教訓、七。権の前に、剣は役に立たず。 7
シークは泣く泣くシェリアの部屋に行った。妙な汗をかきすぎて汗臭いんじゃないんだろうか。嫌がられるんじゃないか?そんなことを考えてしまってから、シークは首を振った。
(いやいや、私は何を考えているんだ…!これはまたとない機会。汗臭くて追い出されたら儲けもんだ。)
一人でそんなことを考えてから、シークはようやく緊張しつつ、彼女の部屋に入った。連絡がいっているとみえて、部屋の前に行くとすんなり護衛が中に通した。入り口で剣を預ける。一瞬、迷ったが仕方ない。
すっごく気が重い。しかめ面しい顔を隠そうともしないで、侍女に案内された部屋に入る。高級旅館なので部屋も広く三部屋はあるようだ。若様の部屋も三部屋だった。大体、この建物自体が特別客用の棟らしい。若様の部屋の下の下だ。ちなみにバムスの部屋は若様の部屋の下だった。
「いらっしゃい。」
シェリアは化粧を落とし、湯上がりのガウンを来てその上に軽く上着を羽織り、ガラスの椀で酒を飲んでいるようだ。侍女が彼女の髪に香油を塗っていて、香油の濃厚な香りが漂っている。いかにも誘う気満々の姿にシークはやっぱり、と思いながら警戒した。
「ご用件とは…一体、何でしょうか?」
聞いてから、シークは後悔した。聞く前にこう言うべきだった。
「…やはり、出直します。」
するとシェリアはころころと笑った。
「まあ…本当に真面目な方ね。面白いわ。」
面白いって…。どうやって戻ればいいんだろうか。ここから。
「あなた、どうしてわたくしに呼ばれたか、本当に分からないの?」
ランプに照らされる光で、彼女の黒い瞳が怪しげに煌めいている。彼女は美女だということで有名だ。しかし、彼女にそう易々と近づくことができる男はそうはいない。下手をすれば死ぬのだから。
「…そ、それは。」
「ほほほ、分かっているでしょう? 先日、馬車の中でお話ししてあるのですから。」
やっぱり、その話なのか…。どうやって切り抜けようかと、必死で頭を巡らせる。
(…しかし、今夜、切り抜けたところで、今後も切り抜けられるとは限らない。お断りだと最初に考えを示しておこう。これで脅されて、後で何か強請られたりしてもまずいことになる。)
シークは腹を決めると彼女に頭を下げた。
「申し訳ありませんが、私をお呼びだてされました理由が、馬車で話された理由でしたら、お断りさせて頂きます。また、部下をお呼びになるのもおやめ下さい。」
シェリアの視線が冷たくなったような気がした。
「……愚直ね。」
ややあって、彼女が漏らした。こくん、と酒を飲む音がする。ガラスの椀が揺れたせいか、香油の匂いに混じって酒の香も漂った。
「愚直だと言われても構いません。しかし、我々は若様…いえ、セルゲス公殿下をお守りするのが任務です。ノンプディ殿とそのような関係になるのは、不適切かと存じます。私一人の名誉が傷つくのは構いません。
ですが、女性の名誉が傷つくのも望みませんし、セルゲス公殿下のご名誉も、さらに、私を派遣なさった陛下のご名誉を、甚だしく傷つけることになるのは避けねばなりません。それに、そうなれば私の部下達の名誉を傷つけ、彼らのこれからの人生も閉ざすことになってしまいます。ですから、どうかご容赦下さい。」
「わたくしは名誉のことなんて、気にしなくってよ。それでも傷つけたくないと?」
「…はい。」
シェリアがガラスの椀を侍女に預けたのが、視界の端に映った。
「顔をお上げなさいな。」
「ご承知頂けるのであれば。」
すると、シェリアが笑った。作り笑いではなく、思わず笑ってしまったというような自然な笑いだ。少なくとも声には、棘や冷たさといったものは消えたように思えた。
「さあ、お立ちなさいな。分かったわ。」
「ありがとうございます。」
ふふふ、とシェリアは笑う。恐る恐る顔を上げると、見つめていたシェリアと視線が合って、戸惑った。
「あなたの性格が分かったわ。」
シェリアはシークを立たせると、体を見せつけるようにくるり、と体を反転させた。思わず目をそらして半歩下がる。また、近づいてきて、シークは下がる。彼女はくすくす笑いながら、追いかけてくる。いつの間にか侍女も侍従もいない。このまま部屋の外に逃げようとして扉に手をかけると、いつの間にか鍵がかかっていた。思わず取っ手をガチャガチャ揺さぶるが、開かないものは開かない。
「逃げられないわよ。」
彼女の声が近づいてくるので、慌てて壁伝いに移動する。殴って気絶させるとか、シーク自身がそんなことはできなかった。女性にそんなことはできない。とうとう部屋の隅に追い詰められる。
「あなた、さっきこう言ったわ。自分の名誉は傷ついても構わない。でも、陛下や殿下、それにわたくしの名誉、それから部下の名誉を守りたいと。」
シェリアはシークの制服の上から胸に手を這わせてきた。思わずその手をつかみ、慌てて手を放す。
「そんなことを言った人は初めてだわ。」
思わずそらしていた視線を戻すと、下から覗き込む彼女と目が合って気まずくなる。
「あなた、八大貴族のわたくしと関係を持ちたいとか、野心はないの?」
シークには考えもしなかったことを言われて、思わず聞き返してしまう。
「…え? どういうことですか?」
今度はシェリアの方が呆れたように目を丸くした。
「…あなた、人脈を築きたいとか思わないの? わたくしも、バムス様も八大貴族よ。大抵の者はわたくし達と馬車に乗ったら、人脈を築きたくておべっかを使うわ。それなのに、あなたは全く何も言ってこなかった。」
(…ほ、他のヤツらは任務中にそんなことをしているのか!?)
