ヴァドサ家の騒動 1
時はしばらく前に遡り、場所もサプリュに移る。
シークの実家のヴァドサ家では、騒動になっていた。
ことの発端は、春先にシークが親衛隊に任命されたことだった。これには家族親族一同で喜び、シークに厳しい父のビレスも顔に喜色を浮かべ、よくやったと言ったほどだ。だが、この知らせは、シーク本人から家族に伝えられたのではなく、弟達からもたらされたものだった。
使用人達も含め、ヴァドサ家の敷地内に住んでいる人達はみんな大喜びして、シーク本人が帰ってくるのを待った。ただ、例外的にシークの叔母のチャルナだけは、嬉しくなさそうで、彼女の息子達も複雑な表情を浮かべていた。彼らを除けば、みんな喜んでいたのだ。
ところが、シークは急いで家に帰ってきたかと思うと、祝いどころではないと言って、なぜか自分の部屋を片づけた。礼を失せぬよう、祝ってくれる人に感謝の言葉を言うのだが、とにかく急いでいるのが分かるので、みんなとりあえず下がったのだった。
せっせと部屋を片づけているので、一緒に部屋を使っている年子の弟ギークが驚いて、兄にどうして急いで部屋を片づける必要があるのか聞いた。
「シーク兄さん、どうしたわけ?急いで帰ってきて、まるで病床にある老人のように、身の回りの物を片づけちゃって。」
わざと少し茶化して尋ねたが、シークは深刻な表情で座ったままギークを見上げた。
「ギーク。私はセルゲス公殿下の親衛隊に任じられた。」
「うん、知ってるよ、おめでとう…!当家で一番の大出世じゃないか…!良かったな!」
ギークは言って、シークの背中をバンッと叩いたが、いつもなら痛いと文句を言われるのに、その日は言われなかった。深刻な表情で考え込んだまま、言ったのだ。
「私は…任務に就いたら、その瞬間からいつでも死ねるつもりで任務に赴くつもりだ。」
「シーク兄さん、大げさだよ。確かに大きな声では言えないけど、殿下の護衛が出世という名の左遷だって言われていることくらい、みんな知ってる。でも、それは大げさ。」
ギークは励まそうとシークに言ったが、逆に言われてしまった。
「どうして、話も聞いていないのに、大げさだと分かる?」
シークの深刻な表情を見て、これは何か聞いてきたんだとギークはすぐに察した。
「…そんなに大変なのか?」
「詳しくは言えない。でも、私が死ぬ可能性があると思っておいてくれ。だから、アミラと話して、婚約を解消してから行く。」
荷物をまとめながら、重要な話をさらっとしたシークは立ち上がり、部屋を出て行った。
「……へ?ちょっと、待った、シーク兄さん、今、なんて言った?ちょっと…!」
こうして、シークは弟のギークが止めるのも聞かず、勝手にアミラとの婚約を解消してしまった。
ギークはアミラとシークが話す直前まで、それだけは止めようと必死に後を追っていたが、ヴァドサ家に来た時に泊まっているアミラの部屋の前までついて行ってしまい、シークに睨まれて仕方なく引っ込んだ。引っ込んで急いで、家を仕切っている母にそのことを伝えた。
「なんですって…!?」
母のケイレもびっくりして、大急ぎでアミラの部屋に二人で走ったが、その時にはシークは出て行った後で、部屋には泣き崩れているアミラが一人でいた。
「アミラ、どうしたの!?シークはどこに?」
「……い…行きました。」
しゃくり上げながら、家の当主である父のビレスの部屋のある方角を指した。仕方なく泣いているアミラを一人置いて、ケイレとギークはビレスの部屋に急いで走ったが、もう遅かった。
「分かった、そこまで言うなら、お前が屍になるまでは、ヴァドサ家の門をくぐるのは許さん…!」
そんなビレスの声が部屋の中から聞こえてきて、ケイレとギークは青ざめた。せっかく機嫌良く喜んでいたのに。
「それで結構です、父上。今までお世話になりました。」
「ちょっと、何の話をしているんですか!?」
