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その日の校内は、やはりいつもと比べてどこか騒々しい感じがした。普段よりも腰の低い男子たち、頬を赤く染めてはしゃぐ女子たち。そして、そんな生徒たちを窘める先生たち。
私が教室に入ると、私のクラスもいつもより賑やかに盛り上がっていた。どうやらクラス全員分のチョコを用意してくれたらしい女子が何人かいたようで、一部の男子が小躍りを披露しているところだったようだ。
「茂部っちぃぃ〜〜……」
……そんな中、私が席についた途端に背後から声が聞こえてきた。振り向くとそこには、
「ぎゃあお化け!? ……じゃない、ギャル子ちゃん!」
「おはよぉぉ……あのさぁ、頼みがあんだけどぉ……?」
思わずお化けのコスプレかと見紛えてしまったけど、私に声を掛けたのはギャル子ちゃんだった。というのも、普段通りの派手なメイクは健在ではあるけどそれがかなり崩れていたからだ。主には、マスカラかアイラインによる黒い涙の跡のせいで。そしてメイクでは隠しきれていない、泣き腫らした瞼。
「どっ……どうした!? どうしたの!?」
「まずはコレ……茂部っち、一緒に食べよ」
私の隣に椅子を持ってきて腰掛けたギャル子ちゃんは、言いながら豪快に机の上に何かをぶちまけた。これは……お洒落なラッピングがされたいくつかのお菓子? どれも少しお高いものだ。
「聞いてよ! ――昨日ね、カレシをフッたの。あんのクソ男っっ!!」
「そ、それはまたどうして……?」
思っていたよりも重たい話だったようだ……しかし、ギャル子ちゃんはもう散々泣いたあとなのか、今はかなり憤慨した様子でわなわなと肩を震わせている。
どうも、別れを告げたのはギャル子ちゃんからであるらしい。ということは彼氏さんが彼女の地雷を踏み抜いたということになるけど……確か、校内の一個上の先輩だったかな?
「あいつはね――浮気してたの! 大学生の女とっ! それも半年も前から! こっちは一生懸命にバレンタインの準備してたのに最悪だよマジでっ! あームカつくムカつくムカつく! ムカつくからあいつにあげる予定だったこのチョコは茂部っちと一緒に食べる!」
「浮気? 昨日ってことは発覚したのが昨日ってこと!? どうして浮気って分かったの!?」
「カレシ……いやヤツの家で変なプレゼントの箱を見つけたの。てっきり私に用意したものかと思うじゃん? 喜んで開けちゃったらシルバーのネックレスが入ってたんだけど、刻印されてたイニシャルが私のでもヤツのでもなかったの。あいつやたらと慌てふためいてたし、どういうことか詰めたら白状したってワケ。思い出すだけで腹立つわ!」
銀の紙に包まれたチョコボールを荒々しく手に取り、鬼のような剣幕でそれを噛み砕きながらギャル子ちゃんは語る。怖い。
「修羅場じゃん……災難だったね。相手が大学生って、せめて同級生とかじゃなくてよかった……のかな? そしたら学校が戦場になってたかも」
「そうだね!! 殺してたかも。もちろんしっかりヤツの顔面は二十発くらい殴ったけどね!」
「お疲れさま……それじゃ私からもどうぞ、つまらないものですが。少しは慰めになればいいけど」
私は鞄から紙袋を取り出し、その中にあるさらに小さなラッピング袋を一つギャル子ちゃんへ手渡す。ギャル子ちゃんは目を丸くさせながら中を見て、ぱっと表情を明るくさせた。
「茂部っちからのバレンタイン!? ありがと〜! やっぱ友チョコしか勝たんよね!」
「そうそう。浮気男にはちゃんと制裁も加えたってことで、さっさと忘れよう!」
「そうね! そういえば茂部っち、姫ノ上の男と知り合いって言ってなかった!? 今度紹介してくれる!?」
途端に目の色が変わったギャル子ちゃんがぐいっと身を寄せて来たので、私は少し反り返る。
「ちょっ、おおっ? わ、分かった分かったから。今度ね、今度タイミングが合えばね」
何だかんだで逞しいギャル子ちゃんは、今の見た目はアレだけどもうすっかり立ち直ってはいる様子だ。すごいなあ。
そして元気に私の肩を揺すってそんなことを言ってくる。これは、応じるまで離してくれなさそうだ……。
・・・ ・・・
「おおい、お前ら! 浮き足立つ気持ちは分かる、大いに分かるがな。あんまり騒ぐと来年からバレンタイン規制が入っちまうぞ? ホームルーム中はチョコを机に出すなー!」
