15(益子トラ)
「はい。バレンタイン」
二月十四日の朝。教室にて、先生が来る前に女子生徒たちは各々鞄から持参したチョコレートを机に広げて盛り上がっている。
かく言う私も持ってきたのだけど。小振りな小さな箱に包装された、ブランドのチョコレートだ。……手作りなんてそんな面倒なことはやっていられない。別に気持ちが込められていれば何だっていいでしょう?
教室に入ってきた彗星に、開口一番にその箱を差し出すと……マスクの上からでも分かる、ぽかんとした表情。すっかり固まってしまっている、そんなに驚くことかしら。
「いらないの? いらないなら別にいいけど」
「待っ……てくれ! い、いる、ほしい」
「……そ。じゃあはい」
箱を受け取った彗星は、それを手にしたまましばらく動かないでじっとそれを見つめていた。……感動しているのかしら? そんな大層なものじゃないし、何なら去年も同じようなものを贈ったのだけど。
「今回も貰えるとは、思っていなかった。ありがとう」
「……あげるわよ、だって……仲いいでしょ。私たち」
「そうか……そうだったか。うむ」
感情の起伏は未だ乏しいけれど、これはきっと喜んでいるのよね。……あの告白以来、距離感に戸惑うことも多くあるけれど。あまり振り回さないようにと意識しつつも、でもやっぱり私は――彗星のことは好きなのだと思う。
「持ち物チェックあるだろうから、気を付けるのよ」
「心得た」
いや、それが恋愛的な意味かはさておき、ね。
◇
その日の放課後、帰ろうと思って昇降口付近を歩いていた時。何やら廊下が騒がしかったので少し顔を出して様子を見てみると……何人かの人だかりに、その中心に彗星が立っていたので思わずぎょっとした。彗星が、大勢の女子に囲まれている。
「あの先輩、これ、受け取ってください!」
彗星が怯えているようなら割り込んでやろうかと思ったけど、不意に耳に飛び込んできた言葉を聞いて足を止める。それを言った女子生徒は私の知らない子だったけれど、多分一年生。……いや、あのスポーツバッグは……女子バスケ部の一年生だ。
……何となく隠れたくなって、身を潜めて状況を覗き見るようにする。少し観察すると状況は読めた、彗星にチョコレートを差し出す女子生徒が一人と、その周りにいるのはその子に対して「頑張れ!」とを声を掛けている友達のようだった。
彗星は私に背中を向けているので、どんな顔をしているかは分からない。ただ、あれは驚きのあまり固まっているみたいね……。これはやっぱり割って入ったほうがいいかしら。
「受け取ればいい、のか?」
「! は、はい! それと……あの……」
私が一歩を踏み出そうとして、彗星の声が聞こえてきた。私は慌てて足を引っ込めて、そのまま静止する。まさか彗星が女子に返事をするなんて……! 前よりは心の傷が癒えてきたってことかしら? だとすれば、これ以上喜ばしいことはない。ひとまず今は様子を見守ることにしましょう。
「来週の試合、応援してますっ!」
彗星にチョコを手渡した後輩の子は、甲高い声でそう言うと友達を引き連れてバタバタと駆け出して行ってしまった。彗星は……受け取った小さな小箱を手にその背中をぼうっと眺めているだけ。今、一体なにを考えているのかしら……。
ひとまず、声を掛けてみようと思って私が一歩を踏み出したほぼ同時に、彗星が早足に歩き始めた。ちょっ、なに急に。なにか急いでいるのかしら?
と思ってる内に、彗星の足はどんどん加速して……え、速っ。速過ぎじゃない!? 私が呆気に取られている間に、風の如く私の視界から消えた彗星。流石はバスケ部のエース……じゃなくて、どうしていきなり――。
「あ」
遠目に見えたのは、先程走り去って行った後輩の子の小さな背中。そこに追いついた彗星が、その子の元へ辿り着いてなにか声を掛けている姿。
なにを話しているのかまではここからじゃ分からない。でも――彗星が、あの女性恐怖症の彗星がわざわざ女の子の後を追って声を掛けるなんて……。
「巣立ちを見守る親鳥の気分ね」
自分で口にして何を言ってるんだと思った。なによ、この虚無感は?
