バムスの独り言 1
2025/04/15 改
シークが奥の部屋に行ってしまうと、その場に重苦しい空気が残った。奥から押し殺した声で泣く声が聞こえてくるので、余計だ。
バムスにとっても意外な展開だった。シークにここまで裏事情を話す予定などなかったのだ。彼の従兄弟達の証言でこうなった、というのも話すつもりはかった。後で分かることだとはいっても。
しかし、彼の言動を見ている内に、黙っているのは申し訳なく思えてきた。だから話したが、話したら話したで申し訳なく思った。顔色は真っ青になり、ひどく傷ついた顔をした。
「私は後でベイルにヴァドサのことを聞きます。彼の家の事情を知っているかもしれないので。」
フォーリがわざわざ言ってきたので、バムスは頷いた。
「分かりました。では、サミアスにもついて行かせます。」
話が終わると、フォーリが帰りそうだったので、バムスは引き止めた。
「一人でここを出て行かせるつもりですか?」
さすがのバムスもそれは気が引けた。自分がしたこととはいえ、少し可哀想だ。それに、対処しなくてはならないこともある。バムスはサミアスに用意してあった香油を持ってこさせた。シェリアが使っていた物と同じ香油だ。特別な事情でもない限り、こんな高級な物を普段から使用することはない。
「この香油をこの部屋にいる私達もつけておきましょう。そうでなければ、彼の部下達に誤解を与え、醜聞が立ってしまいます。私が誤って手を滑らし、落として匂いがついたことにしましょう。髪にでもつけておけばいい。」
ニピ族が匂いをつけることを嫌うと知っているバムスは、体につけなくて済むよう、わざわざ髪につける代案を示した。しかし、フォーリは言ったのだ。
「なるほど、ヴァドサのためにはそうした方がいいでしょう。ノンプディ殿も含めて、話をしている時にそうなったということにすれば、彼女にも匂いがついている説明になりますから。」
そこまでは良かった。フォーリの賢さが分かるというものだ。フォーリはバムスの手から香油の瓶を取り上げると、蓋を開け、そこにいる全員に振りかけながら、最後に床に瓶を落とした。濃厚な香油の香りが部屋に充満する。
フォーリ以外の全員の目が点になる。信頼できる使用人も三人同席していたので、彼らがはぁーっと引きつけるような声を出して、のけぞっているのがバムスの視界の隅に映った。
急いでサミアスが香油の瓶を拾った。拾ったが中身はほとんどなくなっていた。
「これで、誤って落とした事実が成立します。」
「…な、な、な…なんてことを…!」
侍女頭のティーマが掠れた声で叫んだ。
「い…家が一軒建つと言われるほど、高価な物なんですよ…!」
「仕方ありません。誤って落として匂いが付いたのに、髪に匂いがついていれば、若様が怪しみます。それをヴァドサの部下達も気づかないと思いますか?」
全く理屈は通っている。ニピ族はまず自分が仕える主が一番だ。怪しまれない言い訳を作るには、フォーリの言うとおりである。彼もこの香油が高価だと知っているので、黙って勝手に行動したのだ。
バムスは苦笑いした。
「ティーマ、これを下げなさい。」
香油の瓶をサミアスから受け取ったティーマは、嘆きながら下がった。
その時、奥の扉が開いた。こちらの気配を感じ取り、無理して涙を引っ込めて出てきたのだろう。今までのやり取りで、シークの人柄が読めたバムスはそう判断した。
「大丈夫ですか?」
バムスが尋ねると、手巾で涙を拭きながら出てきたシークは、頷いて返事しようとした。
「…はい、ご迷惑を…。」
最後まで言えずに激しくむせ込む。香油の匂いのせいだろう。
「な…んですか、これは?」
「誤って手を滑らして、香油をこぼしてしまったのです。」
咳き込みながら、バムスの説明を聞いていたシークは、顔色が変わった。すぐに自分についている香油の匂いのために、バムスが他の人間にも匂いをつけたのだと理解したようだ。
「…そ、それは……。」
「それよりも、顔を洗って行って下さい。氷も用意させましょう。目の腫れを引かせないといけません。」
シークの目が丸くなる。
「そ、そんな高価なものを使えません。」
氷は氷室に大切に保管されている。氷菓子などは高級品だ。高級旅館なので、氷室もあって氷は保管されている。もちろん、使えば大金を要求される。だが、香油のことを考えれば、氷など大した金額ではない。
「いいえ、あなたは殿下を護衛する親衛隊の隊長です。人目もあります。泣き顔のままではいけません。殿下のためにも遠慮なく氷を使って下さい。」
言葉を失ったシークは仕方なく頷いた。
「…分かりました。それではお言葉に甘えさせて頂きます。」
この日はシェリアも氷を求めたので、朝っぱらから氷を所望するとは、と旅館側は思ったのだった。