第二節 平安時代の優等生姫
R15指定は、一応念のために設定。
(『源氏物語』を取り扱う関係上、恋愛・性愛関係描写が出てきてしまうため)
基本、ドタバタコメディー(時々シリアスあり)です。
※この小説はあくまでフィクションであり、登場する歴史的事件、人物、企業名、大学名などは実在する同名のものとは別存在であるとお考え下さい。
【2023年11月27日連載開始】
第二節 平安時代の優等生姫
「春はあけぼの」で覚醒した後の私は、とりあえず自分が出来る限りのことを頑張ることにした。
私なりに「平安姫なら、こういうことやれば褒めて貰えるはず」というのを一応考えながら行動するようにしたのだ。
周囲の人たちには「いい子」と思われたかったし、両親や兄、祖父といった家族のメンバーにも好かれたかったからね。根が徹底した優等生の私には、そういう生き方しか思いつかなかった訳でもあるのだけれど。
でもね、私が何か「良かれ」と思ったことをする度に、何故か騒ぎが起こる。
そして、騒ぎの度合いによって、都から父や兄たちが呼び出される。
……最悪の場合、母が来る。
ただ、ここで私が「何を」したかと言っても、別に本当に、普通に「平安姫」を頑張ってただけなんだけど……。
***
例えば、文字の手習いや詩文作成などの「お勉強」の時間。これはある意味私にとっては大得意分野なので、最初から張り切ってやりましたよ。覚醒した五歳の時には、既に手習いは始まってたらしく、「私」がちゃんと意識をもって初めて参加した授業では、お手本に「漢皇重色思傾国」って書いてあったりしたので、ああ、これは白楽天の長恨歌だなと、その後に来る部分を「御宇多年求不得 楊家有女初長成 養在深閨人未識 天生麗質難自棄 一朝選在君王側 迴眸一笑百媚生 六宮粉黛無顔色」と書き綴ってみた。前世で私の通っていた高校では高二の夏休みの課題としてこの「長恨歌」の全文暗唱が課され、休み明けに一人ずつ国語科準備室に呼ばれて先生の前で暗唱しなくてはならなかったのだ。その際、レ点返り点なしの白文の方も全部丸暗記しろと言われて覚えていたのが幸い(災い?)して、とにかく書けてしまった。ついでにその手習いの先生の書いた一行目の「重」の字の横棒が一本足りなかったので、それも足してみた。そうしたら、手習いの先生は顔をピクピクと引きつらせながら「女性がそうした漢籍の知識をひけらかすのはどうかと思われますが」とか言い出して、そこでジェンダー観の違いから、当時五歳の私との間で大論争が始まってしまった。で、この一件、祖父の耳に入り、逆に「うむ! この子はなかなかに見どころがある。この気概、三国一の后がねの素質ではないか」と私は褒められ、その先生は辞めさせられてしまった。で、この件、後で大学寮にいる上から二番目の兄からは「女性云々というより、ひけらかしていると取られるような提示の仕方がまずかったのでは? 間違いを直に指摘され、先生としても立つ瀬がなかったのではないかな?」と窘められた。まあ、言われてみれば確かにそれはそうかな、と、以後は、例え手習いの先生の字が間違っていても逆に流麗すぎて読めない字だったとしても指摘しないようにしたし、詩文の文言もちゃんと教えられたものを教えられた後に暗誦するようにした。そうしたら、今度の先生とは上手くいくようになったので、この件では、やはり二の兄上のアドバイスは的確だった訳だ。私は「良い子」に見られたいがあまり、だいぶ傲慢になってたんだな、と反省した。
