教訓、六。何事も、頭を張る者は器が違う。 4
こうして、一騒動があってからようやく若様は王宮の玄関までやってきた。
そこには貴族達が待ち構えていた。フォーリにつかまりながら若様は静かに進んでいく。シークはできるだけ、若様が人目に触れないように隊形を組み、前後左右に一人ずつ配置する。玄関の外に出れば待機している十人が待っている。残りの五人は厩舎で馬の番をしている。馬に何かされたらいけないからだ。
サプリュに来る前までに色々あったので、みんな気合いを入れていた。馬の番にはダロスを入れていた。若様に恩があるので、馬の番でも文句一つ言わなかった。
「セルゲス公殿下。久方ぶりですな。」
やってきた貴族はトトルビ・ブラーク、八大貴族の一人だ。
「随分と母上に似ておいでだ。可愛らしいことこの上ない。妓楼にも殿下ほどの容姿の娘はいませんぞ。」
不躾にじろじろ眺めてニヤニヤ笑いながら言ってきたので、誰もが眉をひそめた。
「トトルビ様、失礼ですわよ。」
シェリアが注意した。先ほどまでとは違い、身が凍りそうなほど冷たい声だ。
「!ああ、いや失礼、シェリア殿。おや、レルスリ殿とご一緒ですか。とうとう噂を“本物”にするおつもりですかな?」
シェリアとバムスが男女の仲だという噂があるからだ。
「そうではありません、トトルビ殿。酔っていらっしゃるようだ。陛下から殿下にご一緒するよう、お言葉を賜ったのですよ。」
バムスが和やかな声と表情でブラークをたしなめる。
「おや、陛下がですか?」
「ええ。」
ブラークが黙った所で、別の貴族達が次々に若様に挨拶にやってきた。
「……。」
若様はフォーリにつかまったまま、黙って一言も返さない。目を伏せたまま緊張して固まっている。全身が小刻みに震えている。立場が立場だけに逃げる訳にもいかず、はっきり言ってかなり可哀想だった。
「殿下は口を開くことも、お出来にならないようだ。」
ブラークの取り巻きの一人、ノムノを治めている貴族のペアトカ・スプリが意地悪く言った。
「殿下は具合が悪いのです。どうかお引き取りを。」
バムスがにこやかに、だが有無を言わせない様子ではっきり告げる。
「とうとう、レルスリ殿のお相手は女性だけでなく、そっちの方にも行かれるのですな。」
ブラークが髭を撫でつつ、馬鹿にした様子でバムスに言い放った。シークは『失礼だぞ!』と怒鳴りそうになるのをすんでの所で堪えた。“そっちの方”とは明らかに若様のことを指している。
知らず手が剣の柄にかかっていて、シークはこっそり掌を開いて力を抜いた。
(なるほど、八大貴族と一口に言っても一枚岩ではないんだな。しかも、このトトルビ・ブラークという御仁は、この二人と比べて器がかなり劣る。)
色々と知らないことが見えてくるものだ。
「やはり、トトルビ殿は悪酔いなさっておいでだ。誰かこちらへ。」
バムスは気分を害した様子もなく、回廊に控えて様子を見守っている侍従達を呼んだ。
「丁重にお送りしなさい。これ以上、酔って失言なさったら、親衛隊の隊長殿に斬られますよ。陛下から斬って良いという許可を得ているのでしょう。そうでなければ、八大貴族のあなたの発言に対して、剣に手をかけたりしませんよ。」
「!」
ブラークが目を剥く。シークも心底驚いた。バムスがしっかり見ていたとは思わなかった。
「さすがに王宮内での流血沙汰は良くありません。殿下の御前でそのような事態になったらいけないので、耐えたのですよ。今のご発言は一線を越えておられました。」
穏やかにしかし、ピシャリと言われてブラークは苦々しげに黙り込んだ。
「…確かにトトルビ殿は悪酔いなさっておられるようだ。失礼致しました。」
ササリを治めている貴族タラキ・ウォスクーが宥めるようにブラークの肩を叩いた。
「行きましょう。」
タラキに促されてブラークは向きを変えた。他の貴族達も若様に挨拶をして早々に立ち去っていった。
「殿下、失礼致しました。どうか、お気になさらず。」
バムスはそっと若様に謝罪した。フォーリにつかまって震えているその姿は、十歳くらいの子供が震えているようにも見えた。
「……ねえ、嫌なこと…言われて……く、苦しくないの?……悲しくなったりしない?私は……嫌なことを言われたら……苦しくて悲しくなる。……胸の中が…ちくちくする。」
