教訓、二十二。時には詭弁も大事。 2
2025/07/28 改
バムスとシェリアはこの日、久しぶりに二人で茶を飲みながら歓談していた。二人ともシェリアの屋敷にいながら、なんやかんや執務などで忙しく、なかなか会えなかった。バムスもシェリアの屋敷で必要な領地の仕事を行っている。息子に任せている部分もあるが、肝心のことはバムスがしなくてはならないし、目を光らせておかなければならない。
なんせ、八大貴族であるので、よからぬ者達からどんなことを吹き込まれて、どういうことをしでかすか分からないからだ。そういう訳で、バムスは自分の密偵が数多く必要だった。
シェリアの場合も同様だった。少しずつ息子に任せ始めているが、まだまだである。
「しかし、変な話ですが、シェリア殿の屋敷にいるというのに、こうしてお会いしてお話しするのが、何日かぶりですね。」
「ええ、そうですわね。試合以来ですわ。」
シェリアは鷹揚に微笑み、ゆったりと茶器を手に取った。バムスはそんな彼女を観察してみたが、表情は明るくなかった。憂いを含んでおり、それがかえって彼女の妖艶な美しさを引き立たせているようだった。
彼女をそんな表情にさせているのが、誰か分かっている。シークだが彼の言動を見る限り、シェリアは彼を自分の寝室の隣に寝せることにしても、何もしていないのだろうとうかがえた。
ニピ族達に張り合えるほど強いのに、それをみじんも感じさせない。その上、シークに対する疑いの検証をするため酒と薬を飲ませた時、シェリアを力で制しても良かったのに、全くそんなことはしなかった。いつも、彼はシェリアから逃げようとしているので、おかしくなってしまう。
しかし、シェリアが八大貴族として権勢を誇っている以上、恋によって政治判断の目が曇っても困る。もし、彼女がまともな政治判断を下せなくなったら、バムスはシークに犠牲になって貰おうと考えていた。彼の意志はどうであれ、シェリアの物になって貰う。
ただ、それまでは見守っているしかないと思う。個人的には、シークはグイニス王子の護衛に適任だと思っているので、できるだけそうなって貰いたくないが。なんとか、シェリアの物にしながら、セルゲス公の護衛という任務ができる状態にもっていくしかないだろう。
「…シェリア殿、大丈夫ですか? 辛そうです。」
「…バムスさまはご存じでしょう? 困ったものだとお思いですか?」
「いいえ。私にも分かります。シェリア殿がもし、耐えられなくなったら、私が呼ばれても良いと思っていました。」
シェリアは悩ましいため息をついた。こんな彼女の姿を見たら老若を問わず、多くの男達は彼女の虜になるだろう。そして、一体誰が彼女を悩ませている幸せな男なのかと、相手を探し始めるはずだ。
もし、セルゲス公の護衛の親衛隊の隊長だと知られたら、大騒ぎになる。なるが、彼女はあえてそれを見せつけている。密偵達を通して、その事実が都のサプリュで噂になりつつあった。そうすれば、シークに対する不穏な噂を消し飛ばせるだけの力を持った噂になるからだ。
八大貴族のシェリア・ノンプディが、セルゲス公の護衛の親衛隊隊長である、ヴァドサ・シークに言い寄っているが振られたらしく、権力をちらつかせて強行に言い寄っている、という噂が広まりつつある。
「わたくし、戦友とはそんな関係になりたくありませんの。」
「ええ。私もです。ですから、もし、という仮の場合の話でした。」
シェリアはまた、ため息をついた。茶を飲んでいる姿も憂愁が漂った美になっている。
「…シェリア殿はどうなさりたいのですか?」
バムスの問いにシェリアは、じっとバムスを見返して、涙をたたえた目をしばたたかせた。バムスは内心びっくりした。このシェリア・ノンプディという女性が泣いているのだから。彼女は陰では知らないが、表向き泣かない冷酷な女としても有名だ。
彼女と懇意になっても、裏切った者達には冷酷な処遇を施してきた。涙一つ流さず『殺しておしまい。』と言える女性だ。少なくとも、表にはおくびにも出さず、そんな事のできる人である。動揺を表には出さない女性だ。陰では泣いていたとしても、それができる人である。
時々、バムスでさえ空恐ろしくなるくらいだ。だから、絶対に彼女を敵に回したくない。
ところが、最近の彼女はどうも様子が違っている。動揺が見えるし、思い人をじっと熱い視線で追って見つめている。
この間の試合の時も、グイニスに扇言葉を使って、シークがニピ族達五人と一度に試合するように仕向けていた。だが、その後はひっそりとなりを潜め、うっとりしながらシークの姿を目で追い続けていた。