去年と同様に佐藤先生は相変わらず忙しそうだ。いつも通りと言えばいつも通りなのかもしれないけど。
佐藤先生以外の教員陣も今日は忙しない様子で、そこら中でピンクムードの生徒たちをガミガミ叱ることに尽力しているようだ。隣の教室や廊下から聞こえてくる騒がしい声のせいで、いつもよりもホームルーム中の佐藤先生の声が遠く感じられる。
そんな感じでグダグダな一日が終わって、やっと何人かが帰り始めたところで教卓にて項垂れている佐藤先生の元へ私は歩み寄る。
「先生。貰ってくれますか?」
「おお? ……えっ、マジで? いや……ありがとな」
先生にもギャル子ちゃんに渡したものと同じものを渡すと、先生は狼狽えながらも小恥ずかしそうに笑いながら受け取ってくれた。よかった拒まれなくて。
「まさかお前から貰えるとはな。去年はかなり冷めた感じでいたじゃないか?」
「覚えてたんですか? いやまあ、そのスタンスだったんですけどね……去年は何人かから友チョコも貰っちゃいましたし。あと今年は竜さんからたくさんチョコレートレシピを伝授してもらったので、普段お世話になっている人たちにはあらかた用意しようかなと。中言先生や北之原先輩にも振る舞いましたよ、バイト先でですけど」
「ほほう、竜さん直伝ときたか。家でいただくとするよ! いいじゃないかバレンタイン、こういうイベントを楽しめるのも今だけだからな」
先生に渡したもの、クラスのみんなに用意したものはトリュフチョコをキャンディのように包装紙で包み、ラッピングしたものを何個か袋に詰めたものだ。一番楽に多く作れたからね。即席の出来栄えだけど、みんなにこうして喜ばれると悪い気はしない。用意してよかった。
先生は無事にチョコレートを受け取ってくれたので、もうそろそろ私も帰宅準備を始めようと引き返そうとしたところで「そう言えば……」と先生が切り出したので動きを止める。
「竜さんにバレンタインに向けてのレシピを教え込まれたってことはお前、まさか……」
「? ……な、なんですか? そんなニヤニヤして」
先生が私を見ながら薄ら笑いを浮かべていたので、私は後退りながら尋ねる。何だろう急に。
「前にも言ったかもしれんが、メゾ・クレシェンドは姫ノ上では隠れ名店というかまあ一部の生徒の間で人気でな。俺らの世代でも毎年、このバレンタインの時期に竜さんから教えを乞う女子は後を絶たなかった。最近じゃめっきり学生の出入りは少なくなっちまったようだが……」
「……それで?」
「竜さんが弟子を取るのってかなり珍しいことなんだよ。厳しい審査があってな、竜さんのお眼鏡にかなう一握りの学生だけが竜さんの教えを受けることができた」
「厳しい審査?」
先生は楽しそうに語るが、私は全て初耳のことだ。なんだそれ。本当の話なのか?
「竜さんが心から“応援”したいと感じた学生にだけ教えてたんだよ。ほら分かるだろ? バレンタインに向けての本命チョコをさ」
……? …………応援?
一度黙って、先生の言ったことをもう一度頭の中で復唱してみる。
竜さんが心から応援したい、本命チョコを作りたい学生……バレンタインに向けての…………、
「は!?」
「おう、そういう訳だ。気張れよ〜茂部。先生には義理チョコありがとな!」
言うだけ言って楽しげに、颯爽と教室から出て行く佐藤先生。完全に揶揄われたと思うけど、いやちょっと待った。よくよく考えよう、落ち着け私。
つまり竜さんは恋する高校生のキューピッドになるのが趣味だったということ? まあそれは分かる。先生が学生の頃は竜さんはそういうキャラだったという訳だ。
で、今回私は竜さんからスイーツレシピを伝授してもらった。それを先生に伝えたら先程の通り揶揄われた。つまり、私には“本命チョコ”を用意している相手がいる、と先生は踏んだのか!
……いやでも。今年は学生の出入りが少ないから、竜さんがレシピを教えられる相手が私しかいなかっただけじゃ。ってかそれしかないだろう、だって竜さんに私は誰が好きだとかそんな話をしたことはないし!
ただ、確かに私は今回“本命”を用意したのは事実だから……「誤解だ!」と叫ぼうにも色々と複雑な心境ではある……。
「“本命”……」
手元に持っていたトートバッグにそっと触れる。そこには、一番心を込めて用意したチョコレートが収まっている。
先生め。……そんなことを言われたら、あまり意識しないようにしていたのに……突然、一気に緊張してくるじゃないか……!