教訓、二。魔が差すと即ち、死を見る。 6
「若様、挨拶を。」
フォーリが後ろに隠れているセルゲス公に声をかける。
「……うん…。」
声変わり中の少年の声がした。まだ、幼い雰囲気がして、さっきの少年よりかなり幼さを感じる。
フォーリのマントがもぞ、と動いた。マントをぎゅっと握る手が出てきた。その行動はとても十四歳とは思えないほど幼い。ベリー医師が言った通り、十歳で時が止まっているのかもしれなかった。いや、もしかしたら時が逆行しているのかもしれない。幼い子供が母の気を引こうとして、指しゃぶりを再開したりすることがある。
小動物が恐る恐る出て来るように、少年も恐る恐る出てきた。顔をちょこん、と出してきてシークはその可愛らしさに、思わずみとれてしまった。
(…女の子か?いやいや、違うだろう!)
シークは自分で自分に言い聞かせた。前の護衛達がとち狂った理由がはっきり分かる。アーモンド型のぱっちりした黒い目に、朱色がかった赤い夕陽色の長いまつげが縁取っている。すっとした鼻筋にぷくっとしたサクランボ色の唇。緊張で頬を少し朱に染めている。そして、何よりまつげと同じ色の美しい髪。
今までにこんなに整った顔立ちの子を見たことがない。天から舞い降りたと言われたら信じそうなほどだ。ベリー医師が言ったとおり、絶世の美女であった母の故リセーナ王妃の肖像画にそっくりだった。
(これは、まずい…!あいつら、過ちを犯すかもしれない!)
シークは思わず自分の左手のピンを握った。緊張すれば知らず、手を握ってしまうものだ。それを利用してのピンだが、さっそく痛みが手の平に走る。
ベリー医師が咳払いする直前に、片膝を突いて敬意を表した。
「初めてお目にかかります、セルゲス公。このたび、護衛の任を陛下より賜りました、国王軍親衛隊配属のヴァドサ・シークと申します。本日は隊長の私が先にご挨拶に参りました。」
シークが挨拶をすると、ごそごそと動く気配がした。フォーリの前に出てきたらしい。
「…ねえ、なんて言えばいいの?」
小声でフォーリに尋ねている。
「楽にせよ、と命じればいいのです。」
小声でフォーリが教える。この護衛はただの護衛じゃないな、とそれだけでシークは感じ取った。王族が身につけるべき礼儀も全て、頭に叩き込まれているのだろう。護衛にそっと促されて、王子が懸命に話そうと呼吸を整える微かな息づかいが聞こえた。
「………え、えーと。ら、ら…ら…あ。ら、楽にしてい、い…いいよ。」
シークは一生懸命な様子に微笑ましく思ったが、ここは笑ったりしてはいけないと必死に真面目な顔を作った。おそらく、微笑ましくて笑ったとしても、馬鹿にされたと受け取るだろうからだ。
「お許し頂きありがたく存じます。」
シークが顔を上げると、愛らしくて可愛らしい少年が、顔をほんのり紅潮させてこちらを見ていた。両目が潤んでいるように見え、まともに目を合わせると頭がくらくらしそうだ。何か…妙に妖艶だ。シークには男色傾向もないし、軍でもしたこともされたこともない。大人の女性が好みだが、この場合は好みも性別も凌駕している。
前回の護衛が十何人も過ちを犯したのは、セルゲス公本人がしているつもりはない誘惑に負けたからだろう。彼の言動一つ一つ全てが、まるで誘っているかのように思われる。
今もただフォーリにつかまって、体をこちらに向けているだけなのに、色っぽかった。色っぽい服装も何もないのに関わらずだ。
シークは内心青ざめた。
(どうしよう…。あいつらが過ちを犯さない自信が全くない。)
「明日、他の隊員達を連れてご挨拶にお伺いしようと思います。その後は、セルゲス公殿下が療養されます、お屋敷まで移動するための準備等を致します。ご入り用の物などございましたらお申し付け下さい。」
それでも、言うべきことはきちんと伝える。なぜか、セルゲス公の表情が曇った。
「…………い…言っちゃ、ダメ…。」
小さな声が聞こえた。
「…だって……叔母上が……。」
シークはしまったと気が付いた。
「申し訳ありません、…若様。慣れないものでつい間違えてしまいました。ご心配をおかけして申し訳なく思います。」
フォーリやベリー医師が指摘する前にシークが謝罪したので、鉄壁の無表情だったフォーリの表情が少し動いた。気が付いたか…という表情だ。“殿下”と呼ばせるなと王妃が言ったそうで、そのため、若様と呼ばなくてはならないということだった。王も王太子も、グイニス王子にセルゲス公の位を与えるため、仕方なく折れたらしい。
「慣れないうちは何かしら、ご心配をおかけしたり、何かご不便をおかけするかもしれません。」