どうして、うっとりしているのかグイニスに聞かれて『目の保養ですわ。』などと言って、ベリー医師に睨まれたりしていた。後で、フォーリにグイニスが『目の保養って何?』と聞いていて、フォーリが困っていたようだった。
まさか、シェリアがどうしたいのか聞かれて、涙ぐむ姿を見せるとは、バムスも意外だった。
「…困りましたわ。どうしましょう。久しぶりに本気で恋をしているのです。でも、恋を選べば彼を困らせる。恋を愛に昇華させたいのです。今のわたくしは…恋と愛が同居しています。」
「シェリア殿…。それでは…。」
バムスが最後まで言う前にシェリアは、また口を開いた。
「…わたくしは、あの人のためなら、なんでもできます。全てを与えたいのです。そんな…そんな思いになったのは、十五年もなかった。マイス以来なのです。それと同時に、あの人を誰の元にも行かせたくない。わたくしだけの物にしておきたいのです。
…でも、そんなことをすれば、彼は任務を遂行することができなくなります。それに、彼の誇りも甚だしく傷つけてしまう。彼の人生を否定することになってしまう。
殿下にも申し訳ないことをしてしまう。殿下に対する、わたくし自身の約束を破ることになってしまう。それだけは避けたくて、必死で理性を保っています。
それに…何よりも、あの人に嫌われたくない。あの人に拒絶されたくないのです。最初の時のように、全身で拒絶されたくないのです。そうなったら…わたくしは…自信がない。自分を保つ自身がないの…。」
涙が小さな粒となって、シェリアの肌の上を転がり落ちていく。その後は川のように小さな筋をつけている。
バムスはシェリアを見つめた。自分が思っていたよりも、深刻だった。もう、シークに彼女の物になって貰うしかない段階が見えてきてしまっている。
「……私が…悪役になりましょうか?」
しばらく考えた末に、バムスは一言聞いてみた。シェリアはじっとバムスを見つめた。詳しく説明しなくても、シェリアは理解している。
「…いいえ。まだ、耐える。まだ、耐えますわ。あの人のためですもの。バムスさまが悪役になって下さるとしても、あの人が一番、傷つくのですから。国王軍で積み上げてきた実績も、名誉も何もかも、全てを失うことになってしまう。何より、大切にしてきた部下達を失う。あの人にとって、一番、苦しいことです。」
恋とは…いや、彼女は愛してもいる。愛とは何と偉大なものだろう。こんなにもシークのことを短い時間で深く理解し、さらに何よりも一番に彼のことを考えさせるのだから。
「……ですが、シェリア殿。」
「分かっていますわ、バムスさま。不穏な動きがありそうです。時間がなさそうですわ。殿下にはできるだけのことをお伝えしなくては。…あの子は、とても聡明です。弱いところが強くなれば、将来が見えてきます。」
シェリアはとりあえず、事態の把握はしているのでバムスはほっとした。
「ええ。殿下は教え甲斐がある方です。弱いところを強める訓練も、ヴァドサ殿に何か考えがあるようです。実のところ、殿下がヴァドサ殿に剣術を習いたいと仰るとは思いませんでした。ですから、とても驚きました。」
「ええ。わたくしも驚きました。それと同時に、とても嬉しく思ったのです。ただ…。そのことによって問題も生じます。」
「そうです。遅かれ早かれ、殿下に軍事訓練を施しているのではないか、と陛下の耳にも入るでしょう。妃殿下が知られるのも時間の問題ですし、ややこしいことになるかもしれません。一応、鬼ごっこということになっていますが。」
「ほほほ、あの人らしいですわ。鬼ごっこと言い張って通ると思っている所が。」
シェリアの表情が少しだけ明るくなる。結局、シークのことで悩み憂えているが、明るくなれるのも彼のことでしかないのだ。“恋”とはなんとやっかいなものだろう。それと同時に、そこに足を踏み出したシェリアは、それほど人の優しさに飢えていたのだ。彼が見せた、彼にとっては当たり前の少しの優しさが、彼女を強力に引き寄せてしまった。
それに比べたら、バムスは冷たいのかもしれない。多くの女性と浮名を流しているが、今までただの一度も本気で恋をしたことがない。自分で気が付いたら、その時点で止めるからだ。それができるから、レルスリ家の当主に選ばれたと理解している。
男女問わず、恋は危険だ。何かを成し遂げたいなら、大きなことであればあるほど、情に流されたらいけない。戦友が落ちる前にどうしても、引き止めなくてはならなかった。
「…様子を見に行きますか? その、鬼ごっこはどんなものか。」
バムスの提案にシェリアは嬉しそうに、特上の笑顔を見せた。
「ええ。もちろん。参りますわ。」
太陽でさえも陰りそうな笑顔だった。




