第六節 お琴の師匠がやってきた
R15指定は、一応念のために設定。
(『源氏物語』を取り扱う関係上、恋愛・性愛関係描写が出てきてしまうため)
基本、ドタバタコメディー(時々シリアスあり)です。
※この小説はあくまでフィクションであり、登場する歴史的事件、人物、企業名、大学名などは実在する同名のものとは別存在であるとお考え下さい。
【2023年11月27日連載開始】
第六節 お琴の師匠がやってきた
「はあ……、摂関家の姫かあ……私、こっちにくる時、持ってくるのは胡椒じゃなくて〇川の日本史が良かったのかもねえ」
――まあ胡椒も、結局持ってくるのに成功したわけではないけどね。
因みに「〇川の日本史」とは、高等学校用の日本史の文科省検定教科書の中で一番多くの高校で採用されている、日本史のザ・スタンダードな教科書のことだ。東大を文系で受けるつもりなら必携の書なのだけど、私は理系型で受験するつもりだったので、購入すらしてもいない。
私は、生まれ変わり前の二〇世紀社会では教科書や学習参考書をバイブルがごとくあがめ、ほとんどの頁を丸暗記出来ていることが数少ない自慢点だったわけだけど(当時の渾名が「ミス教科書」「歩く力の五〇〇題」だった)、それも、あんな状況で終末を迎え、こちら世界に転生して早十数年。
あの頃はどの項目が教科書や参考書の何頁の上下右左どのあたりに書いてあるかってあたりまで暗記していたはずなのに、最近は、その映像記憶が朧がかった状態になりつつある。
人間の記憶というのはかなり揮発性が高く、普段使用していない知識や記憶は時間が経つとどんどん抜けていくものなのだというけれど、その現象を心の底から実感する。
――それにねえ、こんな世界に転生するって分かっていれば、高二時の時に選択社会科系科目、それこそ日本史にしといたのになぁ……。
私が所属していた県立高校では、高校二年に進学する時にコースが理系文系に分かれ、理系コースに進むと社会科系科目は日本史・世界史・地理の三コースからの選択式となる。そして、理系で東大クラスの難関大学を狙う生徒はここでほぼ百パーセント「地理」を選択する。それが当時の受験システム的に一番効率的とされる道で、実際、私も東大理系志望の人で日本史や世界史を選択したという事例を聞いたことがない。東大用の日本史・世界史コースは覚えるべきことがあまりに多く、かつ論述形式での試験対策もしなくてはならない。そのため、理系の人間が下手に手を出すと、それが原因で落ちるとまで言われていた。
と言うわけで、残念なことに、私の中にある「日本史」の年表や用語、歴史的出来事のあらましは、実は中学時代まで社会科の範囲と高一の総合社会科の時間に少しだけやった「日本史」で終わっている。あと平安時代関係は、古文の方でも頻出範囲なので国語便覧の関連項目はかなり読み込んだけれど、でも、それらの記憶もまた徐々に思い出しにくくなってきいているのが現状だ。
***
母との少し気の張る面会を終え、自室で脇息に寄りかかりながら、そんなよしなし事を独りごちていたら、几帳の影からぬっと桧扇が伸びてきて、頭をコツンとやられた。
こんなことをしてくるのは、この世界ではただ一人。長兄の暴力兄者だ。
どうやら、気付かぬ内に、私の私室に入室して来ていたらしい。他の兄弟たちは、貴族の礼儀に則り会いに来るときは先触れ付きで、かつ裳着が終わってから以降は室内でも御簾というすだれを通した一定の距離をとる対面のルールを守っている。
だが、この一番上の兄だけは、いつもこの調子で、先触れもなくズカズカと勝手に入室して来る。
田舎暮らしをしていた時代も一番足しげく尋ねてきてくれたのはこの兄である。私の前世の記憶が戻った「春はあけぼの」事件の時だってそうだったように。
年もかなり離れており、私にとっては実の父親よりもこの兄の方がむしろ「父親」的存在だ。
まあ、そういう気安さもあって、この対応なわけなのだ。
けれど、毎回、毎回、ほぼ必ず頭のあたりを何かの形でゴツンとやられるのだけは閉口している。
―― 一の兄様、本気で痛いから、それ!
