教訓、二十四。疾風に勁草を知る。 7
2025/09/17 改
その時、人影が差した。
「本当はもっと違う計画だったが、お前には想像以上に手を焼かされた。念のためだ。」
頭の上からそんな言葉が降ってきた。なんとか全身に力を入れた。何者か分からないが、敵に違いない。
(…剣は抜けない。力がない。)
頭がぼーっとしていたが、なんとか黒づくめの男の姿を捉えた。
「薬の量が多すぎたようだな。放っておいても死ぬだろうが、とどめを刺すに限る。」
男は言って短刀を抜いてかかってきた。
「!」
俊敏に躱すことが出来ないので、全身の力を振り絞って男の腕を捕らえ、幼い時からの訓練で本能的に男の体を引き倒し、絞め技で相手の首を絞める。
「ぐっ。」
男が呻いた。だが、万全でない体なので長続きしない。腕を抜かれて短刀を取り返され、腕を切られる。思わず痛みで手を緩めた所で、形勢が逆転した。短刀を振り上げた所で、男は振り返った。
「…何だ、女か。広間の方は騒ぎが起こっていると思ったが。」
「ええ。何者かが乱入してきましたわ。」
答えたのはシェリアの声だ。
「あなたは何者なんですの?」
「供もつけずに一人で探しに来るとは。本当にこの男に懸想しているとみえる。」
「あなたは何者? もしかして、黒帽子という謎の組織なの?」
「…ほう。その名前を知っているとは。さすがに大貴族だな。だが、お前にこの場面を見られたのはよくない。目撃者は始末しておかなくては。」
シェリアを殺すつもりらしい。何とかして彼女を助けなければ。
「先に女を殺すとするか…。それとも、お前にとどめを刺すか。」
男は言って笑った。顔は覆面でよく見えない。
「やめて! その人を殺さないで…!」
シェリアが叫んだ。
「お前は好きな男が、目の前で死ぬのを見ているがいい。その後で同じ場所に行かせてやる。」
「そんなことはさせない!」
シェリアが駆け寄ってきて、男の肩に手をかけようとしたとたん、男は後ろを向いたままなのに、気配で感じ取っているのか正確に腕を払って、シェリアを後ろに投げ飛ばした。あっ、というシェリアの短い悲鳴と、ドンと床に叩きつけられた音がした。
だが、その動きでシークを拘束する男の力が緩んだ。
渾身の力を込めて男の腕を掴んで投げると、寝技をかけようとした。だが、男は抜け出してくる。床の上を二人は転がった。だが、圧倒的にシークの方が不利だった。毒の影響が残っている上に、さらに何か毒を食べている。そのせいで、体が動かない。この間の毒よりは体が動くが、すぐに息が上がってしまう。
男に首を絞められる。体に力が入らない。その時、男がふいに首を絞めている左手を上げて自分を庇った。その隙に男の右手を掴み、男の小指を折った。
「グアッ。」
男が短く叫んで手を離したので、ようやく息が出来る。大きく息を吸い込んだ。
「誰だ…!」
男は痛みを堪えながら振り返った。誰かが陶製の壺を投げたので、それで自分を庇ったのだ。思いがけない人物に、男は一瞬言葉を失い、次の瞬間、笑い出した。
「ははは。己を守る親衛隊長を守るために、自ら出てきたのか、愚かな王子だ。」
床に転がったまま男の影で誰が来たのか、全く分からなかったシークは、ぼんやりする頭の中で、男の高笑いを聞いて目を見開いた。なぜ、フォーリが側にいないのだろう。いや、フォーリも部下達も側にいられない状況が起きているのだ。そもそもシェリアの護衛のリブスもいない。非常事態だ。
「…ヴァ…ヴァドサ隊長から離れろ…!」
「いけません、殿下!」
若様の声とシェリアの悲鳴のような制止が響いた。これは非常にまずい状況だ。若様は絶対に守らなくてはならない。
「これは状況が変わった。まずはお前からだ、王子。」
