教訓、十。裏工作には頭脳が必要。 3
2025/04/17 改
厩舎に行くと、旅館の馬丁達が可哀想な目に遭っていた。国王軍の親衛隊の隊長がびしっと仕事をするため、手を抜きたくても抜けないという、隊員達も時々、泣きたくなる親切である。
(…あぁ、あの“親切地獄”にはまってんなぁ、あの馬丁達。)
モナは苦笑した。隊長のシークはよく隊員達の仕事を手伝ってくれるが、手伝ってくれていたら決して、手を抜けないのである。隊長の目の前で仕事に手を抜けるだろうか。抜けるわけがない。
よく、シークは「私がやっておくぞ。」と言ってくれるが、隊長に任せっきりでさっさと帰ることができるだろうか。できるわけがなく、泣く泣く最後まで付き合わなくてはならない。今日は簡単にちゃっちゃと済ませてしまおう、なんて考えている時に限って、手伝ってくれる。
「…あの、ここの床掃除はもういいですので…。どうぞ、馬の手入れを…。」
「…ああ、いや、大丈夫です。どうせ、もうすぐ終わってしまいますから。」
馬丁がおそるおそる提案したが、にこやかに隊長は断ってしまった。人と相対する時は丁寧なのだが、それが終わった途端、殺気立った気が全身から出ている。声をかけにくい。おそらく、シーク自身もそれを分かっているから、床掃除に精を出して心を静めようとしているのだろう。
モナはため息をついた。実家が妓楼のヘムリ・トウィンが来るとすぐに勘づいてやっかいなので、早くこの“親切地獄”を終わらせてやらなければならない。おそらく、馬丁も喜ぶはずだ。セルゲス公の護衛隊長に床掃除をさせたとなったら、後で旅館の主にこっぴどく叱られるだろう。
モナの存在に気づいた馬丁が救いを求めるように、目を向けてきた。急いで、何も話さないように口元に指を立てて、静かにさせる。勘が良いので、すぐに気が付いてしまう。
その前に行動しなくてはならない。モナは馬丁が持っていた馬の糞尿が入った桶を取ると、そのまま近づいて躓いたフリをした。
「!」
「おっと、すみません!」
後、一歩遅かったら、躱されるところだった。何とか隊長に馬の糞尿がかかった。
(ふー、危ない、危ない。運動神経がいいから、さっと避けられる所だった。良かった、上手くかかって。)
馬丁が呆然としているのをよそに、モナは内心でほっとすると、物凄く怖い空気を出しながら黙っているシークに謝った。
「すみません、隊長。躓いてしまって。」
「…スーガ。今のわざとじゃなかったか?」
「まさか、そんなわけないじゃないですか。手伝おうと思って、桶を受け取ったんですけど、躓いちゃっただけです。」
「桶を受け取った後、そのまま外に出れば良かったよな?」
当然の指摘だが、何食わぬ顔で続ける。
「いや、隊長の頭に飼い葉がくっついてた上に、どこかに引っかかったとみえて、一束、変になっていたんで、おかしいですよって言おうと思っただけです。」
モナの嘘八百に、馬丁がぽかんとしていたが、どうやら隊長の床掃除が終わりそうだとふんで黙っていた。
「…そうか。」
釈然としない様子のシークだが、馬の糞尿を被っては着替えないわけにはいかなかった。
「早く着替えてきて下さい。」
「申し訳ありません、後少しで終わりだったのに、余計に汚してしまいまして。」
シークは突っ立っている馬丁に頭を下げると、馬丁は慌てて「いいえ、こちらこそ…!」と急いで礼を言って送り出した。
「頭には被んなかったなぁ。気づかれるか?」
モナは一人呟く。
「…あのう、良かったんですか?」
馬丁が恐る恐る聞いてきた。モナは笑顔で頷いた。
「ええ、お気になさらず。ところで、あそこはもう一回掃除しないといけませんが。」
「あ、あぁ、私共で掃除を致しますので。」
馬丁は慌てて言って、掃除にとりかかった。
「すみませーん、助かります。」
モナは言って自分の馬の手入れを始めた。モナが馬の手入れを始めてしばらくすると、ちょうど数人が馬の手入れにやってきた。
「よう、おはよう。」
「おう。」
「お前、今日は早いな。」
「ああ、昨日、若様の部屋の番で引き続き。」
「そうか、じゃあ、昼休みに仮眠だな。」
「そういうこと。」
モナは何食わぬ顔で同僚達と会話をする。すると、モナの所にヘムリがやってきた。
「…なあ。今日の隊長、変じゃないか?」
「なんでだ?」
「だって、井戸の所でさ、マントを脱いで洗っていたんだけど、なんか妙に落ち込んでいるっていうか。悲しげなんだけど。」
「……。」
(しまったな。怒りが過ぎ去ったら、悲しみの方が勝ってきたのか。この間、落書きされたからそれを思い出して、かえって悲しみがわき上がってきたか……。)
「それに…言いにくいんだが。」
ヘムリは言って、さらにこそこそと耳打ちしてきた。
「なんか、妙に今日の隊長、色っぽい感じがするんだけど。男の色気っていうか…。若様の色気がうつったかな?」
「……。」
ヘムリの実家は妓楼なので、そういうことの勘が非常に鋭い。
「それとさ。これは、私の推測っていうか…。嗅ぎ間違いかもしれないけど。でも、おかしいっていうか。なぜか、隊長の髪から超超高級な香油の匂いが漂ってきたんだけど。」
「……。」
やっぱりヘムリの鼻はごまかせなかったらしい。
「馬の糞尿の臭いもしてたけど、変だろ。絶対、間違いない。小さな小瓶一つで、家が一軒建つっていうくらいの高級品だぞ。」
「……。」
「昨日、シェリア・ノンプディに呼び出されたんだろ? まさかって思うけど。そのまさかじゃないだろうな?」
モナは馬の毛を整えるためのブラシを、ヘムリの頭に乗せた。
「!何するんだ…!」
「お前。」
モナはヘムリを見据えて言った。
「そのことを言うなよ。」
「え?」
怪訝そうなヘムリにさらに続ける。
「例の件。ばらされたくなかったら、一生、黙ってろ。」
モナはロモル以外の同僚全員の弱みを握っている。もちろん、隊長、副隊長も含む。ヘムリは欠員が出て補充されて来たが、じきに弱みを握っていた。
「……分かったよ。あれ、返してくれないのか?」
ヘムリは泣きそうな小声で抗議した。モナは答えず、さらに要求を重ねる。
「俺の馬の世話、しておいてくれ。」
「えー、なんだそれ!」
「悪い、副隊長に報告することがあるんだよ。頼むなー。」
片手をひらひらと振って、モナは厩舎を後にした。急いで井戸に向かう。