教訓、九。人の妬みには要注意。 1
2025/04/11 改
「あなたは護衛の任に就く上で、どのような点に注意しているのですか?」
急にバムスが具体的に聞いてきたので、シークは少々面食らった。
「…殿下のお命をお守りすることは大前提です。しかし、ベリー先生に殿下の状況を聞いてから、お命を守る云々ではすまないと感じました。殿下のお心をお守りできなければ、本当にこの任務を全うしたとは言えないと思っています。まだ、任務についたばかりなので、部下達にはおいおいそのことを伝えていこうと思っています。」
バムスはじっとシークを注視していたが、その答えに深く頷いた。
「…分かりました。あなた以外に殿下の護衛はあり得ませんね。あなたが一番の適任です。」
バムスは言って、シークに剣と短刀を返すように護衛達に命じた。
「…では、もう下がってもいいのですか?」
シークが聞くとバムスは首を振った。
「そういう訳にはいかないでしょう。」
「他にまだ何かあるのですか?」
さらにまだ何かあるのかと思い、ぞっとしながら聞き返した。
「髪だけ洗い、着替えた方がいいでしょう。」
「?」
どういう意味か分からず、思わず首を傾げる。
「香油の匂いだ。」
「!」
フォーリに指摘され、思わずシークは右拳を額に当てた。嫌なことを思い出してしまった。そして、なぜ、香油の匂いを彼女がつけていたか、その理由にも気が付いてしまった。
「…もしかして、この香油は私が逃走した時のため、匂いで犬が後を追えるようにですか?」
「そうですよ。さすがですね。」
バムスが感心したように言った。シークは恥ずかしくて顔を上げられなかった。この人達はその場面を聞くなり、見るなりしていたのだ。
「…そう落ち込むな。任務だったと割り切ればいい。」
あまりにシークが動けなかったため、横からフォーリが慰めてくれた。しかし、そう割り切れるわけがない。見られた上に殺されたかもしれないのだ。
「……お前は割り切れるかもしれないが…私は割り切れない。」
これは紛れもなく本心だった。情けないことに声も掠れた。するとフォーリは言ったのだ。
「そんなものは慣れだ。たとえ裸で街中を走ることになったとしても、若様を守るためだったら、苦にならないし、気にならない。それに、裸になればみんな同じだし、服を着ているのは人間だけ。人間だけが動物の中で服を着ていて特殊なだけだ。」
思わず顔を上げてフォーリを凝視した。なんと言えばいいのか、全く分からない。どうしてそういう思考に至るのか、ニピ族の思考が理解できない。
しかも、慣れってどういう意味だ? ニピ族は裸で暮らすのか!? 確かに理屈はそうだが…そうだが、そう割り切れるのか!? 動物も裸だから、人間も本来は裸でいいと? でも、動物は毛皮があるではないか! 人間の毛では暑さ寒さに対抗できないはずだ…!
しかし、バムスの護衛のニピ族達も頷いていて、おかしくないらしい。そういう結論に至るのは、ニピ族にとってはごく普通のようだ。
「くっ、くくく、あははは。」
突然、笑い声がしてシークは、恥ずかしさも忘れて声の主を振り返った。バムスが拳で口元を押さえつつ、肩を揺らして笑っている。
「…も、申し訳ない。」
謝罪しつつも笑っている。
「文字通りに目を白黒させて驚かなくても……。」
いや、一体、何回目だろうか、その指摘は……。もう、どうでもいい。シークは落ち込んだ。今日は一生分の恥を使い切ってしまったような気がする。シェリアに酒と薬を飲まされて、ただ権力に屈してしまったと、そのやり方に腹を立てていた。思い出すだけで腹が立つ。だが、同時に猛烈な羞恥心にも襲われる。
そこで、はっとした。つまり、シェリアもその場面を見られるなり聞かれるなりしている、ということだ。なんという女性だろうとシークは感服した。そして、彼女は何食わぬ顔でバムスと顔を合わせるのだ。たとえ、仕事だとはいえ、嫌ではないのだろうか。彼らのやることが突飛すぎて、シークには理解できなかった。
「急に顔色が変わりました。どうしましたか?」
バムスに尋ねられてシークは気まずかった。
「いいえ、何でもありません。」
目を合わせられなくて横を向いて答える。
「そんなことはないでしょう。言って下さい。」
仕方なくシークはため息をついて答えた。もう、どうでも良くなってきた。開き直るしかないではないか。
「…ノンプディ殿は大した女性だと思いまして。彼女もその場を見られているということでしょう。私だって割り切れないのに、女性ですから嫌ではなかったのかと思いました。」
バムスは苦笑したようだった。
「確かにシェリア殿は大した女性です。ですが、あなたも大した男性です。彼女を殺そうと思えばできたはずなのに、なぜ、殺さなかったのですか?あなたはいわば、権力にものを言わされて無理矢理貞操を奪われたのですよ。」
そのバムスの言い方にシークは腹が立った。急に腹立ちが膨れ上がってくる。馬鹿にされているとしか思えなかった。思わず両手の拳を握った。全身が震えたが、なんとか深呼吸をして怒りを抑えた。
「…私を馬鹿にしているんですか…! 権力にものを言わされたとはいえ、彼女と取引をしたんですよ。そういう約束をしているのに、丸腰の女をくびり殺せと言うんですか!? 私にだって誇りはあります…! 貴族の身分はありませんが、誇りだけは失いたくありません! それさえも捨てろと言うんですか!」
相手が貴族のレルスリ家の当主だと分かっていたが、抑えられずに怒鳴った。
「実際には丸腰ではありません。護衛が幾人もいて、武器を持っているのと同じですよ。私だって同じです。私自身は丸腰ですが、ニピ族の護衛がいる以上、武器を持っているのと同じです。」
冷静に言い返されて、シークは急には言葉を思いつかなかった。
「! な、そ、それは確かにそうかもしれませんが……! しかし…、目の前の相手が武器を持っていないのに、その相手に剣を抜くような真似はできません…!」
そんなことは当たり前ではないか…!
「そうですか?もし、みんながあなたみたいな人達だったら、痴情のもつれによる殺人事件は起きませんし、世の中の殺人事件ももっと減るでしょう。」
バムスの言い分にシークはぽかんとした。なんだろう。自分の考え方は変なのだろうか?ここにいる人達と話をしていると、自分の方がおかしいのではないかと思えてきてしまう。
「あなたは自分が分かっていないのです。みんなあなたみたいに、崇高な精神を持っているわけではありません。」
「…す、崇高な精神ですか?」
大仰な言い方にシークは困惑した。
「あなたが出世できない理由をご存じですか?」
「え?」
急にそんな話に移り変わり、シークは間抜けな声で聞き返してしまう。
「あなたが出世できないのは、あなたの従兄弟達が阻んでいるからですよ。」
バムスがそんなことを知っていることに、驚きつつも驚く必要もないのだろうと思った。少しの間で分かってきた。八大貴族が八大貴族でいられる理由を。この情報量の多さだ。
「…そんなことは知っています。」
苦々しくシークは答えた。
「では、なぜ、仕返しをしようとは思わないのですか?」
「仕返しをして、何になりますか?お互いに余計に気まずくなるでしょう。子供の頃からお互いに知っている間柄です。その上、身内同士ときている。身内同士の醜い争いを、公にさらけ出すわけにもいきません。」




