教訓、二十。油断大敵。 10
2025/06/11 改
「ヴァドサ殿…!」
そこにシェリアの声が響いた。侍女と侍従とリブスを連れて、部下達がよけた所をシークの元に血相を変えてやってきた。
「ご無事で何よりですわ。本当に心配したのです。寝込みを襲われたと聞きました。」
「申し訳ありません。昨日、ご注意を頂いたばかりだったのに、このような事態になってしまい…!」
「!」
その場にいた面々が絶句した。逃げられなかった。両手に荷物を持っている上に、壁の前だった。シェリアはシークの話の途中で、いきなり抱きついてきたのだ。しばらく、思考が停止する。
「……の、ノンプディ殿! ど…どうか、離れて下さい。」
「…いいえ。どうか、そんなことを仰らないで…!昨日、お慕いしている殿方が命を失いそうになったのです。それなのに、離れろなどという、つれないことを仰らないで下さいまし…。」
シェリアに涙ながらに訴えられ、こういう事には奥手なシークは、どう対応したらいいのか分からない。
(……どうしたら、どうしたら、どうしたらいいんだ?)
シークは混乱していたが、とにかく自分を落ち着かせようと試みた。慌てたら余計に良くない。剣術で
も同じだ。とりあえず、呼吸を整えた。
「…ご、ご心配をおかけ致しました。」
言いながらシークは逃げるために後ろにさがろうとしたが、壁で後ろに下がれない。…なんだか、以前も同じような状況だった気がして、シークは気が重くなった。その上、部下達からの視線が突き刺さっている。まさか、人前でそんなことをされるとは、思っていなかった。
「……あのう、そろそろ離れて頂けませんか?謝罪もしなくてはなりませんし。」
「謝罪?」
謝罪、という言葉に反応して、ようやくシェリアが離れてくれた。急いで距離を取る。この時、その場
にいた隊員達は、初めて自分達の隊長が逃げる所を目撃した。
「何の謝罪ですの?」
シェリアは険しい顔をしている。
「…もしかしたら、ご覧になっていらっしゃらないかもしれませんが、私がお借りしていた部屋を血で汚してしまいました。意識がはっきりあれば、あんなに汚さなくて済んだかと思いますが、半分朦朧としていたので何も考えずに剣を振るい、あのような状態にしてしまいました。
本当に申し訳ありません。部屋の弁償もできませんし、どのようにお詫び申し上げたら良いのか…。」
横で聞いていたロモルは、シークの口を押さえにかかりたかった。わざわざ、なんで最後に余計な一文を加えるのか。シェリアにそんなことを言ったら、自分の貞操が危なくなるとなんで分からないのか。さっき、抱きつかれて逃げていたくせに、鈍感すぎるのだ。この辺が、モナがはっきり隊長は馬鹿だという所だ。
ロモルが頭を抱えている側で、真面目なロモルの隊長はシェリアに頭を下げる。
その時、ロモルが懸念した事態が生じた。下着が一枚、ひらりと落ちた。シェリアの目の前に落ち、さすがのシークも自分がドジをしたことに気が付いた。慌てて拾おうとするが、一足シェリアが早かった上に他の制服もろもろを落とすはめになった。
ロモルや他の隊員が手伝おうとした瞬間、静かに立っていたリブスが半歩動いた。リブスを思わずロモルが見上げると、苦々しげに邪魔をしている。その間に、シェリアが嬉しそうに手伝って制服を拾い上げていた。
「あ…ああ、申し訳ありません。」
シークは慌てて礼を言ったが、なぜか最初に拾った下着を腕に上品にかけたまま、返してくれない。非常に申し出にくいが、言うしかない。
「…あの、それも返して頂けませんか?」
「まあ、それって何ですの?」
澄ましてシェリアはとぼける。シークは穴があったら入りたいほど、恥ずかしかったが仕方なく口にした。
「その…下着です。返して頂けませんか。」
シェリアは紅を塗った口角を上げて笑みを浮かべる。
(ほら、見ろ! さっき、あんなことを言うから…! 隊長の馬鹿!)
ロモルは心の中で怒鳴っていた。いつもは尊敬している隊長だが、こういう事に関してはてんでダメだった。自分から進んで、駆け引きの材料を提供しているようなものだ。
「…まあ、どう致しましょう?」
そう言いながら指先で下着をなでる。現場を見ている隊員達は、非常に青ざめていた。お互いに目線でどうする?と言い合う。このままでは、取って食われるのは時間の問題だ。
「先ほど、部屋の弁償はできないし、どう詫びたらいいのか分からないって、言われましたわ。」
シェリアの言葉に今さらながら、シークは自分が失言したことに気がついた。シェリアに抱きつかれた動揺が去っておらず、必要事項以上、話しすぎたのだ。
「本当にひどい状態でしたわ。ですから、ヴァドサ殿がご無事かどうか、とても心配になりましたの。」
シェリアの発言にシークは驚いた。思わず彼女の顔を凝視した。
「…申し訳ありませんが…あの状況の部屋をご覧になったのですか?」
シークの驚きにシェリアが若干、戸惑う。
「ええ。わたくしの屋敷内で起こった事ですわ。ちゃんと自分の目で確かめなくては、どうするかも判断できませんから。」
シークは男でも具合悪くなるような惨事の部屋を、領主であるとはいえ、貴族の奥方が見たことに驚いていた。
「…どうなさいましたの?」
「…いえ、ノンプディ殿があの状況をご覧になっていたことに驚きました。あんな場面は、国王軍の軍人でも戦場にでも行かない限り、めったに目にするものではありません。それをご覧になって、後でご気分が悪くなったりされなかったかと思いましたので。」
シェリアは虚を突かれたように目を見開き、潤んでいるように見える目でシークを見つめた。それを見て、ロモルは頭を抱えた。
(あの場面で、『夫さえ毒殺するようなお方ですから、あれくらいなんともないでしょうな。』くらいの嫌味を言えば彼女に嫌われるのに…!なんで、気遣ってしまう…!?)
ふう、とシェリアが悩ましいため息をついた。と思った途端、また抱きついてきた。シークは逃げようとしたが、今度はリブスに直接肩をつかまれて逃げ場を失い、シェリアに抱きつかれた。
「…フォーリ、あれは何をしているの?」
そこに、おっとりした声の質問がされた。ほぼ全員、びっくりして振り返ると、若様がフォーリと一緒にやってきていた。
「若様、ご覧になってはいけません。」
フォーリは慌てて若様に目隠しをしようとした。
(もう、遅い…!)
その場にいたほとんどの人は、そう思う。そして、シークはそこにいた誰よりも焦っていた。若様にこんな場面を見られるわけにはいかない。非常に不適切だ。
「…あ…あの、ノンプディ殿…。」
「嫌ですわ。」
シークが最後まで言う前にシェリアが遮った。
「どうせ、離れろと仰るのでしょう? でも、これも殿下のご教育に役立つのですわ。」
(? こ、これの何が?)
まったくもって分からない。
「…私に関係あるってどういうこと、フォーリ?」
「……。」
若様がフォーリに小声で質問し、さすがのフォーリも答えに詰まっている。そんな声が聞こえてシェリアは、にっこりと妖艶に微笑んだ。
「ヴァドサ殿。もし、わたくしに離れて欲しければ、シェリアと呼んで下さいまし。シェリア殿でもいいですわ。そうしたら、これもお返ししてもいいかもしれませんわね。」
と言って、下着のかかった腕を上げて見せる。