「兄上! 何をなさいますか! 今の衝撃で、せっかく覚えたお后教育のあれこれが消えてしまったら、どう責任を取られるおつもりですの!」
私の抗議の声も虚しく、兄は平気のへのさで、几帳の向こう側の円座にどかりと腰を下ろす。
「それくらいのことで何かを忘れる頭なんぞを身体のてっぺんに乗せて、帝の後宮なぞに入ったら、お前のその頭の中、その日のうちに漆喰で塗り潰したが如く真っ白になってるだろうさ。あそこでの嫌がらせはそんなもんじゃないからな。ついでに、なんだって? お前、こっちに来る時、あれだけの大荷物運ばせておいて、まだ積み忘れがあったのか?」
どうやら、兄には、先程の独り言をばっちり聞かれていたらしい。けれど、どうやら、私が口にした「こっちに来る時」という言葉を、先日、裳着のために都である京へと引っ越して来た時のことと捉えてくれた様子なので、セーフ、セーフ、だ。
「……そうですわね。田舎で取れました鄙びた名産品など、もう少し運ばせれば良かったかも知れないと思っていたところです。宮中におわす雲の上の方々は、高級で雅な品は見飽きていらっしゃいましょうが、そんな中、鄙びた品こそ珍しがられようというもの。兄上さまの仰いますような、そうした嫌がらせ対策となるかも知れませんから」
「はあん、今日はまた分厚い猫皮を頭から被ってるな。母上のところに行ってきた帰りか。ならば、さもありなん。また、どでかい雷を落とされたんだろう?」
「雷鳴のことは出ませんでしたが、琴鳴については、まあ少し。……お説教受けました。琴の腕がまだまだだから新しいお琴の先生を付けるって……」
「ああ、その件か。母上から既に話が行っているなら、早いな。お、折しも、その先触れなんじゃないか?」
兄がそう言いながら渡殿からこちらに渡ってくるらしき気配を指摘する。あの足音と衣擦れ、香の匂いからして、椿改め少納言が案内役に立っているらしい。
そしてその椿に誘われて、女房装束をフルセットで着込んだ先触れ役の女房がやってくる。この女房は客人の側の家の者で、客人が何の要件で尋ねてきたのか訪問来意の概略を伝える役割を担っているのだ。
兄は、その先触れの女房から料紙を折りたたんだものを受け取ると中を開けてさっと目を通す。本来は私がこの部屋の主人なのだから私が目を通すべきなのだが、兄は親代わりを自認するだけあって、こういう時、さっとその場の主役を引き取っていってしまう。
また、私がやや鳥目体質なこともあって、この時間帯、行燈の火のみが光源の室内で文字を読むのがキツイため、代わりに読んでくれたという側面もあるのだろうが。
「お、もう家の門までは来てるんだな。じゃあ、ちょうどいい、一緒に迎えに行くか」
「え? 私も一緒に、でございますか?」
「お前の琴の師匠をやりに来るんだから、弟子となるお前が一番に挨拶しないでどうする。さ、行くぞ」
実は、私が、その客人の出迎え作業に付き合わされるというのは、平安姫としては結構異例の事態なのだ。姫様というのは、とにかく部屋の中に鎮座ましまして、動かざること山の如し、というのがごく一般的な「お姫様」像なのだから。
ただ、この兄が田舎屋に遊びに来てくれた時などは、私は走って玄関まで迎えに行くのが常だった。
今回もそういう気安さで私に対し客人を迎えに行こうと誘ってくれているのだろう。
だが、それを聞いて、周囲の女房たちが何やら気色ばみ始めた。
「まあ、また若様は、ああして姫様を軽んじるようなことを……!」
