教訓、三十。目は心の窓。 3
みんながいなくなっても、若様はぼーっとしたままだった。いなくなったことにさえ、気づいていないのかもしれない。
「若様。」
シークは若様を呼んだが、ぼーっとしたままだ。何度か呼んでも見てくれないので、少しシークは焦った。まさか、声が届かないとは思っていなかった。シークは覚悟を決めると、深呼吸した。小さいがはっきりと名前を呼ぶ。
「グイニス。」
今度は反応があった。少し目が動いたのだ。
「グイニス。」
もう一度呼ぶと、若様の目がはっとした。おそるおそる目を合わせてくる。シークは頷くと、なんとか体をよじって手招きした。
「こっちへ来て下さい。」
目がいいの?と言っている。シークは深く頷いた。
「今は誰もいません。さあ、こっちに。」
シークが辛抱強く来るように促し続けると、ようやく若様が立ち上がった。そろそろと近づいてきた。だが、ぎりぎりの所で立ち止まる。叔父に言われたことが頭をよぎるのだろう。
「大丈夫。心配入りません。」
シークが何度か心配入らないと言ったので、さらに近づいてきてくれた。ようやく手を伸ばしたら届く距離に来たので、シークは若様の頭をなでた。さらに痛みを堪えながら、肩に手を当てると引き寄せた。おっかなびっくり引き寄せられたので、優しく頭をなでて耳元で伝える。
「大丈夫だ、グイニス。お前のせいじゃない。何も心配いらない。私は必ず治る。そして、お前を必ず守るという約束も守る。剣術を教えるという約束も守る。何も心配いらない。大丈夫だ。」
大きな声で言えば、密偵に聞かれる恐れがある。外にフォーリがいるからその点は心配はいらないと思うが、用心に越したことはない。
小さな声だった。本当にしばらく経ってから、若様が小さな声で聞き返した。
「…ほんと?」
あまりに痛々しくて、胸が痛んでシークは涙を堪えられなかった。六、七歳…いやもっと幼いかもしれない、それくらいの幼い子がそこにいるようだった。泣きながら頷いた。
「本当だ。ただ、これからは余計にこっそりしないといけない。それでも、必ず約束は守る。なんにも心配はいらない。大丈夫だ。安心しろ。」
若様は今、本当に幼くなっているようだった。目を合わせてしっかり伝えると、ランプの明かりに照らされていた両目が大きく揺らぎ、涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。声が届いたのだ。シークは心底ほっとした。さっきまでの泣き方と違う。
「……う…うわぁぁん。」
本当に幼い子が泣くように声を上げて泣き始めた。シークは痛みを堪えて若様を抱き上げ、室内履きを脱がせて寝台の上に乗せて抱きかかえた。薬が効いていなければできなかった芸当だ。
よしよしと頭や背中を撫でる。若様はシークに抱きついて泣き出した。傷が痛むがそれは我慢した。しばらく、若様が落ち着くまでそのままにして、泣かせた。だんだん落ち着いてきて、シークは若様の顔を手巾とちり紙で拭ってやる。
そして、衝撃を受けた。若様が指しゃぶりを始めたのだ。一、二歳、大きくても三歳くらいの子がするような行動だ。今、彼の心はそこまで幼くなっているのだろう。だが、ダメだとは言わなかった。やりたいようにさせてやる。
「若様、ご飯を食べませんか?」
しばらくして、そっと聞いてみた。ううん、と幼く首をふる。
「水は入りませんか?喉が渇いていませんか?」
「………ううん。」
小さな声だが今度は返事をしてくれた。
「そうですか。もし、喉が渇いたり、お腹が空いたら言って下さい。私は食事をしないとベリー先生にお叱りを受けるので、先に頂きます。」
シークは言うと、若様を前向きに抱き直した。シークは家でするように、食前の感謝の祈りを捧げてから食事を始めた。まずは水を飲む。その後で水差しの水を入れて、ガラスの器を若様の口元に差し出すと、おずおずと口をつけて飲んだ。そして、飲み始めると全部飲み干した。
本当は喉が渇いていたらしい。もしかしたら、心に衝撃を受けすぎて、そんなことも分からなくなっているのかもしれなかった。それか、飲んではダメだと監禁中に言われていて、今でも言い出せないのかもしれない。
「もっと飲みますか?」
聞いてみると少し考えてから首を振った。本当に幼い子の行動だ。それでも、心を閉ざしているより遙かにましだ。
「じゃあ、お粥はどうですか?」
「……。」
シークは先に何口か食べると、若様用のお粥に匙を入れ、すくって息を吹きかけて冷ましてから、若様の口元に運んでやった。すると、子犬や子猫が舌先で舐めて確かめるように、舌先でペロッと舐めた。少し味を確かめてから、恐る恐る匙を口に入れる。かちっと匙が歯に当たって音を立てた。
シークはその様子から、本当はお腹が空いているのだと思い、もう一回食べさせる。間違いなかった。今度はさっきより勢いよく食べた。そして、若様はお粥を完食した。
まだ物足りなさそうなので、自分の分まで食べさせる。時折、シークが食べているか見上げるので、シークも食べてみせた。おかずも分けて食べさせ、暑い時期に実る柑橘の実も食べさせた。最後に水を飲ませて口をゆすがせる。
お腹が満たされて、若様は眠くなってきたらしかった。頭を子犬のようにシークにこすりつけてくる。優しく二、三歳の子にするように、そっと体を揺らし、背中を叩いてさすり、小声で子守歌を歌った。頭をなでると特に眠くなるらしい。あっという間に穏やかな寝顔で眠りに落ちた。




