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――運命の始まり、四月。怒涛のGWを乗り越えた五月。そして。
「梅雨入り、湿気、気温上昇……きっつい……溶けそう」
「何だ。辛気臭ぇな」
思わず零れたぼやきに返答が、しかも自分好みのイケボで囁かれたものだから、私は持っていたダンボールの束ごと床にひっくり返った。……と言うか、今日も外は大雨のせいで倉庫の床は誰かの靴裏によって持ち込まれた雨水でよく滑る。持っていたのがただのダンボールでよかった……腰とか肘とか痛いけど。
「おいおい大丈夫か?」
「痛いけど大丈夫です……っ、あぁすみません!」
今日もバイト先にて、同じシフトの新平くんが床に転げ落ちた私を見下ろして小さく肩を揺らしていた。わ、笑ってくれてよかった……呆れられないだけ。
何だかんだ言いつつ新平くんはバラバラになったダンボールを一緒に拾い集めてくれる。こんな優しいところも堪らなく好きである。
アルバイトと言う接点を持ち、あの謎の四人お出掛けから一ヶ月以上が経過した今……私と新平くんの関係は、何というか限りなく『知り合い以上友達以下』のようなレベルだった。
いや、いいのかな。私が勝手に『友達』認定しちゃっても……いやいややっぱり烏滸がましいかな。
「気をつけろよ。来週は駒延も体育祭だろ? 先に怪我作っちまうだなんて笑えねぇぞ」
「う、うーん。でもうちの体育祭、土曜日なので多分ほとんどの生徒が仮病かばっくれて来ないと思いますけど。真面目に練習してる人いないですし、私もそんなにやる気ないので」
取り留めのない話をしながら作業を進める……そうか、体育祭か。そう言えば姫ノ上でも同じ時期に体育祭があるんだっけ。体育祭と言えば学園ゲームに欠かせないイベントの一つだったよね。
「西尾くんは何か競技に参加するんですか?」
「あー……一年の競技は綱引きとか、玉入れとか。あと俺はクラス選抜の対抗リレーに出させられる」
何と新平くん、選抜リレーに出ると言う。……これはもしやスチルイベントでは?
いいなぁ姫ノ上。私も同じ学校がよかった……これを何度願ったことか。
「す、すごいな……やっぱり。西尾くん足速そうですもんね。選抜リレー私も観に行きたいけどなあ……」
「つまんねぇぞリレーなんぞ。……だがよ、俺もそんなにやる気はなかったんだがな。体育祭で一位だと担任が焼肉弁当を振る舞うだとかで全員やる気になっちまってんだ。リレーが一番勝つと点数入るからな」
「……いい先生ですね。佐藤先生もそれくらいやればうちのクラスもやる気になるのかな……」
……新平くんって確か、一年生の時はヒロイン――灰原さんと同じクラスだった気が。
ならつまり、担任の先生も攻略キャラの一人だったはず。何だったっけ……芸術に関する先生だったかな? それこそ新平くんとはあまり絡むイベントがなかったからうろ覚えだ。
「それじゃ西尾くんこそ、周りからの期待値が高い分背負いすぎて怪我とかしないように気をつけてくださいね」
「大丈夫だよ、そんな本気にはならねぇし。それに怪我したところで俺は構わねぇ」
「いや駄目ですって、怪我なんてされたら私が――あ。いや、何でもなくて、えっと。とにかく怪我はよくないですから!」
本人が構わなくても新平くんが怪我なんかした日には私が構う。そ、それが傷になって残ったりしたら……いやそれもワイルドだけど。
でも、新平くんに怪我はしてほしくない。
それは彼のルートの後半に起きる、私の正気度をガリッと削られたシナリオ上のイベントにまつわっているんだけど。
まあ今はきっと大丈夫。灰原さんも何を考えているのか私には分からないけど……彼女が新平くんのルートに入らない限りはあのイベントも起こらないんじゃないかな。
そう言えば灰原さん。あの四人お出掛けから一度も会っていないけど、元気にしてるかな?