「………う…うん、いいよ……だって……仕方ないもん。」
小さな声だが一応会話になっている。最初は会話もできないかと心配になったので、意外に会話できた分、シークはかなりほっとしていた。
「お許し頂き感謝致します。できるだけ、ご不便をおかけしないよう、尽力致します。」
「………うん。……ねえ、立たないの?」
ずっとひざまずいたままだったので、そのことが気になったらしい。ベリー医師の話を聞いて繊細な子だと感じていたが、実際にそのようだ。
「立ってもよろしいのですか?」
シークの問いにセルゲス公…若様は恥ずかしそうに小さく頷いた。
「……うん。」
「感謝致します。それでは失礼致します。」
シークは立ち上がった。だんだん沈黙している時間が短くなっている。
「…あの…そんなに丁寧に…話さなくていいよ。だって…叔母上が……。」
最後まで言わなかったが、きっと叔母が何か言うのではないかと心配しているのだろう。今まで王妃に対して腹を立てたことがなかったが、今は明確に腹を立てていた。十歳から一年半ずっと酷い目に遭わされていたのだ。傷は二年経っても癒えていない。あまりに無情だ。
しかも、国王軍は王妃の命令ではなく、王の命令で動くものである。そこまで王妃に対して遠慮する必要はない。こちらはじきじきに、王と王太子に面会して命令を受けてきたのだ。
「…若様。私を始め部下達は、親衛隊であり国王軍です。国王軍は国王陛下より、じきじきにご命令を賜り、任に付くものです。私はこちらに参ります前に、陛下と王太子殿下に拝謁し、直接ご命令を賜りました。私共は妃殿下ではなく陛下にご命令を賜る者です。
もし、若様にどんな形であれ、仇なす者があれば、それがたとえ八大貴族の領主だろうとも、構わずためらわずに斬れというご命令を承っております。」
若様よりもフォーリとベリー医師の方が驚いている。二人がはっと息を呑んだ気配がした。
「……叔父上が…そう仰ったの?」
「はい。王太子殿下も驚かれていました。事前にそのようなお話がなかったのでしょう。その時に陛下がご決断なさったご様子でした。」
若様の双眸が揺らいだ。
「…あ、あにうえは…お元気だった?」
あにうえ、とは誰かシークは戸惑った。若様に兄はいない。
「タルナス殿下…王太子殿下のことだ。」
フォーリの言葉にシークは理解した。
「お元気そうでした。ただ、若様のことを心配なさっておられました。」
若様の両目から涙がぽろぽろとこぼれる。これは…どうしたらいいのだろう。しかも泣き顔も大変、愛らしくてシーク自身がもう十年若く、誰もいなくて二人きりだったら、少年だということを忘れて口づけしてしまったかもしれない。それくらい危険な可愛らしさだ。
「若様…。説明しないとヴァドサが困惑します。」
フォーリが優しく言って手巾を出して、若様の頬に流れる涙を拭う。若様に向ける顔だけとても優しい。さっきの鉄面皮が嘘のようだ。
「…あ、あにうえは、私を助けてくれた。…い、命の恩人なんだ。」
泣きながら一生懸命、説明してくれた。
「さようでしたか。実は王太子殿下より、お手紙をお預かり致しております。お話し申し上げるのが遅くなってしまい、申し訳ありません。」
シークは懐から手紙を出すと、フォーリに手渡した。封蝋されたままで開けた痕跡は全くないはずだが、フォーリは一応、確認してから若様に手渡す。
「若様、部屋に戻ってからにしましょう。」
今にも開けて読みそうな様子を見て、フォーリが注意する。
「…うん。」
大事そうに手紙を押し抱き、嬉しそうな笑顔を見せる。シークは左手のピンを握った。こんなキラキラした笑顔を見せられたら…狂ってしまう者達の気持ちが分かる気がした。
「…あ、ありがとう。ば、ヴァドサ隊長。」
一度で名前を覚えている。意外だったが、切れ者の王太子の従弟なのだ。本来の力を出せればきっと、とても賢い子なのだろう。
「それでは、明日、もう一度部下を連れてご挨拶にお伺い致します。何かご用意する物などございますか?」
シークの問いに若様は首を傾げた。なんて愛らしいんだろうとみとれそうになるのを、必死で耐えた。
「なければ、私はこれで失礼致します。ただ、フォーリには確認しておきたいことがあるので、彼と話をしてもよろしいでしょうか?」
「…ふぉ、フォーリと?」
どうしよう、とフォーリを見上げる。
「若様、私もヴァドサと話があります。その間、ベリー先生と一緒にお部屋でお待ち下さい。」
若様はこくん、と可愛らしく頷いた。
「…分かった。」
若様はベリー医師と一緒に歩いて行く。完全に姿が見えなくなってから、フォーリとシークは向かい合った。