ケイレは大急ぎでビレスの書斎の引き戸を開けた。ケイレが夫のビレスを見ると、眉間に皺を寄せて難しい顔で黙り込んでいる。シークは床に正座して父親に丁寧に挨拶した後、ケイレに向き直った。
「母上、ちょうど良かったです。私は親衛隊に任じられましたが、私が任務に就いたら私は死んだものと思って下さい。屍になって帰ってくるかもしれないので、仮にそうなった時にはご迷惑をおかけしますが、よろしくお願い致します。」
ケイレは目をしばたたかせた。
「…シーク。お前、深刻に考えすぎではないの?そこまでする必要があるの?」
「はい。」
シークは少し考えた後、頷いた。
「必ずサプリュに戻ってくるはずだと言ったが聞かん。」
珍しくビレスがそんなことを言って、暗に妻にシークの説得を試みるよう促した。
「…シーク。ちょっといいかしら。」
そして、妻は正しく夫の意図を汲んで息子に語りかける。
「シーク、当家は武の家門。その上、多くの一族が国王軍に入隊していて、ある程度のことは分かっています。今まで…。」
「母上。せっかくですが、時間がありません。」
珍しくシークがケイレの話を遮った。めったに親の話を遮って自分の話をすることがない。
「今日、陛下に拝謁し、親衛隊の任を承りましたが、後二日後には出発します。今日も含めて三日しかありません。」
「陛下に拝謁したのか?」
ビレスがやや驚いた口調で尋ねた。
「はい。その時、王太子殿下も一緒に。」
「……任務が厳しいものだと仰ったのか?」
ややあってから、シークは答えた。
「はい。詳しくは言えませんが、殿下の護衛のニピ族が自分一人での護衛が難しいと考え、リタの森に逃げ込んだと聞きました。厳しい状況だと考えます。」
シークの説明にビレスは、ふうと息を吐いた。ケイレもギークも、それがいかに厳しい状況であるかは理解した。ニピ族はサリカタ王国一の武術を持っていると言われているのだ。
「分かった。行ってこい。任務を全うして参れ。」
「はい、行って参ります。時間が無いので、それでは。」
ケイレとギークがびっくりしている間に、ビレスが許可を出してしまったので、シークは挨拶して立ち上がった。
「ちょっと、シーク、食事はどうするの?」
「今日くらい、泊まったら?」
ケイレとギークはそれぞれ言ったが、時間が無いと言って、シークは行ってしまったのだった。
「ちょっと、お前様、人には引き止めろと言っておきながら、なんで行かせてしまうんですか…!?」
「…すまん。だが、あれは言うことを聞かん。ああなったら、自分が正しいと正当性があると思ったら、てこでも動かないだろう。行かせるしかない。」
ビレスは妻の抗議に謝って説明する。ケイレも息子の性格を分かっているので、仕方なく黙った。
「…あ。でも、あの子、勝手にアミラとの婚約を破棄したんですよ!」
「何…!」
夫婦は慌てたが後の祭りだ。ビレスは頭を抱えた。
「……長老達になんて話をすれば…。」
シークは長老達のお気に入りなので、頭が痛かった。長老達はシークとアミラの間に早く子が生まれることを望んでおり、子が出来ないなら先に結婚させるか、第二夫人や第三夫人を娶らせるとか、勝手な話が飛び交っていた。それを何とか宥めてきたというのに、親の苦労も知らず、とっとと婚約を解消したのだ。勝手に。
みんなでお祝いしようと思っていた親族一同は、肩すかしを食らった気分だった。
ところが、シークが任地…というか、セルゲス公を探しにリタの森に行かなくてはならないらしい、と軍内の噂でシークの弟のイーグ(ギークの次がナーク、その下がイーグ。全員年子。)が聞きつけてきて、家族親族一同、絶句した。確かにリタの森に行くとか言っていたが、慌てていてよく聞いていなかったのだ。後から聞いて死ぬかもしれないという、シークの覚悟も仕方ないような感じがした。




