせました。
そして私を振り向いて確認するように言いました。
「リナリア様、王宮女官って、そうなんですの?」
「ええ。王弟妃殿下の紹介状がいただけるなら、どこの家でも雇われると思います」
「そうなのですね」
カトレア夫人は私の答えを聞くと、バジル様に前向きな質問を始めました。
「私は平民です。平民が王宮女官になれるでしょうか」
「なれます。この離宮には平民の女官もおります。この離宮の女主人は私の母、王弟妃殿下です。私が推薦すれば母は採用してくれます」
「私はお作法も未熟です。エンフィールド家でお作法は教わっておりますが、まだまだ知らないことや、戸惑うことがあります。王宮の女官になるには、どのくらいのレベルのお作法が必要でしょうか?」
カトレア夫人、かなり前向きですね。
「作法はこちらで指導いたします。……そうそう」
バジル様は思い出したように言いました。
どこかのタイミングで出すつもりの話だったのかもしれませんが。
「デイジー嬢のお友達、クローブ子爵のご令嬢ミモザさんも、今、女官としてこの離宮で働いています」
ミモザというのはデイジーの信望者のあの小娘ですね。
葡萄酒事件の現場に居合わせ、調書の作成のためバジル様に協力したという。
「え?! ミモザさんが?!」
デイジーが軽く驚いたような顔でバジル様に言いました。
「女官になられたのですか?!」
「はい。ミモザさんには私もお世話になりましたので、何かお手伝いが出来ればと思い、女官の仕事を紹介しました」
「ミモザさんはここで働いているのですか?!」
「はい。ミモザさんは貴族の娘ですから、侍女となって行儀見習いをしています。ご心配ならミモザさんにも話を聞いてみてはいかがでしょう」
カトレア夫人はデイジーを振り向きました。
「デイジー、ミモザさんというお方はお友達なの?」
「ええ、お友達よ」
少し警戒心を解いたようなデイジーとカトレア夫人の様子を見て、バジル様はわずかに喜色を浮かべて説明を続けました。
「下位貴族のご令嬢には、王宮女官の経歴があれば結婚に有利となりますから、お手伝いさせていただいております」
「結婚に……?」
カトレア夫人が少し興味ありそうな目でバジル様に問い掛けるように言いました。
「はい。女官の経歴があれば箔がつきます。下位の貴族のご令嬢であれば、女官の経歴は嫁入り道具にもなるのです」
「箔がつくのですか?」
「はい」
バジル様は手ごたえを感じたのか、前のめりに勧誘を続けました。
「王宮女官は、女性の職業としては最上級の職業です。平民でいらっしゃるカトレア夫人にも王宮女官の経歴は箔になります。もしカトレア夫人がご結婚をお考えになった場合にも王宮女官の経歴は有利に働くでしょう」
「……!」
カトレア夫人は衝撃を受けたような顔をしました。
カトレア夫人は父の愛人でしたので、デイジーという子はいますが未婚です。
結婚には複雑な思いがあるのかもしれません。
「いえ……私はもうこの歳ですし……結婚は難しいでしょうから……」
カトレア夫人は自分を卑下するかのようにモジモジとしながらも、結婚の話に興味がありそうな素振りを見せました。
「王宮には独身の男性もいますから、カトレア夫人ほどお美しければ結婚相手はいくらでも見つかると思います」
「でも……独身の男性はお若いお方ばかりなのでしょう?」
「いいえ、仕事漬けで婚期を逃した文官や武官はそれなりに居るのです。母はそういった男性との縁談を女官に紹介して、お見合いをさせることもあります。母は何組ものご夫婦の結婚のお手伝いをしております」
「……っ!」
バジル様のお話に、カトレア夫人の目が爛々と輝き始めました。
「もしカトレア夫人がお望みなら、母に縁談を探してもらいましょう」
「そ、そんな……私なんかが……」
カトレア夫人は口では卑下しながらも、満更でもない顔をしました。
「王宮女官は、王家が身元を確認した女性となりますので、結婚に際して身元を怪しまれることはありません。良い家との縁談にも有利に働くでしょう」
「……」
カトレア夫人は野望に燃えているかのような瞳で、考え込みました。
「……結婚……」
真剣な表情で考えを巡らせている様子のカトレア夫人に、デイジーがおずおずと質問しました。
「……母さん、結婚するの?」
「私も一度くらい結婚してみたいのよ。この歳じゃ厳しいと思っていたけれど、王宮女官の看板があれば……行けるかも!」
カトレア夫人はぐっと拳を握りしめました。
「そうですとも!」
ここぞとばかりにバジル様は言いました。
「王宮には独身の男性は多くおります。武官も文官も王宮に仕えていますから身元が確かな者ばかりです。出入りしている商人たちも一流です。彼らも結婚相手には、身元が確かで教養のある女性を求めていますから、女官となれば縁談はいくらでもあります」
カトレア夫人は決意を固めたような表情で顔を上げました。
「その話、乗ったわ!」