「その誘いに乗られる姫様も姫様ですわ。田舎の鄙びた習慣をこちらでもなさるなんて……!」
後ろで、そう女房達(但し、楓や椿にあらず。例のおべっかつかい集団の方)の声がする。更にはもっと小声で「ですから、ああいう方々は『お里が知れる』というのですわ」って付け足す声も。
――うん、よし。そう囁いている者たちの顔覚えた。私の身を案じて兄様の行動を非難していた最初の発言者は場合によっては私に強い忠義心を持っている者なのかも知れないが、その尻馬に乗って私を批判した者、そして最後に二人まとめて「ああいう方々」と言った者は要注意だ。
――そう、たぶん、これ、兄様なりの、人をふるいにかける戦術なのよね。
それは女房達の中で、誰がこういう時に真っ先に悪口を言うか。それを見極めるための試金石、あるいは踏み絵のようなもの。この先、私が女御なんてになってしまった暁には、本当に忠義を持って尽くしてくれる者しかそばに置くのは危険だしね。
田舎暮らし時代を思い返しても、兄は京から遊びに来る度に、ちょくちょく、手を替え品を替え、この手の踏み絵を噛ましていた。あちらはあちらで本当に忠義を尽くしてくれる者しか付いてきてくれないような鄙びた場所だった故、そこへ忠義以外の目的で来る者など、政敵のスパイか、高位貴族の姫を狙う人さらい的な存在として疑ってかからねばならない、そういう理由からだ。
こういうところが、強かでかつ頼りになるから、私も、この長兄のことを(あの頭グリグリ攻撃はともかくとして!)兄弟たちの中では一番頼りにしているのだ。本当に親代わりのように。
その兄と一緒に屋敷の玄関口方面、客人迎え入れのための牛車止め広場のような場所へと出向いて見れば、そこに既に大きな牛車が停められており、ちょうど中から件の客人が下りてくるところだった。
その人物を自分の目で確かめてみて、最初、ちょっと、否、かなり驚いた。
お母様の親戚筋でお琴の先生と言われていたので、無意識の内に、中年以上の貴族女性を想定していたのだが、なんと下りてきたのは若い男性で、いやこれはもう若いというか、身体が非常に小さくて、え……、これって私の中の基準だと、まだ小学生とかそういう年齢の子なんじゃ……というほどの、かなり小さな身体をした「男の子」だったのだ。
一応、髪上げをして烏帽子を被っているから元服は済んでいるのだろうけれど、それがまさに「まだあげ初めし前髪の」的な感じ。(島崎藤村は、もっと後の時代の人だから、この表現、今は誰にも通じないけどね。)
だから、実は、このあと更にもっと年かさの、いかにも「先生」という人が出て来て、この少年はその偉い先生のお小姓のような位置づけの存在なのではとも思った。でも、その後から牛車から降りてきた人はいるものの、それはどうやらその少年のお付きの女房にあたる女性陣のようで、明らかに少年の方が「主人」として世話を焼かれている。
そして、最後に大きな牛車の中から錦布で覆われた丈六尺の長物―つまり箏の琴が運び出されて来た。
ということは、やはり、この少年こそが母の言うところの「私の縁者で楽をよくする者」なのか……? 確かに、あの母の親戚筋というだけあって、そのお顔の方もかなりなかなかの美少年。一昔前の少女マンガだと背景に花背負って登場しそうなタイプだ。
――え、でも、本当にこの子が私の教えられるくらい上手いってこと!? お母さまがそう言うのだから、まあ、そうなんだろうけれど。……えーと、つまり、お琴の天才少年ってこと!?
