30話 水蓮池の合戦(1)
「デイジー嬢こそが! 私の唯一人の! 真実の愛です!」
淀んだ暗緑色の池に飛び込み、水幽霊のような姿となったバジル様が、狂気の笑顔で愛を叫んでおられます。
「バジル様……」
デイジーは表情の抜け落ちた顔で、バジル様の行動に言葉を無くしていました。
デイジーの『この池に飛び込んでみせて』発言は、おそらく王子殿下たちの態度に苛立って、勢いで意地悪のような事を言っただけです。
まさか本気でそれをやる者がいるとは思っていなかった事でしょう。
この奇襲には私も驚きました。
ともあれ。
今、この瞬間、デイジーはバジル様だけを見ていました。
茫然と。
しかし、それも束の間。
「デイジー嬢っ!」
「見ていてくださいっ!」
デイジーに求婚している有象無象の令息たちが、決意の表情で、次々と声を上げました。
「私の愛をっ!」
「ご覧にいれましょうっ!」
彼らはデイジーの前で、次々と水蓮の池に飛び込み始めました。
――バシャーン!
――バシャッ、バシャーン!
――バッシャーン!
「き、貴様ら! 真似をするなぁあ!」
池の中のバジル様は憤怒の形相となり、後から飛び込んだ令息たちを池の外に押し出そうと揉み合いを始めました。
「これ以上デイジー嬢の愛に近付くなぁぁああ! 出て行けぇぇ!」
「バジル殿! 何をなさいます!」
「私だってデイジー嬢に求婚しているのです!」
「私にも池に飛び込む権利はある!」
「デイジー嬢、見てくれましたか!」
「私の愛をご覧ください!」
次々と池に飛び込んだ令息たちは、池の中からデイジーに愛を叫びました。
さらに彼らはデイジーの真正面に出ようと陣地を争い、水しぶきを上げながら乱闘を始めたため、水蓮の池は大混乱に陥りました。
「そこを退け! 伯爵家の息子ごときが侯爵家に逆らうか!」
「貴殿はたしかに侯爵家のご令息だが爵位を継げぬ三男でしょう? ですが私は伯爵家の嫡子です」
「生意気な!」
デイジーの前で、令息たちは醜い争いを繰り広げました。
「貴様ら全員出て行けぇぇ!」
バジル様は全方位を敵に回して奮闘しておられます。
さながら地獄絵図です。
「ニムファエア・ピンク・フレアが……可哀想に……」
私の婚約者ウィロウが、荒らされている水蓮の池を見て悲愴な表情を浮かべています。
ウィロウはとても草が好きなので、池に飛び込んだ血気盛んな令息たちにより水蓮が荒らされている光景に心を痛めているのでしょう。
「ニムファエア・ピンク・フレアに、何てことを……」
ウィロウが呟いている呪文のような言葉は、おそらくピンク色の水蓮の学名だと思います。
「く……!」
それまで池に飛び込んだバジル様たちを呆然と見ていたアイヴィー王子殿下が呻くような声を上げ、デイジーを振り向きました。
「デイジー、わ、私も……」
アイヴィー王子殿下がぼそぼそとそう言いかけると、シスル王子殿下の声がそれを遮りました。
「デイジー嬢、私も、真実の愛をお見せします!」
シスル王子殿下は顔を強張らせてそう言うと、水蓮の池に向かいました。
先を越されたアイヴィー王子殿下は「あ!」と小さく声を上げ、すぐさまデイジーに宣言しました。
「デイジー、見ててくれ!」
アイヴィー王子殿下は及び腰で池を目指しました。
「……っ!」
二人の王子殿下の行動をバジル様が素早く察知して振り向きました。
「敵襲! 王子たちが来た! 防衛を固めろ!」
バジル様はそれまで揉みあっていた令息たちに、号令を掛けました。
「王子たちから池を死守せよ!」
争い合っていた令息たちは、はっとした顔をします。
有象無象の令息たちにとって王子殿下たちは、ずっとデイジーをがっちり囲っていた障害であり、仇敵ですものね。
思うところは大きいでしょう。
恐る恐る池に飛び込もうとしているシスル王子殿下の前に、バジル様は水しぶきをあげながら躍り出ました。
「シスル! この池には触れさせん!」
「退け! バジル!」
「デイジー嬢の愛は私が守る!」
池に入ろうとするシスル王子殿下と、それを止めようとするバジル様が揉みあいを始めました。
「お前たち、手を貸せ!」
シスル王子殿下はお付きの侍従たちに命令しました。
「王子である私に不敬を働くバジルを取り押さえろ!」
侍従たちは戸惑いながらも、シスル王子殿下の命令でバジル様を取り押さえようとしました。
池の中の令息たちはこの戦いに手を出して良いものか戸惑っています。
シスル王子殿下とバジル様の、王族同士の争いですものね。
身分を考えたら、令息たちはうかつに手を出せなくても仕方ありません。
「貴様ら何をしている! 馬鹿か!」
池の外から怒声が上がりました。
大混乱になっている水蓮の池の周りには、唖然とした顔で騒動を見守る人々が集まり始めていました。
その中から壮年の男が、叫びながら飛び出しました。
財務大臣ドラセナ侯爵です。
「さっさとバジル様と連携しろ! シスル王子殿下を止めんか!」
ドラセナ侯爵は池の端から、池の中の令息たちを叱咤しました。
「王子殿下が池に落ちたら一大事だ! バジル様と連携して王子殿下を危険から遠ざけてさしあげろ!」
ドラセナ侯爵の機転に、大義名分を得た令息たちはかっと目を見開きました。
「行け!」
「はっ!」
「はい!」
ドラセナ侯爵の号令で、令息たちはシスル王子殿下とその侍従たちと揉みあっているバジル様の加勢を始めました。
「そこだ! シスルを討ち取れっ!」
興奮したドラセナ侯爵が本音を漏らしていらっしゃいます。
ドラセナ侯爵はシスル王子殿下に婚約破棄されたアイリスさんの父君ですものね。
明らかに私怨です。
「シスルを討ち取った者には財務室の椅子をくれてやる! 励め!」
ドラセナ侯爵が文官のコネ採用を約束すると、数人の令息が目の色を変えました。
官職を求めてか、令息たちは功を競いシスル王子殿下に殺到しました。
「バジル様、ここは私が!」
「私にお任せを!」
「シスル王子殿下、お覚悟!」
シスル王子殿下が多勢に無勢となり取り押さえられようとしている中、姑息なアイヴィー王子殿下はこっそりと混乱の場を迂回し、池に入ろうとしました。
「アイヴィーを止めろ!」
アイヴィー王子殿下の動向に気付いたバジル様は、そう叫びながら、アイヴィー王子殿下がいる場所へと、水しぶきを上げながら急行しました。
「くっ、バジル、退け!」
アイヴィー王子殿下は池に入ることに躊躇しながらも、目の前のバジル様に向かって命令しました。
そのとき。
「な、何をする!」
アイヴィー王子殿下を、後ろから羽交い絞めにした者がいました。
「き、貴様は……!」
それはウィード公爵令息カルドン様。
アイヴィー王子殿下の元婚約者ダリアさんのお兄様でした。
「ククク……。王太子殿下が池に落ちては大変です。私は王太子殿下をお助けする忠義の臣下でございます」
カルドン様は悪魔のように微笑みました。




