10話 葡萄酒事件(3)
「まあ、ご冗談を。ほほほ……」
私は面白そうに笑ってみせました。
「ご存知でしょう? デイジーは父の庶子ですのよ。母親は平民なのです。国王陛下が貴族の娘であるとお認めくださっていても、平民の血を引く娘が王太子妃になれるはずがありませんわ。王家の結婚には血筋が重要視されますもの」
「アイヴィー王子殿下を篭絡して、強引に王太子妃になるつもりでしょう!」
戯言を。
ダリアさんは王太子の婚約者となり、妃教育を受けているのですから、王室典範についてはご存知のはずです。
婚約者であるアイヴィー王子殿下のお振舞いにご不満があるなら、ご本人におっしゃるなりお父上にご相談するなりすれば良いこと。
デイジーに悪口を言ったところで、アイヴィー王子殿下のお振舞いは変わりません。
格下のデイジーを虐めて鬱憤をはらそうとなさっているのでしょうか。
デイジーの平民の出自についてしつこく言っていましたものね。
ですが、私のデイジーを攻撃してエンフィールド公爵家の家門に喧嘩を売って来たからには、迎撃させていただきます。
「ダリアさんはデイジーが王太子妃にもなれる淑女だと思ってくださっていたのね。それほどデイジーを高く評価してくださっていたなんて。デイジーの姉として、ダリアさんのお気持ちを嬉しく思います」
「評価なんかするわけないじゃない! 貴女たちは何か汚い手を使うつもりでしょう!」
「デイジーは平民の母親の婚外子という出自ですので、王室典範が改定されない限り、王太子妃にはなれませんわ。ご存知ありませんの?」
「そんなの知っているわよ! だからこそアイヴィー王子殿下を籠絡して王室典範に逆らおうとしているのではなくて?!」
「とても夢のある素敵なご冗談ですわね。おほほほほ……」
私は面白そうに笑って見せると、しらじらしくダリアさんに説明しました。
「王室典範を改定できるのは王太子殿下ではなく、国王陛下ですわ。王族の結婚は国王陛下がお決めになること。ダリアさんとアイヴィー王子殿下のご婚約とて、国王陛下がお決めになり、成されたものですもの。ですから……」
私はにっこりと微笑みながら言いました。
「王太子殿下のお気持ちは関係がないということを、ダリアさんは、よぉくご存知でいらっしゃるでしょう?」
「……っ!」
ダリアさんは言葉を詰まらせ、醜く顔を歪めてわなわなと震えました。
そう、アイヴィー王子殿下は国王陛下のご命令に従ってダリアさんとご婚約なさっただけ。
ダリアさんに対して特別なお気持ちなどないのです。
当たり前のことなのですけれどね。
「こ、この……っ! 女狐!」
ダリアさんは怒りをあらわにして顔を歪め、負け犬らしい遠吠えをしました。
ダリアさんと一緒に私たちを取り囲んでいる令嬢たちも、屈辱に歪んだ形相で私たちを恨めしそうに睨んでいます。
親が決めた結婚で、お相手に気持ちが無いために、ないがしろにされて恥をかいている皆様ですものね。
お察しいたしますわ。
ふふふ……。
敗者が歯軋りしている様を眺めるのは、なかなか乙な物です。
そして。
運悪くこの場に居合わせてしまった格下の貴族の夫人や令嬢たちは、私とダリアさんの争いを前にして、部屋の隅でぶるぶる震えています。
私とダリアさんはともに公爵家の娘で、ゆくゆくは、ダリアさんは王太子妃、私はエンフィールド女公爵です。
この場に私たちの争いを止められる者はいません。
下々の者たちは、私たちの頂上決戦にただ怯えて身を縮めているのみ。
万が一、私たちの争いに巻き込まれて、どちらかの恨みを買ったら、木っ端貴族の家など消し飛んでしまいますものね。
「ダリアさん、興味深いご意見の数々、楽しく拝聴させていただきました」
下々の者たちをあまり苦しめてもいけませんので、そろそろ引き時でしょう。
これ以上は不毛な言い合いですもの。
でも最後に言わせていただきます。
「名残惜しいですが、私たちはそろそろ会場に戻らせていただきます。ダリアさんの貴重なお時間を私が独占してしまっては、ダリアさんをエスコートなさっているアイヴィー王子殿下に申し訳ありませんもの」
ええ、もちろん、知っていて言いました。
アイヴィー王子殿下が待っているのはデイジーで、ダリアさんのことは放置していることを。
そしてそれがダリアさんの弱点で、突かれたら痛い点であることは、今までの会話で丸解りでした。
私はそれから、ダリアさんが引き連れている令嬢たちを見回して言いました。
「皆様も早く会場に戻られたほうが良いのではなくて? 素敵な婚約者の方々が皆様のお戻りをお待ちになっているのでしょう?」
彼女らの婚約者もアイヴィー王子殿下と同じく、デイジーを待っていて、彼女らのことなどすっかり忘れ去っていることを知っていて言いました。
そしてそれが痛い弱点であるがゆえに、デイジーを攻撃して来たということも。
弱点を狙い撃ちした私の皮肉に、ダリアさんたちは言葉もないまま苦渋に顔を歪めました。
「では私たちはこれで失礼させていただきますわね。ごきげんよう」
私は微笑みながら彼女らにそう言うと、デイジーを促しました。
「さ、行くわよ」
「はい、お姉様!」
デイジーはキラキラした目で私に答えました。
そして私はデイジーを連れて、彼女らの包囲を抜けようとしました。
「ま、待ちなさい! リナリア・エンフィールド!!」
負け犬のダリアさんが何か叫んでいますが、それを無視して私はデイジーと一緒に歩を進めました、が……。
――バシャーン!