これまで、田舎での指南役は皆それなりにお年の行った、言ってしまえばお爺さんお婆さん先生ばかりだったので、今回もまたそれなりの年配者を想定していたのだけど、これは、かなり意外な展開だ。
牛車から降りると、その少年はこちらに気付いたらしく、特に兄の方に目を向けた。
兄もその視線を受け、「よう!」というような、親しげな声かけをする。
「蔵人の少将? 何故其方がここに? ……ああ、そうだったな。ここは、其方の実家でもあったのだな。ということは、左大臣の……。……叔母上たっての頼みではあったが、応じたのは大いなる間違いであったようだ。命婦、箏はもう一度車の中に戻し、急ぎ戻りの支度を」
少年は、兄に対し何か思うところがあるのか冷やかにそう言い切ると、いきなり踵を返そうとした。
「おやおや、ここまでいらしておいて、何をおっしゃることやら。そちらさんにしたところで、ここまで来たということは、やはりウチの母上―大宮様と我が家の持つ長い庇を御身の隠れ蓑とすべく、というところでしょう?」
兄が、結構楽しそうにニヤニヤしながらそう言うと、少年は激しく顔を顰めた。
「其方のその物言いが何より気に食わぬ。ただ、そうだな……叔母上の顔に泥を塗るわけにもいくまい。一応、指南役の任は果たしてから帰るとしようか。そこな女房、案内を所望する」
と、そう言って、少年はなんと「私」を扇の先で指名して来た。
その仕草、物言い、どれを取っても非常に尊大で、うん、これはお母様の縁者の中でも、あっち方面=かしこき方面だね……。皇族筋のお坊ちゃんで間違いなさそう。
「あれぇ、我が君、これは、そのぅ……こちらの方は、その、女房殿ではなく……」
と、その尊大な仕草を受け、周囲の女房たちがあたふたし始めたところを見ると、お付きの人達は、一応、私が誰なのか分かっているらしい。
「何、其方、女房ではないのか。見れば、確かに他の者より簡素な衣装を着ているな。余計な香も焚いておらぬようだ。……つまり、香も焚けぬ身分、女房よりも更に格下の端下の者という訳か。なるほど。だが、その辺りにいる金に飽かした豪奢な衣を纏い、大袈裟な香で体臭を隠そうとしている者どもよりは、余程マシというもの。構わぬ、特別に、直答を許す故、案内せよ」
その辺りにいる、という辺りで先触れの女房の更に案内役を務めた少納言(椿)や、もっと先から来てここで控えていたらしい楓の乳母たちに目を向け、その後、最終的にはまた「私」を、指差しならぬ扇差しにて指名して来た。
それを聞いて、周囲にいた者は皆一様に、ぴきーんと固まってしまっている。
特に、煌びやかな正装をしていざお客様をお出迎えに! と気張ってこの場に臨んだ女房達は全員、顔が能面の夜叉の面のような状態で固まっている。少年の放った「金に飽かした衣裳」、「大袈裟な香」、更に「体臭を隠す」といった暴言の数々のせいだ。だって、その言葉、暗にお前は臭いと言われているようなものだしね。まあ、それは能面フェイスにもなるだろう。
――うわあ、このお坊ちゃん、これまでホントに他の家とかに遊びに行ったことがなかったんだね。私ですら異母兄弟の家とかに行ったことあるのに。……一回でも行ったことがあったなら、分かっただろうになあ。
貴人の家では、使用人にあたる女房たちは文字通り「女房装束」、いわゆる十二単に身を包み、煌びやかな格好でお勤めをするものだ。特に、表向きの仕事と言われる、客人対応などの仕事の時は必ず裳付きの正式な女房装束を着る。但し、そんな女房達に囲まれながら過ごす、その家の主筋の人間、つまり私や父や母や兄たちのような人たちは、女房たちよりもぐっと砕けた格好をしているのが常だ。つまり家では、主人たちはリラックスモードでくつろげるように普段着で過ごし、その周囲で立ち働く使用人たちは「現在仕事中です」という仕事着や制服的な意味もあって正装している、ということなのだ。私は裳着は終えたものの、その後家の中では一度も身に着けたことがない状態だし、今も楓や椿たちに比べると袿の重ね枚数も少ない衣装を着ている。
ただ、品物としては私の着ている物の方が断然高級なものだし、これをして「簡素な衣装」とは……物は言い様というか、物知らずな表現だなと思う。まあ、実は高級な染め物、織物の方が色味は抑えめで、一見、地味に見えたりすることも多いのだけれどね。
