教訓、十三。周到な罠に気をつけよ。 13
2025/05/08 改
カァー! カァァー! カァー! 頭上でけたたましいカラスの声が聞こえてシークは、はっと目覚めた。カラスの羽音が聞こえ、じきに何羽も近くにいることに気がついた。
気がつけば、シーク自身も一緒にうたた寝していた。思わず剣を握る右手に力が入っていた。
頭を振って当たりを見回す。少し離れた所に死体があるようだった。なんとなく薄明るくなってきた森の中で、よくよく目を凝らすと、やはり見間違いではないらしい。死体から離れた場所に移動したと思っていたが、暗かったので距離感がつかめず、意外に近いところにいたらしい。
(…これはまずい。移動しないと。)
せめて若様が目覚める前に移動しないと、あれが目に入ってしまうだろう。体を動かそうとした途端、全身に痛みが走った。さすがに一晩中、ずっと若様を抱えて走り回っていたので、あちこちに負担が来ている。
なんとか立ち上がり、ふらふらと薄明るくなってきた森の中を彷徨い歩いた。だが、どこを歩いているのか。道を探したが、よく分からない。まだ、辺りは煙がある上に霧も出ていて、余計に視界が悪い。
シークはしばらくして、立ち止まった。前方に人影が見える。敵が味方か。剣を握る右手に力が入る。
「…待ってくれ。」
向こうが声をかけてきた。
「……。」
何者か分からないので、じっと様子を覗う。
「あなたはヴァドサ・シーク殿か?」
敵意はない様子なので、顔が見える位置に相手が来てから名乗ることにした。
「止まれ。それ以上、近寄るな。」
剣を持った右手を伸ばし、制止する。向こうはそれに従った。それを確認してから、口を開く。
「確かに私はヴァドサ・シークだが?」
「敵意はない。まずは私の話を聞いて欲しい。私は王宮のある方の使いで、あなたに会いに参った。」
(…王宮だと?)
途端に警戒する。王妃の手先だろうか。それとも別の誰かか。今はまだ眠っている若様を渡せという話か。
「昨日の放火は、そのために起こしたのか?」
シークの問いに相手は慌てた様子だった。
「いや、待ってくれ。それは違う。断じて私ではない。このようなことをするなど、私も信じられない。まさか、放火するとは思わなかった。」
まさか、放火するとは思わなかった、という言葉に引っかかった。まさか、という言葉を使った以上、他に顔見知りか何かの手を組んだ相手がいるのではないか? 向こうも失言をしたと気づいたのか、咳払いした。
「とにかく、私ではない。」
「とりあえず、信じよう。それで、何の用だ?」
「セルゲス公のことだ。私は王妃の使いではない。悪いようにはしない。だから、セルゲス公を引き渡して欲しい。」
一体、誰の使いなのかも言わず、王妃の手先でないから引き渡せというのか? 信じられるか。まさか、従兄弟達が流した噂のせいで、自分はとんでもなく間抜けな男だと思われているのではないか、今さらながら心配になった。
「妃殿下の手先ではないと言ったら、それだけで殿下を引き渡すとでも思っているのか? お前が何者なのか、名前も分からず、その身分を証明するものも何もないのに。」
「……。貴殿の憂慮は当然のことだ。だが、私は名乗るわけにはいかないのだ。」
「では、誰の使いだ?」
「…それも言うわけにはいかぬ。」
「では、当然、渡すわけにはいかない。」
シークが戦闘態勢に入ると、向こうは少し慌てた様子だった。
「待ってくれ。…分かった。ただ、これしか言えない。私の最大の譲歩だ。聞いてくれるか?」
「とりあえず話は聞く。誰の使いだ?」
「…王のご側室だ。王妃のなさったことを大変深く憂慮なさっておられる。今後も殿下に危害を加えられるのではないか、と危惧なさっておいでだ。
だから、我らと手を組んで欲しい。当然、今、殿下を引き渡せとは言わない。準備が整い次第、こちらに引き渡して欲しい。そのために、貴殿には我らと手を結んで欲しいのだ。」
グラップスが昨日、してくれた忠告の意味がよく分かった。権力争いに巻き込まれる、という意味が。つまり、今、若様を巡って何者かが王妃を出し抜くために、若様の護衛に当たる親衛隊の隊長であるシークを取り込もうとしているのだ。
「もちろん、ただでとは言わない。貴殿の望むものを……。」
「断る。」
相手が最後まで言う前にきっぱり断った。なんとなく明るくなってきて、相手の容姿が分かるようになってきた。黒髪に黒い目のサリカン人だ。
「最後まで聞いて欲しい。」
「もう話の内容は分かった。断る。どのような方の申し出であろうと、私は決して殿下を渡すことはないし、どの方であっても手を組むことはない。」
相手の男は眉間に皺を寄せて黙り込んだ。それなりに剣術に自身があるようだ。見た目には質素だが手の込んだ作りの剣を持っている。
「私は親衛隊だ。私を動かせる方はただお一人。国王陛下お一人だけだ。親衛隊は陛下のご命令を賜り、それよって動くもの。誰にも組することはない。」
きっぱり言うと、男はため息をついた。
「仕方がない。できるだけヴァドサ流の剣士である貴殿と、斬り合うのは避けようと思っていた。」
そう言いながら、剣を抜いた。昨日から戦ってきた相手の中で、一番の猛者であることには違いない。昨日からさんざん走り回って、大勢と戦い、どれくらいか分からないほど斬りまくっている。後、どの程度体力が持つか。誰かが応援に来てくれるとありがたいが、今はできるだけ時間稼ぎをしないといけなかった。勝てるなら短時間で決着をつけたいが、それができる相手ではない。
男が斬りかかってきた。非常に速い。どの流派なのか見極める余裕がない。
キィン! キン、キン、と固くて澄んだ高い金属音が響く。やはり、相手は強い。眠っている若様を抱えたまま戦うのは、非常に不利だ。若様のマントの頭巾が戦っているうちにずれていた。
「やはり、抱えているのはセルゲス公だな。こちらに引き渡して貰おう。」
「…く、今日は連れて行かないのではなかったのかっ!」
だんだん追い詰められてきた。体が非常に重く、動きが悪い。
「一晩中、抱えて逃げ回りながら戦っていたのだから、さぞ疲れていることだろう。私に負けたとしてもなんら貴殿の恥ではない。私にセルゲス公を渡すといい。」
「誰が渡すか…!」
その時、足下がふらついた。その瞬間に剣が降りてくる。隙を逃す相手ではない。若様を怪我させないよう、とっさに身をよじって躱したが、背中をかすられた。革の胴着を着ているが、剣の切れ味が良かったら、斬られたかもしれない。必死なので感覚が分からなかった。
シークは、はっとした。若様がもぞもぞと動き出したのだ。起きたのだろうか。
「! うわっ!」
踏ん張ろうとした瞬間、足下が崩れた。後ろ向きに若様を抱えたまま、足下が沈み込むようにして斜面を滑り落ちた。落ち葉溜まりで地面ではなかったのだ。シークの体重を支えきれず、斜面を落ち葉が滑り落ちたのである。当然、上に乗っている若様を抱えたシークも落ちた。
ズザーッ! という音共に斜面を滑り落ち、背中から木の幹にぶつかって止まった。ぶつかった瞬間、息が止まった。それほどの衝撃だった。落ちる途中で、背中に尖った木の枝が引っかかって革の胴着が裂けたが、そのおかげで木の幹にぶつかった時、勢いが殺されて助かった。そうでなければ、背骨を折っていただろう。




