教訓、十三。周到な罠に気をつけよ。 4
2025/04/26 改
「私達も出発しましょう。」
シークの声でバムス達が動き出そうとした。だが、問題が起きた。若様がぐずりだしたのである。
今までそんなことは一度もなかった。普通だったら、そんな年で我がまま言うんじゃないと叱られるが、若様の場合は普通ではないし、今日が異常だった。いつもはじっと我慢しているし、素直に言うことを聞く。
「今日はちょっと調子が悪いですね。」
ベリー医師は若様の額に手を当てて、熱の具合を確かめた。そのベリー医師の手でさえ、嫌がって払おうとした。じっと一点を見つめ、自分の殻に閉じこもっているように見える。フォーリが仕方なく抱きかかえようとしたが、暴れて泣き出した。
先にバムスとシェリアを馬車から降ろす。しかし、セルゲス公である若様を置いて、二人とも避難のために動こうとしなかった。
「若様、フォーリです。分かりますか?」
もしかしたら感受性の高い子なので、敏感に異常を感じ取り、恐怖が先立ってしまっているのかもしれない。シークがベリー医師にそう言ってみると、彼も頷いた。
「若様、馬で移動します。大丈夫、一緒に行きましょう。」
「やだ、怖い。煙の臭いがする。怖い。」
すすり泣きながら若様が訴えた。何か火にも嫌な思い出があるのだろうか。
「煙の臭いがしない所まで行きます。早くしないと、もっと煙の臭いがしてしまいます。」
「……うん、でも…怖い。」
若様は言って、体を縮こまらせながら震えた。
それを観察していたベリー医師に、シークは呼ばれた。
「ちょっと来て下さい。」
一緒に若様を説得しろ、ということかと思い素直に客車に乗り込んだ。フォーリの隣にしゃがんで、そっと若様に声をかける。
「若様、ヴァドサです。避難しましょう。大丈夫、他の人は先に避難しています。それに、火事は若様のせいではありません。私の部下達がちゃんと後ろの人達に伝えていますから、安心して下さい。」
もしかしたらと思って感じたことを伝えると、若様が顔を上げた。
「ほ…ほんとう? み、みんな、だいじょうぶなの?」
両目が涙で潤んだ。自分のせいで火事になったと思ったらしい。さっき、放火だと言っていたからだ。
「私の部下達は訓練を受けていますし、大街道の警備は親衛隊に任命されるまで、何度も行っています。よく知っている街道です。街道を突っ切って、危険を知らせる役目を与えた部下達も大丈夫です。信頼しているので、その役目を任せました。ですから、若様もご心配なさらず、避難なさって下さい。」
「…うん。でも、怖い。」
「大丈夫です。私達がいます。」
若様が頷いた。フォーリがほっとして、抱き上げようと腕を伸ばす。だが、若様はなぜかシークに抱きついてきた。素通りされたフォーリがいささか気の毒だ。昼間のことを忘れていたので、意外な行動に制服が引っ張られて首が絞まった。思わず咳き込みそうになるのをなんとか堪える。
「………父上がいたら、こんななの?」
ぽつりと漏らした若様の言葉に、その場にいた全員がはっとした。シェリアにもバムスにもその言葉は聞こえた。
まさか、シークは自分に若様が父親像を重ねているとは、思いもしていなかった。
「……フォーリはいつもいてくれるけど、少し違うのは知ってる。家族みたいだけど……ちょっとだけ違う。………叔父上は…違った。だから………。」
若様の言葉は心に突き刺さった。あまりにも不憫で不覚にも涙が出そうになる。なんとか堪えて、シークは若様の頭にぽん、と手を置いた。
そういえば子どもの頃、十歳になるかならないかぐらいだっただろうか、地方の道場に行った時だったはずだが、シークは弟のギークと一緒に攫われそうになったことがあった。
道場の近くで遊んでいた時だったので、てっきり、やってきた大人達は道場の人だと思ったのだ。近くの原っぱで手合わせをして欲しいと言ったので、道場の人だと思った二人はついて行った。近くと行っても少し離れていたが、歩いて行ける距離だったので、疑問に思わなかった。
本当に木刀を持っていて、軽く打ち合って手合わせをしようと言い、二人は大人達と手合わせをした。すぐに二人は、この大人達がヴァドサ流の剣士ではないと分かったが、他流試合もあるので不思議に思わなかった。
ただ、随分時間が経ち、いつまで手合わせをするんだろうと思い始めた時、大人達が目配せをしたかと思うと、いきなり本気でかかってきた。ギークが木刀を取り落とし、捕まえられた。シークも捕まえようとしてきたが、必死で抵抗して戦い、なんとかギークを助けようと頑張った。だが、確実に体力が削られていく。もう、だめかと思った時、父の声がした。
「シーク、ギーク…!」
「父上…! ギークが…!」
父のビレスを見て、走り出そうとしたシークを男が捕まえた。髪を引っ張られて、引きずられ痛かった。父親の出現に、男は短刀を出してシークの首筋に突きつけた。
「大丈夫だ、安心しろ。必ず、助けてやる。」
とても、心強くて安心した。
「二人とも、目を瞑っていなさい。」
そう言われて目を瞑っていた。しばらくしたら、男の腕から解放された。男達はみんな地面に転がって呻いていた。
父は二人の無事を確認して連れ帰ったが、なんで知らない人について行ったと厳しく叱られたので、そのことをすっかり忘れていた。
国王軍に入って知ったことだが、有名剣術流派に通っている子ども達を攫い、外国に剣奴として売り飛ばす輩がいるのだという。まさに二人ともそのために、攫われる寸前だったのだ。
その時のことをシークはなぜか、思い出した。時に冷たさを感じるくらいの父だが、この時は血相が変わっていた。不器用でもこうして守ってくれた父がいる。でも、若様は違う。
シークは覚悟を決めると、震えている若様をしっかり抱きしめた。
「…大丈夫だ、安心しろ。必ず守ってやる。」
若様がはっと息を呑んだ。若様は何か言う代わりに、ぐすっと大きくしゃくり上げた。