そして、確かに私は衣装にあまりお香は焚きしめない方だ。例の件があって以降、お香には距離を置きたい気分になっていて、お母様が香合わせの会を催すときなど以外は、ほぼ焚かない。ただ、本日も一応、焚かないタイプ(現代で言うハーブのサシェタイプ)で、ほんのり香り付けしてあるんだけどね。
で、このあたりで、兄様が腹を抱えて大笑いを始めた。
「……ああ、笑いすぎで腹が痛い……な、なるほど。これは、確かにちょっと外の空気に触れさせて修行を、もとい見聞を広めた方が良いと判断されるのも致し方ない。宜しい、我が家は、喜んでその庇をお貸ししましょうぞ。しかし、そうか、女房を通り越して、はした女ときたか……!」
「……蔵人の少将、我を愚弄するのもいい加減にしてもらおう。命婦、やはりここは帰るが正しいようだ。そこの女、案内は止めだ。我は戻る。女、そなたは戻り支度の手伝いをせよ」
「いえ、ですから、我が君、あのどうか、お言葉はお選び下さい、その……こちらは、既に先方のお屋敷でございますし……」
ちょっと年老いた女房がこちらをちらちらと見ながら、より一層おろおろと口ごもり、少年の暴言をどうたしなめたものかと模索する中、先程、先触れの役をしていた若い方の女房(こちらが「命婦」の君なのかな?)が口を開く。
「二の宮様、御身は本日、宮中を一度退出された儀につき、戻られる場合も二条堀川のお屋敷となります。が、まだあちらは調度品も揃っておらず……、今宵は予定通り、こちらにお世話になるしかないかと」
その命婦の言葉を受け、うちの長兄が一つ頷いて続ける。
「まあ、そういうことになりますかな。淑景舎のあたりもその予定で動かれているはず。ここはおとなしく我が家に暫し御逗留を。我が家のもてなしは、まあ、それなりに豪華で、飯も旨い筈ですよ。御身のおっしゃるところの『金に飽かした』形ではありましょうが」
兄はそう言って、少年の履いていた靴を取り上げ、土間にパンパンと打ち付けてその泥を払い始めた。
――ああ、なるほど。相手の靴をゲットしてしまえば、簡単には帰れなくなるからね。一応、兄様はここでも戦略的に動くらしい。
少年は兄の物言いにその形の良い眉をピクリと動かした後、兄のその仕草を睥睨すると、
「……なるほど、一宿一飯の恩義の返礼として、我はいかなる恥辱にも耐え、そこな無礼者の妹へと楽の指南せねばならぬ訳か。どうせ、そこらの者どもと同じく、厚く化粧を塗りたくり、腐臭漂う、白塗りの化け物のような娘であろう。指南の期限は、我が吐き戻さぬよう、息を止めておられる限り、とでも区切らせて貰おうか」
と、言い捨てると、扇を開き顔を半分隠しながら、ぷいっとそっぽを向いた。
ここで、兄が泥を払っていた手を止め、あーっはっははは、と再度、大きな声を上げて笑い出した。「し、白塗りの化け物……」と、悶えるように呟きながら、目の端には涙がにじんでいる。
――兄様、笑いすぎ! いや、私も笑えるものなら、笑いたいんだけどさ!
「私」のことが貶されているはずなのに、ここまで来ると腹は返ってたたないというものでだ。ただ、笑いをこらえるのが本当に苦しいだけで。
兄の大爆笑に、少年は更に不快感を強めたという風に眉を寄せ、その後再度「案内せよ」とまた「私」に言ってきたりした。
この情況、いい加減、気付よと思うのだが、こういう時、あまり察しのよいタイプではないらしい。
そして、私に案内を乞うた割りに、先にスタスタと歩き出してしまい、私は置いてけぼり状態だ。
その情況にはっと我に返ったらしい少年のお付きの者たちが「あれ~! 若君、お待ちくださいませ~!」とそのまだ小さな背中を追い、更に一瞬遅れて、ウチの女房陣営もまた「……お客様、こちらでござりまする」と、椿の少納言を先頭に動き出した。
――椿の氷結温度な口調が怖い!(今、椿の側に寄ったら凍らされそう)。
そして、それよりもっと怖いのが、つつつと私の側に寄ってきた、楓先生の能面のようなアルカイックスマイルの方なのですが……。
「……姫様、取り急ぎ、お召し替えを」
そう促され、私は裳着式の時以来となっていた、ばりばりフル装備の”正装”十二単に着替えさせられた。
衣には、ほんの少しだけ、この世界的エチケットに反しない程度に、軽ーく香が焚きしめられていた。
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