「に、任務中にですか?」
「ええ、またとない機会ですもの。」
とうとうシェリアが吹き出した。
「あなた、本当に真面目なのねぇ。他の人達はね、わたくしの気が自分にあると分かった時点で、運命の恋に落ちたとか、誰が二人の愛を阻めるだろうかとか、歯が浮きそうな美辞麗句を並べ立てて、わたくしに近づいて落とそうと必死になるのよ。」
考えもしなかったことを言われて混乱している間に、シークの腕にシェリアがつかまってきた。思わず腕をひっこめようとすると、ぐいっと引かれてしまい、これ以上強く振り払おうとすると彼女が倒れてしまうので、つい力を加減して緩めてしまう。
「こうやって、逃れようとする人は珍しいのよ。そういう意味で、やはり、あなたにして良かったわ、フォーリ殿ではなくて。」
「え?」
フォーリの名前が出てきて、間抜けに聞き返してしまう。
「わたくしも知っていてよ。ニピ族が任務のためなら一夜の付き合いをすることぐらい。強く求めたらあの人は来たわ。任務のために。」
シェリアはふふ、と笑って、シークの顎に手をかけてぐい、と下を向かせる。彼女と目がまともに合ってしまう。妖艶に微笑む彼女は、豹か小型の獅子にも見えた。目が挑戦的に煌めいている。狙った獲物は逃さない。そんな目だ。
(…わ、私は獲物か…!?)
「でも、それじゃあ、つまらない。簡単に手に入ってしまうなんて。」
これはまずい。なんとかして逃げられる方法はないのだろうか。突き倒したとして、鍵がかかっていて出られない。しかも、怪我でもさせたとなったら、それこそどうなるだろうか。問題になりかえって、若様にご迷惑をおかけすることになるだろう。なんとか気絶させて、侍女に眠っていると嘘を言って出て来る。
(いや、待て。これはどっちみち、私が何かしたと思われる状況だ。つまり、ここに足を踏み入れた時点で終わりだ。つい、話をつけようとか思ったのが間違いだった。)
今頃になって、彼女の罠と状況に気が付きシークは内心で青ざめた。
「そう言えば、あなたを推薦したのはどなただと思って?」
「え?な、なんですか?」
「ふふ、文字通り動揺してますって顔をしているのね。可愛いわ。」
なんか似たようなことを今日も言われた。
「あなたを殿下の護衛に推薦したのは、西方将軍のイゴン将軍よ。」
「…そ、そうなんですか?知りませんでした。」
やはりベリー医師の言った通り、八大貴族の情報網は侮れない。侮れないが…これはどうしよう。
「陛下が殿下の護衛を推薦させた時、一度目はイゴン将軍以外の四方将軍達も数人ずつ、候補となる者を推薦したわ。でも、二度目になったら誰も手を上げず、ただ一人イゴン将軍だけが手を上げてあなたを推薦したそうよ。
知っていて?あなたは今日、命拾いしたの。」
「…命拾いですか?陛下の信頼を裏切ることなく、イゴン将軍の名誉も守ったからと言うことですか?」
すると、シェリアは意味ありげにおかしそうに笑い、ようやく顎から手をはなしてくれた。内心物|凄
《すご》くほっとした。
「…ええ、そんなところよ。」
実際にバムスがシークの隊を殲滅できるだけの兵力を持って、後から追ってきているとは知らないシークは首を傾げた。
(……待てよ、つまり、これは試されていたということなのか?)