ヴァドサ家で起きた事件 4
「…伯父上。少しいいですか?」
引き戸の前で尋ねると、少しして答えがあった。
「誰だ?」
「セグです。」
「入りなさい。」
セグはもう涙を止める努力もせずに、そのままの顔で部屋に入った。顔を上げたビレスはびっくりして、セグを見つめる。
「セグ、どうした?何があった?」
「……昨晩、父も母も帰ってきませんでした。」
セグが切り出すと、ビレスが困った表情を浮かべた。ビレスは知っている。昨日、母のチャルナが何をしていたかを。腹が立つと同時に、仕方なさも感じていた。だって、ビレスの弟であるユグスと息子のシークの命と人生がかかっているのだから。
伯母には言えなかったが、伯父には言ってもいい気がした。
「話があったのか?」
ビレスの問いにセグは頷いた。
「…母は、バムス・レルスリと同じ匂いをさせて、帰ってきました。」
ビレスの顔が蒼白になったのが、涙の向こうで見えた。
「何も言わないで下さい、伯父上。分かっています。もう、いいです。母には何も望みません。たとえ、理由があったとしても、言わないで下さい。聞きたくない。」
「……そうか、すまない、セグ。お前には可哀想なことを。」
ビレスが苦悩の表情を浮かべて謝った。
「…それより、父上はどこにいますか?」
「…そうか、黙ったままですまなかった。ユグスは急に悪化したので、かつてのパレンの部屋で休ませている。お前達に一言も話していなかった。悪かった。」
父ユグスのことを聞くと、ビレスは気を取り直したように、さらに謝罪した。
「ユグスの所に行こうか。」
ビレスは言って立ち上がろうとしたが、セグが座ったままだったので、困惑してセグを見つめた。
「セグ?どうした?他に何かあるのか?」
「…伯父上、ごめんなさい、シーク兄さんのこと。」
ビレスがセグの前にしゃがんだ。肩に手を置いてぽんぽん、と軽く叩いてくれる。
「セグ、シークなら、お前が謝れば許してくれる。そういう子だ。お前も分かっているだろう。そうすれば、仲直りできる。」
セグは首を振った。
「セグ、何かあるなら話しなさい。いつでもいい。あまり、思い詰めてはいけない。」
伯父の言葉にセグは頷いた。
父のユグスの所に行くと、まだ眠っていたようだったが、人の気配に起きた。
「……ん?セグか?」
「はい。」
案内してくれたビレスは、二人だけにして部屋を去った。
「どうした、朝から。そういえば、お前達にここにいることを伝えていなかったな。ビレス兄さんに聞いてきたか?」
「はい。父上。」
そう言った後は、言葉にならなかった。
「セグ?どうした?何かあったのか?」
「父上…ごめんなさい。」
そう言った後、父の布団に突っ伏して泣いた。父が優しく頭を撫でてくれる。こんなに優しい父を母は毒殺しようとしている。実際に手を下そうとしているのか、利用されているだけなのかは不明だが、一枚噛んでいるのだ。これには、怒りよりも悲しみを感じた。
セグは父と一緒に朝食を食べると、一度部屋に戻った。三日の休みを貰ったはずだが、軍に出勤するつもりだったのだ。ただ、質屋に行かなくてはならないことを思いだし、着替えを取りに来た。
すると、部屋の物を動かした形跡があった。きっと、母だろう。セグが何か知っているのではないかと疑い、セグがいない間に探したのだ。
母にはますます幻滅した。着替えをまとめて風呂敷に包んでから、厩舎に行った。馬を引き出した所で人の気配にはっとした。
「昨日、言ったことは事実だっただろう?」
夜中に現れた男だ。厩舎の壁の向こう側にいる。
「お前は何者だ?なぜ、私に接触してくる?」
すると、男はくくく、とくぐもった声で笑った。
「お前が兄弟の中で一番、まともだと聞いたからだ。」
聞いた?一体、誰に?
「だから、お前に接触している。まともでないと、話も通じないからな。お前の母親だが…憐れな女だ。捨てられるために、近づいてきたのだと知りもせずに。どうだ?教えてやれば。そうすれば、母親の名誉は守られるぞ。そうでないと、どうなるか分からんな。バムス・レルスリ、あの男はやる時は徹底してやる男だ。冷酷だぞ。」
自業自得だ。セグは内心で思った。もっと、冷酷なことをシークに対してしてきたのだから。そして、冷酷なことを今も実行しようとしているのだ。信じられないことに。自分の欲求が満たされるためなら、殺人さえ厭わないようだ。母がこんなに恐ろしい人だとは知らなかった。
自分の要求ばかり押しつける人だったが、それでも、母の期待に応えようと頑張って来たのに。見事に裏切られた気分だ。母は、自分達家族を捨てた。
「まあ、夫を毒殺しようと、毒が欲しいと我々に接触してきたくらいだ。」
セグはドキッとして、厩舎の壁に隠れている男の影を見つめた。きっと、動けば気づかれて向こう側に消えるだろう。そして、姿も消して二度と捕まえる機会を失う。危険な男だ。母をそそのかしている上に、シークや父のユグスを殺そうとしている者だ。
許せない。そして、何とかして捕まえなければ。
「……嘘だ。母が…そこまでするわけがない。そんな度胸はないはずだ。」
男を騙すためではあったが、セグは自分の願望を言った。声は掠れて微かに震えた。だから、男は簡単にセグの本心だと信じたようだ。くくく、と喉を鳴らして本当に面白そうに笑う。人の不幸を笑いものにするというのは、まさにこういうことを言うのだろう。
「息子ならば、そう信じたいだろう。だが、これが現実だ。母親を止めたいなら、殺すという方法もあるぞ。」
確かにそれが一番、確実かもしれない。でも、伯父のビレスはそれをすれば、シークが傷つくことを心配していた。そうだ。優しい従兄のシークならば、悲しむだろう。そんなことをする必要はなかったと言うに違いない。でも、手遅れになれば、シークの方が死んでしまうかもしれないし、シークの出世を止めるためだけに、父が殺されてしまうかもしれないのだ。
セグの言葉の出ない葛藤を感じ取ったのか、男は満足げにふふん、と鼻で笑った。
「なんだ、母親を止めたいのではないのか?傍観していれば、父親が死ぬぞ?お前の従兄は結婚式を挙げられないだろう。そうなれば、国王の命令も遂行できなくなるし、セルゲス公の面目も潰れるな。いや、結婚を命じた国王の面子が一番に潰れるか。
セルゲス公は自分のみならず、人を不幸にする王子として噂されるようになるだろうな。一番に親衛隊の隊長の身内に不幸が起きたと。泣き虫の王子がますます泣くだろう。もしかしたら、自ら親衛隊の護衛はいらないと言い出すかもしれないな。
そうなれば非常に楽だ。なんせ、護衛がいなくなる。しかも、お前の従兄は有能だから、肝心の王子にいつも手が届かなかった。それが、王子に手が届くようになる。
まあ、私としたら、これが非常に楽だ。そうなればいいから、そういう手も打っているわけだが。だが、それはあまりに可哀想だと思ってな。何も分からず、ただ殺されるだけのお前の父親が。だから、教えてやっている。お前は、どうする?」




