教訓、二十九。君子は豹変す。 7
ボルピスは貴族達の様子を眺めた。ラスーカは苦虫をかみ殺したような表情を浮かべている。シークが鞭打ちの刑を受けるのが気に入らないようだ。ブラークは一人でニヤニヤ笑いを浮かべているが、ラスーカはシェリアの反応が嫌なのだろう。
シェリアは蒼白な顔でシークを見つめ、胸を左手で押さえ、右手に握った手巾で口元を覆っていた。彼女の双眸からは涙が溢れている。できるなら、立ち上がってシークを止めたいという、そんな気持ちを隠しきれないでいた。
同じように泣いているのがグイニスだ。フォーリの腕につかまって震えながら、シークを見つめて泣いている。それ以上泣いたら、涙で目を痛めないかと心配になるほどだ。
シークは下履き一枚の下着姿になった。靴も靴下も全て脱いで畳んだ。刑吏が彼の両手首に革紐を結び、刑台の真下に吊り下げる。両腕がまっすぐに上に伸び、背伸びしそうになるほどの位置と高さで止めると固定した。
そのシークにベリー医師が近づいた。刑吏と話し、水を一口含ませた後、叫ばないようにするための咥え棒をシークに噛ませる。
刑吏が鞭を空で振った。空気が唸り、ビュウッという恐ろしげな音を立てる。鞭の具合を確かめているのだ。何度か確かめた後、二人の刑吏は全て整ってから、ボルピスに頭を下げた。
「今から刑を執行します。鞭打ち、二十五回、始めます。」
ボルピスは頷いた。
「ふむ。始めよ。」
「始め…!一回!」
刑吏が鞭を振り上げる。ビョォォッと空気が唸り、ピシャァァッという音を立ててシークの背中に振り下ろされた。彼の背中がビクッと震える。
刑罰用の鞭は乗馬用の鞭とは全く違う。一発叩かれただけで赤くなり、同じ所に二発目が当たると皮膚が破れる。三回目は血肉が飛ぶ。そのため、まずは背中側から全体に叩き、叩くところがなくなったら、表側に回る。それでも、叩くところがなくなったら、背中側の既に叩いたところをまた、叩き始める。
太くて長い鞭は威力が強く、十回終わった時点で背面側全体が赤くなって腫れ上がり、血が流れていた。背中、臀部、太腿、ふくらはぎ、全体が赤くなっている。鞭は長いので勢いで前面にも回り込み、体の前部にも傷を作っていた。
顔色の悪いベリー医師が進み出た。
「小休止させて下さい。最後まで耐えられるよう、水と補薬を再び飲ませます。」
ボルピスは許可した。ベリー医師が補助の医師と共にシークに駆け寄り、手早く彼の意識を確かめた。かろうじて意識はあるようだ。がっちり噛んでいた咥え棒を取り、水を少しずつ飲ませる。補薬の丸薬を食べさせ、再び水を飲ませた。
すると、空きっ腹に水と丸薬が入ったせいか、ぐぅぅーとシークの腹が鳴り始めた。
「……く、くくく。」
ボルピスは笑いを堪えようと思ったが、意外な時に腹が鳴り出したので、思わず笑ってしまった。怒っていたはずの王が笑い出し、そして、鞭打ちの刑の途中という、非常に緊張感がある中で王が笑っているため、一同は困惑している。
一番、戸惑っているのが刑吏達だ。だいたい、シークは悲鳴一つ上げない。息を詰めて痛みを堪えるが、全く静かなものだった。途中でやめてくれと叫ぶこともない。
「……。」
シークは刑を受ける前に、ボルピスと話をしていたせいか、鞭打ちの刑を受けている割に悲壮感がない。淡々と仕方ないことだ、というか任務の一環のように刑を受けている。
「……全く、こんな時にも腹が鳴り出すとは。」
ボルピスはひとしきり笑った後、まだ咥え棒を咥えていないシークに尋ねた。
「ヴァドサ・シーク。まだ、耐えられるか?」
「……陛下。どうか、陛下が決められた分だけ、最後まで執行して下さい。たとえ、私が死んだとしても最後まで行って下さい。」
シークは全身を小刻みに震わせながら答える。全身、汗をびっしょりかいて、下着は血で真っ赤に染まっている。血と汗が混じって足首まで流れて落ち、絨毯に染みこんでいた。
「そうか。」
もう一度、刑が再開される。鞭が振り下ろされる音が続く。十八回目でシークが気絶した。刑吏達が顔に水をかけたが、シークが目覚めず、ベリー医師達が駆け寄った。
ボルピスは立ち上がった。
「もうよい。」
「よいとは、どういう意味でしょうか?」
驚いたギルムが尋ねた。
