第三節 目指せ当代一の后がね!
R15指定は、一応念のために設定。
(『源氏物語』を取り扱う関係上、恋愛・性愛関係描写が出てきてしまうため)
基本、ドタバタコメディー(時々シリアスあり)です。
※この小説はあくまでフィクションであり、登場する歴史的事件、人物、企業名、大学名などは実在する同名のものとは別存在であるとお考え下さい。
【2023年11月27日連載開始】
第三節 目指せ当代一の后がね!
平安姫ならば、その名の通り平安京の真ん中で蝶よ花よと育てられ……というものなのかと思いきや、私はなぜか、年を重ねるごとに居住地をより田舎へ田舎へと移されていく生活。
讃岐に移動させられてからは、両親や兄たちと会えるのも年に一、二回と、極端に少なくなってしまった。
うーーーーん。私としては、家族と上手くやりたくって、優良平安姫を演じていたはずだった。しかも、色々手加減をしながら、この世界基準で「いい子」に見えるゾーンを探っていた訳なのだけれど、結局、私は要所要所でその手加減の加減を失敗していた、と、そういうことなのだろう。
なので、私もそこは反省し、讃岐の地では「平凡な姫」をモットーに生活してみることにしたのだ。
これまでお姫様としての「いい子」を目指し過ぎていたのがいけないんだよね、と、少しその部分でのリミッター解除し、讃岐の地では、琴やお香の道に励むばかりでなく、ちょっと上流貴族のお嬢様にはあるまじべきことも取り入れてみることにしたのだ。
あるまじべきとは言っても、元の世界の優等生根性沁みついてる私に大したことができる訳もなく、せいぜい「下々の者」と呼ばれる地元の平民層と交流して一緒に田畑を耕してみたり、水路を整備したり、水車を設計してみたりといった、身体を動かしてみる方面で頑張ってみたのだ。まあ、はっきり言って、こちらの方が私の性には合っていたのだと思う。二〇世紀社会ではもともとバリバリの庶民の出なので、上流お姫様ぶりっ子にはちょっと辟易としていた部分もあるのだ。
薬草園もこちらの側に再建して、その際は約束通り三の兄がブルドーザーの如き腕力を発揮してくれた。こちらの薬草園の方が宇治のものより一〇倍は広く、開墾が終わってみれば、こちらで新規一転やり直す形になって、返って良かったと思うに至った。元の世界で見たアメリカの大規模農法とまではいかないまでも、規模が大きい方がやはり安く生産出来る。その分、庶民にも手の届きやすい値段でお薬が提供できるからだ。私は光明皇后ほどの偉人ではないけれど、やはり人が死んだり苦しんだりする姿は見たくない。だから、やはり規模のメリットがでる形で、大きな薬草園に出来たことは良かったと思う。
あとは、人糞を貯めておいて肥料にする技とか、脱穀機なんかも記憶に残ってる形を元に地元の大工さんにお願いして再現して貰ったりもした。いや、急激な技術流入は良くないって分かってはいますよ。ただ、この平安末期と思われる時代は、確か既にその人糞を肥料にすることで米の生産向上を図ったり、脱穀機というものを使って生産された農産物の加工精度を上げたりといったことが行われ始めた時期だったはずなのだ。だから、まあ、私が自分の家所有の小さな荘園でお試し運用してみるなら、OKなのではないかと思ってやってみたのだ。ただ、人糞なんてものに私が関わるのは、乳母や女房たちから物言いがつきそうだなと最初から思ったので、そこは「昨晩、光明子様が夢枕に立たれて、お告げがありました。人の身体から出たものは、やはり人の身体に戻してやるがよい、と。人糞もまた用い方によっては薬となる、と」とか何とかお告げを捏造することで、どうにか乗り切った。ただ一人、乳母の楓だけは終始、胡散臭いものを見る目でこちらを見てたから、まあ、この乳母にだけは嘘のお告げだというのは、バレてたかも知れない。
まあ、とにかく、そうした平安末期にならあってもおかしくない生産工夫を導入したお陰で、我が家の讃岐の荘の生産高は右肩上がりに増えていったと思う。地方特産品の開発にも力を入れてみて、いわゆる「地方銘菓」的なものを売り出してみたら、これも割とかなり成功して、この件は、父からまた直々に褒められたりもした。
長兄は「お前なあ、これのどこが『平凡な姫』なんだよ!」と突っ込みを入れてきたけれど、まあ、それはそれ。
……「平凡な姫」じゃなくて、「庶民的な姫」にしておけば良かったかなー?