男が立ち上がる。歩き出そうとする男の足にシークはしがみついた。今の自分には力がない。だから、せめてフォーリか誰かが来るまで、時間稼ぎをするしかない。男は脚絆を巻いている。サリカタ王国では脚絆を巻くのは、山岳に住む森の子族か武人だった。
しかし、武人だと分かった所で、サリカタ王国には武人がごまんといるので、大した情報にもならなかい。
シークは必死になって男の足にしがみついた。もう、柔術技で引き倒す力もない。男はシークを振り払うためにもう片方の足で蹴り、髪を掴んで殴ってきた。意識が遠のいて体の力も抜けていく。
『…シークや、何をしているのです。』
「お祖母さま。」
気がついたら亡くなった祖母が側に立っていた。
『早く立ちなさい。』
「お祖母さま、私には力がないのです。敵は強く引き倒す力もありません。」
『もし、お前が手を離したらどうなるのです?』
「…一人の少年と女性が殺されてしまいます。」
『ならば、お前が立たなくてどうするのですか。大丈夫。お前なら立てます。さあ、お立ち。』
厳しいが優しかった祖母に促され、伸ばされた手につかまると、不思議なことに立ち上がる事が出来た。
そう、現実にシークは立っていた。男がシークが立った気配に驚愕して振り返った。守ろうと我が子のように若様を抱きかかえていたシェリアも、抱きかかえられた若様も、同時に息を呑んだ。
剣の柄に手がかかる。男が逃げようとしたが一歩遅かった。シークの方が早く剣を鞘走らせ、袈裟懸けに男を斬った。だが、万全の体調ではなかったため、男に致命傷を与えることができなかった。それでも、男をこの場から下がらせるのには十分だった。革の胴衣ごと斬ったかすり傷でも、男は逃げることにしたらしい。
瞬間的に驚いていたが、走って逃げ出した。後を追うにも力がない。右手から剣が滑り落ちる。足下から力が抜けるように床に倒れた。
「ヴァドサ隊長!」
「ヴァドサ殿!」
若様とシェリアの声が聞こえた。二人がシークを仰向けにして、シェリアがシークの頭を膝に抱きかかえたが、シークは彼女に膝枕されたと分からないほど、ぼーっとしていた。
「しっかりして!」
ぼんやりする向こうに、泣いている若様とシェリアの顔が見えた。
「……ご、ぶじですか?」
なんとか聞くと、二人は大きく頷いた。
「二人とも無事だよ、怪我してない…!」
若様が叫んだ。
「しっかりして…! 目を覚まして! 死んじゃ嫌だよ!」
「そうです、しっかりして下さい! 今、きっと助けが来ますから! 誰か、早く…!」
若様とシェリアが必死になって叫んでいる。よほど危ないようだとシークはのんきに思っていた。
気が付くと二人の後ろに祖母が立っていた。
『よくやりました、シーク。さすが、ヴァドサ家の子です。これからも、力を尽くすのですよ。』
にっこりして、去って行こうとする。
「お祖母さま…!」
思わず叫ぶと、泣きながらびっくりしている若様とシェリアの後ろの、祖母の姿は消えていた。
「ダメだよ、お祖母さんのところに行っちゃ嫌だ! 行かないで!」
若様が立ち上がり、少し後ろに下がって大声で助けを呼んだ。
「こっちだよ! フォーリ、ベリー先生、誰か、みんな、早くこっちだよ…! ヴァドサ隊長が、死んじゃうよ!」
やはり死にそうなのだ。そう思いながら、あんまり実感しなかった。若様があんなに大きな声を出している。最初は全然話すことができなかったのに、大きな進歩だ。
「ヴァドサ殿…シーク殿、目を覚まして…。こっちを見て…!」
シェリアが顔をぐしゃぐしゃにして、泣いている。
「…ノンプディどの…どうか…私のためになかないで下さい。せっかくの…。」
最後まで言えなかった。何が起きているのか理解していなかった。シェリアに口づけされていると、理解した直後に意識を失った。