ヒロインも無理しすぎると倒れたりするイベントがある。まあ、まだゲームのオープニングからそんなに経っていないからそんなに心配しなくても大丈夫か。それに彼女が倒れても私には何もできないし……。
◆
「今日からお世話になりますっ、灰原妃乃です! よろしくお願いします!」
これはすごいことになったぞ。
最後に会ったのは一ヶ月以上前だけど、灰原さんは相変わらず可愛い。割と地味めなアルバイトの制服ですら着こなしていて、私は何だかもう隣に並びたくないレベル。
まさかのヒロインが新平くんと同じアルバイトへ加入。まさか灰原さん、新平くんのことが好きなのかな!? ……新平くんのルートに入ろうとしているの!?
……あの日見た印象で、恭くんとのルート入りで新平くんとの三角関係がこれから始まったりするのかなと思ったりしたんだけど。これは私の予想よりも早く三角関係が加速しそう……なのかな?
「お前、アルバイトするほど余裕なかったのか?」
「あっシンくん! ううん、そう言う訳じゃないけど」
「ふぅん。ま、ここは何かと力仕事もあるからよ……困ったら言えよ?」
「うん、ありがとう!」
ふわりと微笑む灰原さん。それだけでこの場の雰囲気が柔らかくなったような、梅雨の時期でみんなどんよりしていた空気が軽くなったような気がするのはどうしてだろうか。
男の先輩たちはみんな灰原さんに見惚れている様子だ。……ヒロイン、恐ろしい子。
それはそうと新平くんと結構親しげだ。好感度もあの日よりは確実に上がっている……のかな。二人とも、お互いと話している時はとても楽しそうだ。
こりゃ私は間に入れないな。元々場違いな奴だったけど。
灰原さんも私の日常に関わるようになってしまった。と言うことで、私はきっとこれからさらに『モブ』として磨きがかかってくることだろう。
……これからのこと、私もいい加減考えないとな。
この世界で目が覚めて、とにかく推しに会いたい一心でこのアルバイトを始めて、晴れて新平くんと世間話をできるくらいの関係性を築くことができたけど。
私と言う人間がこれから大人になっていって、これからどう言う進路に進むのか。高校生と言う大事な時期だからこそなおさら真剣に向き合わないと。
前世、このゲームが大好きだった私はそれこそ高校生の時は遊んでばかりだったけど。青春とか思い出作りとか、そんなのはゲームの話だけなんだから、それは灰原さんや新平くんが味わうべきもの。
私はモブとしてせめて人並みの生活を送れるように努力しよう。高校生の内から恋とか積極的になれないし。
だってどうせこの『ハイ☆シン』だって学園ゲームだからその後の展開は描かれていないし、ヒロインとヒーローが結ばれた後どうなったかはプレイヤーの想像の先にしかない。
この世界が現実であるなら、その後の人生も続くんだから、私はその先を見据えることにする。
「……で、お前は何でそんな小難しい顔して何考えてんだ?」
「っわあぁ!?」
「レジ頼むぞ、精算間違えんなよ。……疲れてんのか?」
色々考えながら陳列棚整理をしていたら、耳元で推しの囁きが聞こえてきてまたひっくり返……りそうになる。今日だけで同じことを何度も繰り返してしまいそうだ。
新平くん、私の背後を取るのが上手い。それとも私が気づいていないだけなのかな。
ちょこちょこと私に話しかけてくれる新平くんは、やっぱり周囲をよく見ていて気を遣ってくれているんだと思う。こう言うところも推せる。……でも、私の不注意で新平くんの仕事のパフォーマンス性を落とす訳にはいかない。気をつけないと。
「だ、大丈夫。すみません、ぼーっとしてました? 気をつけますね」
「おう。ま、ここ最近雨続きだからよ、頭がスッキリしねぇのは俺もだ。体育祭までには梅雨明けしてくれりゃあいいんだがな」
「そうですね。グラウンドの状態が悪いのも怪我に繋がりますからね」
「お前はさっきから怪我ばっか心配してんだな。俺よりよっぽどお前のほうが怪我してそうなのによ。ぼーっとしたりひっくり返ったり」
くつくつ笑う新平くん。いや本当その通りで、いつか考えごとでもしながら車に撥ねられたりしないように気をつけないと。
でもまあ、新平くんがこうして笑ってくれてよかった。
灰原さんもこれから一緒に働いてくれることだし、推しの笑顔を見れる機会が増えて私も嬉しいな。