あとは、ちょっと平安姫の標準装備であるところの十二単、あるいはそれの簡易版であるところの袿姿っていうのもね、動きにくいことこの上ないので、どうにかならんものかと思案しまくり、ここで私は「私、大陸風が好きなので!」という絶好の言い訳を開発したのだ。平安時代の大陸風というと平安初期から中期までは唐の時代なので「唐風」、中期から後期は宋及び南宋時代なので「宋風」というわけで、私が転生した時代では「南宋風」にあたるわけだ。但し、単に中国風という意味だけで唐風やそれより更に前の時代の漢風という言葉を使うこともあるので注意が必要なんだけどね。猫はこの時代みな大陸側からの輸入品なんだけど「唐猫」が正式な言い方だったりするし。さて、この「南宋風」の女性服、なんと下はロングスカートで上は被り式のTシャツもどきみたいな構成なんですよ! 十二単に比べたら動きやすいのなんのって。更に言えば、このスタイルね、髪の毛をポニーテールみたいにしてもOKなんですよ! 輸入品の「樹下美人図」にそういうのがあり、それを根拠に楓たちに「大陸の高貴な女性はこんな風なんですって。私も最新の南宋風に憧れるなー、ね、いいでしょ、これでも貴婦人なわけだし!」と迫り、かなり無理矢理に近い形だったけど許可をもぎ取り、農作業のときなどに愛用していた。私の意識としては作業着としてはちょっと煌びやかすぎるんだけど、でもこれが、動きやすい服装をしたい私と、姫君らしい威厳をもたせたい楓たちの双方の意見が釣り合う、ギリギリのラインらしかった。そういう格好で土を畑仕事をしてたりすると、「天平天女が薬草園の手入れをしている!」「光明皇后の再来か!?」って、またここでも光明子様扱いされたりした。日本でも飛鳥奈良天平くらいまでの時期は、貴族女性の服装もこのスカート+上着の唐風をもとにした衣装だったので、宋服がそれに近く見えるだろうね。そういう訳で、今時の最先端の宋服を着ている私は、それが分かる人には「ええ、私、新しいものに目がないんです。今なら南宋式ですよね!」と言い訳し、一方それが分からず宋服と天平服の区別が付かない人には「私、結構、古風なところもあるんです。光明子様のこと、尊敬してるのもあって、憧れの人に少しでも近づきたくてコレ着てます」と、場合によって適当に言い訳を使い分けていた。
***
さて、かような次第にて、讃岐の地に移動してからは、親の目が遠いのをいいことに更に好き勝手……じゃなくて、のびのびとやらせてもらっていたわけなのですが、一方、私のお姫様教育は依然と続いてはいて、それはお祖父様が何度も叫んでいらっしゃったように、上流貴族の娘としては当然のごとく出てくる「あの話」のためなのですが……。
***
そうして宇治や讃岐といった京よりはちょっと離れた場所で「ひっそり隠されて」育っていた私ですが、一方、お姫様教育の方は手を抜かれることなく、ばっちりやらされておりました。
ただ、こと教育と名のつく物、私にとっては好物以外の何物でもなく、持ち前のガリ勉優等生根性で、割となんとかなっていたのです。(なってない!と一の兄などからはクレームがつきそうだけど)。
で、それなりの年になってから以降の私はスペック的には「どこに出しても恥ずかしくない模範的な姫」だったと思うのデス(ここもまた、一兄からクレーム付くかな?)。
見た目もまあなんというか、超美人のお母さまの血をどうにかこうにか程度には受け継げたようで、それなりにそれなりだろうと思われる風貌に育っておりますデス。
こうなると、当然出てくるのが婚礼関係のお話。
「割と(かなり?)高位の貴族の娘」で「教養高く」「どこに出しても恥ずかしくない」「それなりに見れる風貌の姫」って、まあ、その、自分で言うのも何だけれど、たぶん、結婚相手として、この世界では引く手あまたの優良物件なんでしょうね。
……なんか、こう書くと、本当に自分のこととは思えないけれど、そうらしいんデスヨ。
と、かなり人ごとのようにしていますが、まあ、でも、そんなものじゃない?