さて、手習い等の次にお姫様として身に着けるべき嗜みには、お裁縫や染物というのもあって、これは前世でもかなりの手芸好きだった私としては、もう単純に凄い楽しい時間だった。針と糸を使って縫い上げていくという基本的な工程は今も昔も同じだったし、私もかなりハッスルして色々な小物を作ったりした。そうして出来上がったパッチワークやステンシル技法を用いた、平安にはちょっとない感覚の「可愛い」小物類は女房達には大好評だった。特に私が前世の記憶をもとに作成した裏表リバーシブルで使えるパッチワークの巾着袋の型紙は、我が家の女房のみならず近隣貴族宅の女房の間にも貸し出されて擦り切れるまで使われたらしい。これなんては、今考えても「良いお嬢様」のエピソードじゃない? ここは、割とかなり上手くいった分野だと思うんだよね。ただ、このお裁縫と染物というのは、本当のことを言うと中流くらいまでの貴族の家の子には必修科目だけれど、上流姫は基礎理論だけを学んだ後は、自分自身が手を動かすことはなく下の者にやらせて、自分はその監修者、プロデューサー的立場になるのが正しい姿らしい。但し、私はその後もしつこくやっていたけれどね。そして、私の指先から縫い針の刺し傷の絶えないのをみたお母様からは「あなたは、縫い子になるつもりなの?」と苦笑されてしまったりもした。
和歌の修行は、ちょっと手間取ったかな。だって和歌と言って私が覚えていたのはまず小倉百人一首に出てくる百首全部プラス教科書に載ってる有名なものという訳ですが、困ったことにこの小倉百人一首の選者である藤原定家さん、平安末期から鎌倉時代の人な訳ですよ。そして小倉百人一首自体は鎌倉時代に選出されている。つまり、どうしても、今私が平安姫やってる時代からすると「未来」のお歌が入って来ちゃう訳です。どれがその「未来」に抵触してしまうものなのか、もの凄く慎重に振る舞わないと非常に困った事態になる。藤原定家は新古今和歌集の選者なのだけれど、うん、その歌集も、まだ成立していないらしい。それどころか、どうやら藤原定家さん本人もまだ生まれていないか世に出ていない情況らしく藤原定家という歌人についてはついぞ耳にしたことがない。それで時代的にそれでだいぶ絞れるような気がするけれど、でも、悲しいかな、私、藤原定家が何年生まれかまでは暗記出来てなかったんだよ。新古今集の成立も西暦何年? 後鳥羽上皇時代(あるいは天皇時代)の勅撰和歌集だったはずだから、それよりは前? 古今和歌集と紀貫之は歌の先生からも習うから、それよりは後の時代のはずなのだけれどね。で、下手に私がその未来の時代の百人一首を暗唱しちゃうと、それは私の作品ってことになっちゃうので、本当に注意が必要。一度、定家さん本人の「来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに焼くや 藻塩の ……」と途中くらいまでうっかり口ずさんでしまった時があって、それを歌の先生がたまたま聞いていたらしく「うむ! 姫様にしてはなんと素晴らしい出だし! して、その最後は?」と残りの部分を作れと滅茶苦茶勧められたという困った事態に追い込まれたりしたのだ。しかも先生が「こんなのはどうですかな?」と勧めてくる最後の七文字候補の中には定家さん作の「みもこがれつつ」というそのものズバリのもあったりして、本当に冷や汗ものだった。だって、本来、ちょっと先の未来で藤原定家という当代きっての歌人がよむはずの歌が、私の作ということで「藤原のなんちゃらの女が〇〇の席で歌う」とか言って後世に残されたら、本当に大問題だ。そして、その和歌も授業自体もね……決まりごとが多すぎて、しかもその慣習がどういう事情によって発生しているのか意味があるのか、そういうことが気になってしまった私は、最初、本当に劣等生だった。私が前世で死ぬ何年か前の二十世紀世界でも、一度凄い短歌ブームっていうのがあったんだよね。自分の夫から朝食に出たサラダの味がいいと褒められた件を五・七・五で表現した女性人が「そのみずみずしくも若々しい感性が素晴らしい!」って大絶賛され、短歌集が異例の大ベストセラーになったりした。その影響で学校教育の中でももっと短歌に親しんでいこうってムーブメントが起きて、私も中学高校とかなりやらされた。でも、その時は私、大得意だったんだよ、「息をするように五・七・五で読める女」とまで言われて学校内の短歌コンテストレベルでは学校長賞とか貰ったりもした(まあ、そこ止まりだったけれど)。