若様の頬に涙が伝う。フォーリがそっと若様の背中を撫でた。
「殿下。失礼致します。」
バムスが断って手巾で若様の頬を拭った。
「殿下はとても優しいお心をお持ちです。私だって嫌なことを言われたら嫌です。しかし、受け流す方法を身につけました。
例えば先ほど私は嘘をつきました。トトルビ殿は酒に酔っていたわけではありません。」
若様は、はっとしてバムスを見つめる。
「でも、わざと酒に酔っていると言いました。酒に酔っていると言えば、トトルビ殿をそれにかこつけて立ち去らせることができます。そして、トトルビ殿も後で発言について罪に問われた時、酒に酔っていたのだと言い訳ができて、大事にならず穏便に片付けることができます。」
「……でも、心の折り合いはどうやってつけるの?」
子供の質問がたびたび大人を困らせるような質問であるように、今の若様の質問も大人を困らせるのに十分な難しい質問だった。バムスは困ったように微笑んだ。
「難しい質問です。」
素直に答えたことにシークは聞いていて驚く。
「私の場合は、その人の性格なのだから、仕方ないことだと思います。トトルビ殿の場合、私を怒らせたいのです。」
若様は驚いて目を丸くした。
「…どうして?」
「私が怒って失敗することを望んでいるのです。そのために私を怒らせようとするのです。今日の場合も同じです。そのために殿下を巻き込んでしまい、申し訳ありません。」
「…なんで、怒らせて失敗させたいの?」
若様は心底分からないという表情で聞いた。本当に純粋な子だと思う。
「私が八大貴族の筆頭だと思われているからです。だから、私が失敗して失脚することを望んでいます。私が失敗して失脚すれば、その後の座にトトルビ殿は座れると思っているので、そうしたいのです。」
シークはバムスに感心していた。こんなに明確に説明できるということは、バムス自身が理解しているからだ。人は理解していないことは明確に説明できない。
「ですが、トトルビ殿の思惑通りに私が失敗すると、様々な所で問題が生じ、私自身も不利益を被ります。ですから、失敗するわけにはいきません。
たとえば、今日、殿下やシェリア殿に矛先が向いたように、無関係の人を巻き込んでしまうことも十分にあります。私の失敗は私だけで済むものではなく、多くの人を巻き込んでの失敗になるのです。」
「……私には…無理だ。きっとできない。」
バムスは微笑んだ。
「殿下。人はそれぞれ違う気性です。みんな違うのですよ。ですから、殿下は殿下が生きやすいようになさればよろしいのです。」
「…でも…私はすぐに泣いてしまうし…。」
「それは殿下のお心が純粋でいらっしゃるからです。それで良いと私は思います。自分は自分のまま。それ以上でも以下でもない。無理に飾る必要はないと私は思います。今のままのご自分を受け入れられたら、それでよろしいのではないかと私は思います。」
バムスはずっと石畳に膝をついたままだった。ゆっくりと立ち上がり、膝の汚れを払った。
「…ごめんなさい。」
若様の謝罪にバムスが驚いた様子で、若様を見下ろして見つめた。今までずっとにこやかな仮面を被っていただけに、素の表情が現れたようだった。
「なぜ、謝罪されるのですか?」
「だって…私とずっと話していたから、石畳の上に膝をつきっぱなしだった。私が気が付かないから…。」
そう言ってうつむく。
「殿下、気になさらないで下さい。これくらいなんともありません。それよりも、殿下とこのような話ができたことを心より嬉しく思います。」
上目遣いに見上げる若様と目が合うと、バムスは上品に微笑んでいる。本当に絵に描いたような貴公子だ。シェリアが女性の教科書に載るような貴婦人だとしたら、バムスはきっと男性の教科書に貴公子の振る舞いの良い例として、取り上げられるだろう。
「本当に大丈夫ですよ。それよりも、すっかり遅くなってしまいました。参りましょう。お疲れでしょう?」
「まあ、バムス様ったら、わたくしがご案内するはずでしたのよ。」
シェリアに文句を言われて、バムスは素直に謝罪している。
「失礼致しました、シェリア殿。殿下と仲良く話ができたものですから、つい、嬉しくなってしまいました。」