教訓、二十六。隠し事は必ず見つかる。 5
2025/10/05 改
その動きにシークが初めて顔を上げた。
「……先生、泣いているんですか?」
思わずベリー医師は苦笑した。
「そんなに驚かなくても。私だって人間です。泣きたくなることくらい、ありますよ。
私にも弟がいました。私は医師になろうとしたきっかけは、しょうもない理由でしたが、私がカートン家の学校に行き始めて二年ほど過ぎた頃ですか。弟が怪我をしたんです。最初はすぐに治ったと思いました。
ところが、しばらくして治ったはずの膝小僧の怪我が、真っ赤になって腫れ上がり、歩くことさえ困難になりました。急いで先生に診せに行ったら、切開して中の膿を出し、薬も処方されて治りました。
でも、先生に言われた薬を、きちんと全部飲まなかったんです。苦いからと言って飲まなかった。私も味見したらとんでもなく苦くて、弟に飲ませるのも苦労して大変だったので、飲ませるのをあきらめました。
そうしたら容態が急変して、膝の切開した所がまた腫れ上がり、高熱が出て結局、亡くなってしまいました。
先生にはひどく叱られました。『なんで飲ませなかった! そんなんでは、医師の端くれにもなれんし、ならせられん!』
今でも弟のことは、心の中に棘のように刺さっています。私の最初の患者は弟で、死なせてしまいましたから。
でも、弟のおかげで今の私があります。それがなくては、ここまでこれなかったでしょう。医師として踏ん張れなかった。カートン家の中でもランゲル先生を呼び捨てにして、幅をきかせられるのは弟のおかげです。」
最後はやっぱりベリー医師らしい。
「あなたの最初の質問ですが、あなたは確実に良くなっています。だって、最初は便所にさえ行けなかったんですよ。しかも、剣を十三回も振った。」
「…たった十三回しか振れなかったんですか……。」
「何を言っているんですか…! いいですか、何度も言いますが、あなたは生きているだけで奇跡の状態です。あんな猛毒を盛られたのに。よく生きてましたよ。まったく。とっくにあなたの葬式が終わっていて、おかしくないんです…! 無理しなければ治りますよ。」
厳しく叱られてもベリー医師らしい叱られ方で、シークはようやく軽く笑った。
「大丈夫です。私が力の限り、全力で動けるようにします。そうでないと、困りますからね。若様の護衛を続けて貰わないと。」
ベリー医師の言葉にシークは、考えるようにして黙り込んだ。
「……先生。考えていたのですが、私には任務を続けることは無理ではないでしょうか。ベイルに隊を譲り私は除隊するのが、今できる最善の方法ではないかと思います。いつ、また先日のようなことが起きるか分からないのに、私のせいで先生の手を患わせるわけには、いきません。
先生は本来は若様のために同行されています。それなのに、私につきっきりというのは、よくありません。ですから、私は任務を辞するつもりです。」
親衛隊の隊長ならば、考えているべきことだった。考えているのが普通で、それが当然なのだが、そこで話が聞こえていた人達には受け入れがたいことだった。
「…もうしばらく、待ってみませんか?」
「待って…治る保証はありますか? 先生は何度も私に言われました。死んでおかしくない猛毒を盛られたのだと。カートン家でも珍しい状況で、初めての状態だったと。
つまり、私が治って復帰できるという保証はない。私は覚悟しています。若様にお話をして、陛下にもそのように申し出ようと思っています。」
ベリー医師が答えあぐねている時だった。
たたた、と足音がしたかと思うと若様が走り寄ってきて、顔を上げたシークの胸に抱きついた。抱きつかれたシークは、しゃがんでいただけだったので、勢い余って尻餅をつき、背中を木に思いっきりぶつけて、一瞬息が詰まる。
「嫌だよ…! ごめんなさい、話が聞こえちゃったの! 散歩してたら、聞こえちゃったし、見えちゃった!」
若様は一呼吸置くと、さらに叫んだ。
「やめるなんて、嫌だ! 守ってくれるって、約束したのに…!」
若様の言葉にシークは、はっとして答えるべき言葉を失った。
「…それに、私は傷ついてなんてないよ…! いつも、いつも励ましてくれた! 強くなれって言われた時も、嬉しかった…! だから…側からいなくならないで…!」
「……。」
何も答えられないでいるシークは、若様の背中や頭を子守する癖で撫でてしまう。
「お願い、何か言って…!」
まさか、聞かれていたとは思わず、言葉を失っているシークに若様はさらに続ける。
「許すから…! 敬語じゃなくていいから、何か言って…! 話して!」
「……若様。」
なんとか声を出したシークに、若様は泣き顔を上げた。
「名前で言って…!」
さっき、ベリー医師が個人的に話したように、若様もそうしようとしているのだ、と気づいたシークは胸が詰まる。そこまで、慕ってくれて嬉しい反面、困ってしまう。もう、護衛できる体力がないと思われるのに。回復するかどうか、怪しいものだと思うのに。
「…何か言ってよ…。さっき、ベリー先生には話したのに…。敬語じゃなくて話して欲しいのに……。」
泣きじゃくる若様が不憫になり、シークは覚悟を決めて口を開いた。
「……分かりました。一度だけ言います。」
ようやくシークが答えると、若様は頷いた。
「…グイニス、お前は良い子だ。とても優しい、良い子だ。だから、強くなって、どんなことがあっても、挫けず生き延びろ。」
どう聞いても、別れの挨拶にしか聞こえないだろうが、そう言うしかない。シークはすでに決めていた。
「…守るという約束を守れなくて、すまない。」
若様の視線から目をそらさず、はっきり告げた。若様の両目から涙がこぼれる。
その時、突然の訪問者に、その場にいた全員が凍り付いた。気がついたら、建物の影から出てきて、向こう側にずらっと立って並んでいる、藍色の親衛隊の制服。親衛隊が護衛するのは、当然王族である。その人物に誰もが言葉を失う。
「お前達は一体、そこで何をしている?」
ここにいるはずのない人物。
ちょうど、バムスが借りている建物の近くであったので、バムスの部屋に来ていたシェリアも、二人ともこの一連の状況を上から見ていた。何を言っているか細部までは聞き取れなかったが、サグがシークの側にいたので、後で報告される。音は下から上に響くので、ある程度は聞こえていた。だが、その人物の姿はちょうど木の陰で見えなかった。
そのサグは今、慌てて主のバムスの元に裏を回って死角から戻ってきた。
「大変です、旦那様。」
下は今、緊張に満ちた空気が流れている。
「陛下がいらっしゃいました。」
バムスもシェリアも絶句した。一気に血の気が引いていく。今、最も見られてはならない人物に、その場面を見られたのだ。
「…なんと言った?」
思わずバムスは聞き返した。
「陛下が、いらっしゃいました。」
と、サグは律儀に繰り返した。