だから最初は、和歌なら行ける、楽勝!と思ったんだけどね……。平安姫修行の結果、「短歌」と「和歌」は全く別物だってことが分かった。「朝食で伯母の残したベーコンを、一人でつつく寂しき夕べ」とか、そういうのが読めても何にもならないってことが。ええ、でも、修行の結果、今では一応、歌の先生に及第点貰えるくらいにはなったんだよ? ただ、未だに母からは「あなたは、どうやら漢詩の方が合ってるようね。まあ、宮中では漢籍知識の方が必須でわたくしも先にそちらを覚えさせられましたから、それはそれで良いのですが、でもね……」と、毎回お小言+添削が入る程度の腕前だ。でも、これはどうしようもない。母の言うように、私は漢詩の暗唱(詩文作成の方はやはりちょっと苦手)の方で勝負して「私、唐風、宋風などの大陸風が好きなんで」で押し通すしかないということになった。本当のこと言うと、漢詩もそこまで好きな訳じゃ無いんだけどね……。
更にもう一つ、平安貴族お嬢様必修科目に、香合わせというのもあるんだけど、私、これもまた最初、少し苦手だった。様々な香料を練り合わせて丸薬状にしたものを香炉で焚いて衣裳や几帳などの布製品に匂いを付けていくのだけれど、これ基本的に現代で言うお線香の匂い、所謂「抹香臭い」そのものズバリだからね。ただ、匂いそのものについては慣れれば徐々に平気なっていったし、中には良い香りだと思えるものも出てきて、私は乳香や没薬などの化石樹脂系よりは白檀などの香木系の方がまだイケるんだなということも分かった。香合わせの作業も、結局、一種の化学の薬品調合みたいなもので、分量を正確に計量し、規定通りの手順で混ぜ合わせることが肝要だと気づいてからは、割と上達早かったと思う。色々な材料をゴリゴリと擦り合わせていく過程は楽しくて、お香の基本材料とされるもの以外にも結構色々すり潰して合わせみたりした。そうしたら最終的にはちょっと爆薬みたいなのが出来ちゃったりもして、確かにそれはちょっと問題だなと思ったけれど……。あ、勿論、それはすぐに封印しましたよ、ハイ。ついでに、その爆薬で家を爆発させたりもしてませんよ。それは、もう間違いなく厳重に封印したので。……これは、長兄にも一応、バレてはないと思う。バレたら、今度はあの頭グリグリどこではなく叱られる案件だと思うし。
で、それ以後は、なんとなくお香そのものからも少し離れたくなり、衣裳に付ける香りも、干した薬草・香草を利用したほんのりとした香りづけへと移行した。現代でいうハーブのサシェだね。これも、家の女房たちにはプチ流行したかな。やっぱり、皆、あの焚きつけるタイプのお香にはちょっと飽きている部分あったんじゃないかな。
そうしたハーブ類に目が行くようになると、自分なりの薬草園―所謂ポタジエが欲しくなって、乳母や女房たちと協力して宇治の川べりに結構本格的なものを造園してみた。当時、ちょうど現代で言うインフルエンザのような流行り病が流行したので、私の薬草園の熱さまし用の薬草を提供すると、凄く重宝された。そして、流行が収まった後も、その熱さましを丸薬化したものを、私の宇治での養い親であるお祖父様名義で売り出したら、サイドビジネスとして結構良い商売になったらしい。この件、お祖父様からは、「お前は、光明子様の生まれ変わりか!」と相当褒められた。そして、そのあと、その薬草園にした土地はまるまる私のものにして良いというお許しまで貰えたりした。因みに光明子様とは、聖武天皇のお后で、歴史上、藤原氏出身で一番最初に皇后になった人だね。貧しい人々を救うための施設として、現代で言う孤児院的な位置づけの悲田院や無料医療施設である施薬院などを造った人で、当時かなり聖女様扱いされ、崇拝対象でもあったらしい。いや、私はそこまでの大事業をした訳ではないし、丸薬に至っては有償で売っていたのでとても聖女とは言えないと思う。でも、社会貢献には一応なってはいたかな。だから、この件で褒められるのはまあ、面はゆいけれど、かなり嬉しかった。