「そのままの意味だ。刑を終えよ。最初に決めていた二十回に後二回のところだ。おおよそ二十回受けたのだし、もう終わってよい。ベリー、ヴァドサ・シークを、そのまま医務室に連れ帰り治療をせよ。目覚めると刑を最後まで受けると言い出す。目覚める前に連れて行け。」
ボルピスの言葉に貴族達が一番、驚いている。
「ベリー、せっかく良くなってきていたのに、仕事を増やしたな。とりあえず、頼んだぞ。」
「はい。」
ベリー医師は頭を下げた。ボルピスは足を進め、グイニスの前で立ち止まる。
「グイニス。お前には先ほど言ったとおりだ。しっかり覚えておけ。分かったな。ヴァドサ・シークには、お前が私に楯ついているとみなせる言動があるなら、すぐに斬るように命じておいた。」
フォーリに抱かれたまま震えているグイニスを見下ろし、冷たく言い放つ。フォーリがなんとも言えない表情で黙り込んでいた。
「お前は私の気持ち一つで生かされている。それを忘れるな。」
可哀想だという気持ちを押し殺し、顔には微塵もそんな表情を見せずに、自分でも冷酷だと思う一言をグイニスに告げ、背中を向けた。グイニスが震えながら、ボルピスの背中を穴が開くほど見つめている視線を感じた。だが、ボルピスはそれを無視して、足を踏み出した。
少しでも感情を表に出せば、そこにつけ込まれる。決して、表に出してはならない。そして、ここにいる貴族の誰一人として、信用してはならない。ボルピスが肝に銘じていることだ。そして、死なせたくない相手であればあるほど、厳しく当たらなければ死なせてしまうことも分かっていた。
ボルピスが出て行くと、ちょうど担架が運ばれてきた所だった。ボルピスが許したので、すぐに中に入っていく。
シークの部下達が、刑が途中で終わったことに戸惑いの視線を交わし合っていたが、副隊長のベイルだけは深々と黙礼した。気がついた数人も同じように黙礼する。それはすぐにシークの部隊全員に伝わり、あのウィットも一緒に黙礼した。
シークは部下達に厳しく、そして、愛情を持って接しているらしい。だから、身代わりになると大勢が言い出したのだ。
ボルピスは静かに廊下を歩いた。誰もいない所に差しかかってから、壁に手をついて大きく息を吐いた。
「陛下、お加減が悪いのですか?」
ナルダンが心配そうに尋ねる。
「大丈夫だ。」
軽く手を上げて伝える。体ではない。今回は少し、精神的に堪えた。シークはどんなにきつくても辛くても、やめると言わない男だ。応接間の絨毯は張り替えないと、彼の血が飛んで染みているので、きっと洗っても落ちないだろう。
国王は確かに国の頂点だ。だが、国中で一番、割に合わない職業だと思う。毎日、不平を言いつつも、作物の生長具合や天候を心配しながら、仲間と酒を酌み交わし、日頃の鬱憤を晴らして暮らしている平民が一番、幸せだろうと思う。
上流階級の人間ががなぜ、酒を飲んで乱れた生活に走るのか。それは、気を使って神経をすり減らしているからだ。国王も同じだ。
シェリアの気持ちが分かる気がした。シークにしてみれば、普通のことであるのかもしれないが、どんな身分に対しても、こんなに公平に平等に接する人は、そういない。ボルピスを怒らせもしたが、同時に認めさせもした。
バムスが死なせたら後悔すると言ったが、ボルピスにしても同じだった。ボルピスが医師団長とナルダン以外には、誰にも言ったことがない秘密を話してしまった時、シークはびっくりしながらも最後まで話を聞いた。彼は年寄りと接することが多かったせいか、聞き上手だ。そのせいか、心地よくて秘密を話してしまったのかもしれない。
グイニスが慕う理由もよく分かる。だが、大勢の身分の高い者が彼を気に入れば、嫌う者も大勢現れる。シークの隊員の中にも、もしかしたら嫌いになった者が現れたかもしれない。単純に隊長が自分達以外に気に入られて、自分達に目を向けてくれないという焼き餅なのだが、案外、そんなのが後でやっかいごとを引き起こしたりするものである。
そういう意味でも、厳しくする必要があったのだ。シークが部下達の分まで刑を受けると言ったので、隊員達を決して見捨てないという、シークの隊長としての株も上がっただろう。
ボルピスは一呼吸すると、国中で一番貧乏くじだと思っている、王の顔に戻って歩き出したのだった。