だって、この時代の「高位貴族の娘」なんて自分の結婚に対して議決権ないでしょう。親とその周囲の親類勢がその当時の社会情勢に合わせて「都合の良いように」誰かと娶せる。それがこの時代の結婚システムだから。
更に「高位貴族の娘(しかも藤原氏の)」なんだから、まあ、当然出るっちゃ出るだろうというのが、時の天皇―帝の元へと女御入内さて、娘を通して帝の縁戚関係になり、その娘の父親や兄が摂政・関白として絶大な権力を握るっていう、摂関政治の王道コースのお話。
お祖父様もことあるごとに叫んでいらっしゃいましたよね「三国一の后がね」って。
周囲がそのコースを想定するのはあまりに当然のことなので、私も女房たちからは「末は国母か中宮か」と言われ続け、親としても皇后・中宮に相応しい教養、洗練された立ち居振る舞い、楽舞の心得、雑学一般、と超一流の教育を受けられるようにかなりお金をかけてくれたらしいデス。
住んでいるところこそ、所謂「都から離れた鄙びた田舎」だったけれど、私の周囲に置く家庭教師的な存在の女房たちは当代一流と言われる人たちを集めたのですって。(一流の講師陣を揃え、って、なんだか大学受験予備校のうたい文句みたいですが。)
でもね。そんな超一流の教育を受けさせてもらっても、その先にある未来が、帝の何人もいるお后の一人って、考えると、うーん、ちょっと何のための勉強? 何のための精進? 果ては自分自身の存在意義まで考えてしまう話になる。
だいたい、私は前世の二〇世紀世界でも結婚願望ほぼゼロのキャリア志向だったしなぁ。東大(理系)に入って、国家一種受けて、その後は霞ヶ関で専門職系の官僚になってバリバリ働くってのが自分の理想の人生コースだと思ってたのでね。それが、育ての親である伯母への孝行にもなると信じてたし。
誰かの妻、お嫁さんになって、それに乗っかって自分の幸せを掴んでいくっていうのは、将来像としてイメージしていなかったし、それが更に「時の天皇の妻」なんてものになりたいかと言われれば、素直な気持ちはノーでした。
二〇世紀時代にも、皇室の「○○の宮様のお妃候補は誰?」みたいな話、ワイドショーや電車の中吊り広告でチラチラ目にしてはいたけれど、それらを見た時の感想も「うわ、大変そうだな」というのに尽きたからね。
と、私も一時期は、割とその、一般的な貴族同士の結婚にも、そして帝のもとへの女御入内にも、消極的というか、全然乗り気になれなかった訳なのですが、ある日、そんな風に内にこもる方向に思考が向いていても良くないなと気づき、ちょっと方向転換。
ちょっとね、讃岐で庶民の暮らしぶりを見てみたことも影響しているかな。
私はもの凄くお金をかけてもらって綺麗な衣装に身を包み、一流の先生たちに教えを請い、食べる物にしたところでこの時代的には最上級のものを用意して貰ってる。
そんな中、庶民の暮らしは、まだまだ本当に貧しく、着る物は荒い織の貫頭衣、家だってこの時代まだまだ竪穴式住居のようなものは現役で、衛生状態もお世辞にも良いとは言えずという状態。
平安時代って、歴史年表の分類では「古代」と書いてあるけれど、本当にそうなんだな、と実感した。
そして、そんな中、度々襲ってくる流行り病で、人々はいとも簡単に死んでいく。
讃岐でも、流行り病への炊き出しや薬草放出の機会が何度かあったのだけれど、その中でも私が一二歳の時に経験したものは結構酷い情況で、讃岐の庄だけでもかなりの死者が出た。死者を送る送り火の煙は耐えることなく、そんな悲しい煙を見上げる中、お祖父様の言う「お前は光明子様の生まれ変わりか!」って言葉が耳の中に蘇ってきた。
そっか、光明皇后か……。皇后って、こういう時、そんな慈善事業的なことが色々出来る立場なんだな、って。国家レベルでの事業であれば、私が造ったちっちゃな薬草園なんてレベルではく、もっと色々なことが出来る。もっと多くの人を救える……。
だったら、まあ、目指してみるのも、アリ、かな、と。
それに、だってね、本来、あの灰色のコンクリ天井に押し潰されてジエンドだったはずの私の人生、それを、もう一度チャンスを貰って、ここ平安の世でやり直してるのならば……。
そう、もし本当に、それ(=女御入内して立后を狙う)が、祖父や親兄弟含めて一族の成功のルートだというのならば!
そして、それになることで、この世の中に私がもう少し何かすることが出来るのであれば!
やってやりましょう、極めてみせましょう、その道を!
そもそも、立后というのも、結局、優れた知性・教養を持つ女人たちが、そのただ一つの女王の席を目指して切磋琢磨し合う受験戦争のようなものでしょう?
だったら、本来東大受験に使うはずだった私の中の熱量全て、それに注いでみせましょう!
いざ、皇后・中宮の座をかけた、その華やかな椅子取りゲームに!
と、清掃員のカッコでモップを握りながら死んだ女子高生(享年一八歳)は、煌びやかに心に誓ったのでした。
で、それ以降、私、本当に頑張ったのよ?
もとから割とそれなりに「良家の子女」として仕上がっていたところに、更に磨きをかけるべく、日夜、血の滲むような努力をさせて頂きました!
そして、その結果、かなり上出来の、お祖父様もびっくりな「当代一の后がね」ってやつになれたのではないかと思うのです。
思うのですが……。
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2023年11月28日 16:30 一部加筆修正。※宋服愛用部分を中心に加筆。
2023年12月23日 19:30 第三節が1万字越えと長すぎたため、宇治編と讃岐編に分ける作業を実行。併せて、既出の章節番号を調整。