ただね、この薬草園のある土地の相続問題については、お祖父様の長男で父の兄である人、つまり私には伯父にあたる人から物言いがついたらしい。もともとその土地は代々家の長子が受け継ぐべきものなのだそうな。だから伯父さんのものである、と。で、すったもんだと揉めた挙句、結局、その薬草園の権利は伯父さん家に取り上げられてしまった。でも、まあ、薬草園なんてまた別の場所に作ればいいし、丸薬の製造方法の方は私以外知らないので薬草園を乗っ取ったところで伯父さんたちにそれが作れるわけでもないし、と、私の諦めは早かったけれどね。当時私は八歳で、こんな幼女が薬草園を作った本人かつ丸薬の発案者だなんて誰も信じてなくて、名目上は一番上の兄の発案だということにしてあったので、伯父様からその製法を問い詰められたのは一兄様で、そこはのらりくらりと上手く言い抜けたらしいよ。で、この件では、お父様が直々にやってきて、「よくやった。そしてよく耐えたな」と、頭を撫でてくれたかな。それはそれで、また凄く嬉しかった。一の兄様にも同じく「ちょっと潔すぎる気はするが、まあ、そこがお前らしいところか」と、また頭をグリグリとされた。
あとは、そうだなあ……算術問題の件があったかぁ。但し、算術については女性は正式には教わらないみたいなんだよね。男兄弟たちはやらされていたみたいだけれど、私には特にこの分野のお師匠さんはつかなかった。でも、兄たちがやっているらしいことを小耳に挟む限りそれは明らかに小学校の算数の範囲だったので、教えて貰う必要もないかなという気もした。それよりは微分積分の方程式を忘れたくなかったので、時々手習いの書き損じの裏に思い出せる限りの教科書例題なんかを書いて解いてみたりしてたっけ。女房たちには「姫様がまた謎の模様を書いて遊んでいる」って言われたけど。そうそう、ある時、三の兄上が遊びに来てた時に、庭師が庭に植える木の数を間違えてたいから、それを題材に「植木算」を教えてあげたりしたら、大変喜ばれたということがあったかな。三の兄上はどちらかと言うと、頭を使う作業よりも体を動かすことの方が好きな、所謂「脳筋」タイプだからね。三の兄上は感激して「うおーっ! 俺は今猛烈に感動している!」と唸り声をあげた後、御礼に何かしたいというので「今度別のところに薬草園造る時は、耕すの手伝って下さい」と約束取り付けておいた。結局、その約束は宇治ではなく、別の土地で果たされることになるんだけどね。
更に算術関係では、お祖父様の秘書さんが経理の帳面ぽいのを付けていて、そこの計算が間違ってたから教えてあげたりというのもあった。丸薬関係で、収入が急に増えたせいで、ちょっと帳面上収支が合わず、困っていた様子だったから。本当は、その単式簿記形式の帳簿を止めて複式簿記にしたらどうかと言おうかとも思ったけど、そこは二の兄様のアドバイスを思い返し、ぐっと堪えた。……堪えたはずなのに、やっぱりその秘書さんがお祖父様に進言だか告げ口だかしたらしく、結果、お祖父様はまた、「この子は凄い! 天才だ! これは三国一の后がねだ! これで我が家も安泰だ」とまたハイテンションにハッスルした文を京に送ったらしい。で、お祖父様からの文を受けて、また京から長兄がやってきて「お前、自分が何をしたのか分かってるのか! 大人の面子を潰すな!」と、また頭をグリグリとやられた。
そして、その帳簿事件の直後くらいかな、私の身柄は宇治より更に田舎にある讃岐の荘園への移されることになったんだよね……。
……つまり、私がやらかした数々の事件の累積が、もはやお祖父様の手にも負えないレベルだと判断され、より辺鄙な田舎方面へとやられることになった、と、そういう次第だった訳デス……。
次回更新予定:明日朝8時頃 (基本、毎日更新です)
2023年11月28日 07:00 初稿UP
2023年12月23日 19:30 第三節が1万字越えと長すぎたため、宇治編と讃岐編に分ける作業を実行。併せて、既出の章節番号を調整。