「……っ!」
「きゃっ!」
真っ赤な液体が、私たちに浴びせかけられました。
後ろから急に水を浴びせかけられた感触に、私は振り向きました。
「ざまぁみなさい!」
私が振り返った後ろには、空になった葡萄酒用の硝子瓶を手にしたダリアさんが、悪魔のように微笑んでいました。
私の髪から、ぽたぽたと、葡萄酒の香りの雫が滴り落ちています。
ドレスには大量の血しぶきを浴びたような葡萄酒の真っ赤な染み。
デイジーもまた頭から葡萄酒を浴びて、淡い空色のドレスは、殺人事件にでもあったかのように真っ赤な染みだらけです。
ダリアさんがデキャンタに入っていた葡萄酒を、私たちに浴びせかけたようです。
「我が家の葡萄酒のお味はいかがかしら? ほほほ……!」
ダリアさんは勝ち誇るように高笑いをしました。
「会場に戻れるものなら戻ってごらんなさい! その惨めな姿で戻れるものならね!」
ダリアさんの威勢の良い嫌味と、葡萄酒を浴びた私たちの姿を見て、ダリアさんの連れの令嬢たちは優勢を感じたのか、息を吹き返して調子よく悪口を言い始めました。
「あらあら、素敵なお姿!」
「デイジー嬢は葡萄色が良くお似合いになるのねえ!」
「そのドレスとても似合っていらっしゃるわよ!」
ニタニタ笑いながら囃し立てる彼女らの皮肉を理解して、デイジーは眉を吊り上げました。
「よくもやってくれたわね……っ!」
「デイジー、駄目!」
ダリアさんたちに飛びかかろうとしたデイジーの体を、私はとっさに両手で抱えて押さえました。
「お姉様、止めないで! 卑しいゴブリン女どもめ! 片っ端からぶん殴って黙らせてやるわ!」
「デイジー! お言葉!」
「ゴブリン女たちを可愛がってやりますわ!!」
「自分の手を汚しては駄目よ!」
「じゃあ! 葡萄酒でも果実水でも、片っ端から味見させてやります! 頭からね!」
拳を振り上げてイキリ立っているデイジーに睨めつけられ、ゴブリン女と呼ばれたダリアさんたちが顔色を変えました。
「な……」
ダリアさんたちの顔からは優越の色が消え、戸惑いがにじんでいます。
もしや?
ダリアさんたちは、ドレスを台無しにされたデイジーがしくしく泣き出すとでも思っていたのでしょうか?
私が丹精込めて淑女に調教いたしましたが、ほんの一年前までは、デイジーは恥知らずなたくましい平民で、図太い欲しがり妹でしたのよ。
葡萄酒で水浴びした程度で折れてしまうか弱い子ではないのです。
むしろこれは火に油。
付け焼刃で、貴族の常識をまだしっかり把握していない未熟なデイジーに、ここまでのことをやっても良いのだと、手本を見せてしまったのです。
淡い空色のドレスを纏い儚い水の精霊のようだったデイジーは、葡萄酒を浴びせかけられてイキリ立ち、今や血染めの暴れ馬のよう。
箍が外れたように、攻撃的な気迫を漲らせています。
そう、デイジーが夜会で、私に側に居て欲しいと願う理由は、手本として、そして抑止力として私を頼りにしているからでした。
虐められたくらいでメソメソするデイジーではありませんが、どこまで反撃して良いのか、どんな反撃ならして良いのかという、加減や勝手が解っていないのです。
「お姉様! 平民だってまともな人はこんな野蛮なことしないです! あれはきっとゴブリンの取り替えっ子です! 群れてニヤニヤしてて卑しいんですもの! ゴブリンに間違いありません! 下等生物に葡萄酒の味を教えてあげますわ!」