何故か分からないけど、無性にイラついた。私が彗星に声を掛けようと思ったのに、私に気付かないで走り去って行った彗星に――何となく、無視されたような気分を覚えたからだろうか。
目を凝らして見ると……まだ彗星たちは話している。何をそんなに親しげに?
「……いやいや、ちょっと待って。なんで私が腹立ってるのよ、可笑しいでしょ」
一人呟く。周囲に誰もいなかったことが幸いかもしれない。今、私の情緒はこれ以上ない程に振れ幅が大きい状態だ。
でも一度冷静になって、思う。……私、彗星が他の子と普通に喋ってるだけでイラついてるってこと? なにそれ。ヤバイ奴じゃない……まさかいつの間にか、彗星のことを自分のものとでも思い込んでいたの?
自分自身の気色悪さを自覚して身震いする。どうやら自分でも知らない内に、私は随分と思い上がっていたらしい。
そりゃ確かに私は心のどこかで、私だけは彗星の中で他の女の子とは違う扱いを受けているものだと理解していた。実際にそう、私は彼から告白――――、いやこの話は置いておくとして。
「もしもし。大丈夫ですか〜?」
「っ!!!? せ……んせい!?」
「はい、先生ですよ。廊下の真ん中で考え事ですか〜?」
柔らかな声色が頭上から降ってきて振り返ると、そこには私好みのイケメン顔――中言先生がいつものニコニコ笑顔で立っていた。いつの間に! 全く気配を感じなかった……のは、私が考え事をしていたせいかもしれない。
「こんにちは益子さん。お怪我の後遺症は無いようで何より、何より。今から帰宅のところですかね〜?」
「あ、は、はい……」
名前を呼ばれて思わず一瞬固まる。私の名前、認知してたのね……まともに話す機会なんてそうないから。そう言えば、階段から落ちた私を保健室へ運んでくれたのは中言先生だ。あの時のことを思い出すと一気に顔が熱くなる感覚があった。
「校舎内なら大丈夫だと思いますが、公道の真ん中で考え事ばかりしないように気を付けてくださいね〜? 学園の外で何かがあれば、流石の僕も目が届きませんからねぇ」
それはつまり、校舎内ならいつでも私のピンチに駆け付けてくれるということ……? いや、曲解はよくないわね。乙女ゲーム脳の自分に脳内でチョップを入れておく。
「気を付けます。もう、先生の手は煩わせません。……あの時のことも、ちゃんとお礼を言えずに時間が過ぎてしまって……ごめんなさい」
「いやいや、そんなに畏まることはないですよ〜。可愛い生徒の面倒を見ることが僕の仕事ですからね。お礼なんて別に――」
先生の言葉が途中で詰まった。何事かと私は首を傾げる。先生は、穏和な表情はそのままに視線を右上の方に向けて何かを考えている様子だった。そしてそれはさほど長い時間ではなかった。
「――と、そうだ。益子さんにお願いがあるのです。ちょっと聞いてやくれませんかね?」
「えっ?」
そして予想外な言葉。お願い……中言先生が、私に、お願い!? 私は驚愕の表情も隠さずに、思わず身構えてしまった。すると先生は慌ててこう付け加える。
「あぁいや、大したことではなくてですね。ほんと〜にちょっとしたことなのですが……」
そうは言っても、先生の目は期待に満ちたようにキラキラと輝いて……真っ直ぐに私を見つめている。当然、私はその間ドキドキしっぱなしだ。そんな、先生が私にお願いすることって一体――
「益子さんって、西尾新平くんと親しい仲ですよね?」
――そうして告げられたことも、私にとってはかなり予想外というか……とにかく、その時は頭の中が疑問符だけで埋め尽くされていた。