ヴァドサ家で起きた事件 3
そして、母のチャルナは朝になってようやく帰ってきた。
この朝帰りが何を意味するのか。猛烈に腹が立ってきたが、セグは自分を抑えた。母がそっと足音を立てないように、自分達の部屋の前を通り過ぎようとしている。
セグは、母が自分の部屋の前に来た時を狙って、引き戸を開けた。母のチャルナがびっくりして、びくっとしながら後ろにのけぞり、よろめいた。
「母上。」
「……せ…セグ。どうしたの?びっくりさせないで。」
「母上。私は母上に話があったので、一晩中起きて待っていました。なぜ、昨日は帰ってこなかったのですか?」
息子から怒りを感じたのか、チャルナは途端にムッとした表情を浮かべた。
「朝の挨拶もなしに急になんなの。」
「これは失礼しました、母上。おはようございます。それで、昨日はなぜ、帰ってこなかったのですか?」
「別にいいでしょう。本家の方で用事があったのです。」
チャルナはムッとした表情のまま、取り繕うように答えた。
「もう、行きます。疲れたので休みます。」
「本家の方にいないのは知っています。」
実際にセグは母の書類を確かめた後、本家の方に行って、チャルナの行方を捜していた。何人かの使用人に聞いているから、分かるだろう。セグが探したことは。
「用事なんて嘘です。昨日はどこに行っていたのですか?」
セグの言葉にチャルナが返答に詰まった。後ろめたいことをしているせいか、セグと目を合わせようとせず、くるりと体の向きを変えた。その時、母の体から高価な香りが漂った。昨日、バムスがつけていた香りと同じ香りだ。
分かっていたことだが、急に腹の底から怒りが沸き出てきた。殴りたいほどの怒りと衝動に駆られたが、かろうじて耐えた。自分より体は小さく、年も取った。その母を不倫したからではないかという理由で、腹立ち紛れに殴れば死ぬだろう。
「…母上……!」
セグの固い声に、チャルナが振り返った。チャルナの顔が強ばる。セグは両手を握りしめて母親の顔を見つめた。両目から涙が勝手に溢れる。
「…なぜですか?その香り。どうして、そういうことができるんですか…!」
「セグ、静かにしなさい…!」
チャルナは慌ててそんなことを言っている。人が来たらまずいからだ。聞かれたくないからだ。セグは分かっていたが、堪えられなかった。
「その香りは、昨日、バムス・レルスリがつけていた香りと同じです…!一晩中、一緒にいたんですか!」
バシッと顔を平手打ちされた。痛くなかった。チャルナはセグを睨みつけている。だが、本当のことだろう。
「黙りなさい!」
「じゃあ、なぜ、答えないんですか!私の質問に何一つ、答えないじゃないですか!母上、シーク兄さんに何をしたんですか!?もう、大概にして下さい!今度は父上に何をするつもりなんですか!?」
セグは怒りのあまり、つい口走っていた。チャルナの顔色が変わり、真っ青になった。
「……セグ、お前、何を知ってるの?」
セグは、はっとしてチャルナの顔を凝視した。母は今『何を言ってるの?』ではなく『何を知ってるの?』と言った。つまり、聞いてしまった話は事実なのだ。
チャルナは、シークを剣士狩りに遭わせ、この間はマウダに攫わせようとした。そのために剣を売り、金を得た。そして、シークの結婚式を妨害し、セルゲス公の護衛の任務を外させるために、今度は父のユグスを殺そうとしている。
それらは全て事実なのだ。もう、母に何を言っても無駄なのだと気づいて、セグは絶望した。自分の部屋に入ると、制服のマントと剣を取り戸を閉めて、呆然としている母を置いて背を向けた。
「セグ?お前、どこに行くの?」
母の声を無視して、セグは歩いた。母は追いかけてこなかった。
「セグ?何をしているの、こんな所で。朝早くから。」
本家の屋敷の外れの廊下でセグは一人座り込み、呆然として泣いていた。
「…お…伯母上、ごめんなさい。」
シークに対して母や自分達がしたことが思い出されて、セグは謝った。
「どうしたの?何を謝っているの。」
ケイレはセグの前にしゃがみ、泣いているセグの両手を握った。
「まあ、こんなに冷え切って。氷のように冷たいじゃないの。」
伯母の優しさにセグは余計に泣けてきたが、急いで涙を拭った。
「……伯母上。私は……伯母上が母上だったら良かったのに。」
ケイレがセグの言葉にはっとした。
「セグ、何があったの?話してごらんなさい。何があったの?」
ケイレがセグの顔を覗き込んで来たが、目を合わせられなかった。喉元まで『母が、バムス・レルスリと不倫しました。』と出そうになったが、言えなかった。それも、作戦なのだとしたら。父とシークを助けるための一手なのだとしたら、自分が話すことによって狂ってしまうかもしれない。
セグは首を振ると立ち上がった。
「…なんでもありません。」
「なんでもないって…。そんなわけないでしょう?」
ケイレは自分の子供のように、セグの涙を両手で拭ってくれた。
「…伯父上は起きていますか?」
「…書斎にいます。」
セグが口を開かないと思ったのだろう、それ以上は聞かずにケイレは答えてくれた。
「伯母上、ありがとうございました。」
セグは礼を言って、歩き出そうとして、ギークが廊下にじっと立っていることに気がついた。気まずかったが、何も言えなかった。ギークも不審そうにセグを見つめている。
「お前、どうした?何かあったのか?」
通り過ぎようとした時、ギークが聞いてきた。
「なんでもない、ギーク兄さん。…それと、ごめん。」
「おい、セグ。」
歩こうとしたら、腕を掴まれた。
「セグ。もし…シーク兄さんのことを言ってるなら、確かにお前達のしたことは、許し難いが、お前なら…シーク兄さんは謝れば許してくれる。私もお前なら許す。お前は本当はそんなヤツじゃない。」
シークのことを言われると、セグは止めようとしていた涙が止まらなくなった。
「セグ、どうした?」
「…ごめん。」
セグは心配するギークの腕を振り払うと、大急ぎで伯父のビレスの書斎に向かった。




