《約束》②
十歳の時。ある日突然、俺に家族が増えた。
顔合わせの日の本当に直前、それこそ三日前くらいだっただろうか。父さんが突然「再婚を考えてる」と言い出したのには流石に驚いた。それにその再婚相手が、俺にとっては知っているようで全く知らない相手だったから。
新しく俺のお母さんになるその人は、プロダンサーの『マナ・タカラ』。顔と名前は知っていた、テレビや雑誌でたまに見掛けるくらいの知名度を誇る綺麗な人だったから。
本名を高良真夏、芸名が本名だったことにまず驚きだった。艷やかな長い黒髪のポニーテールで、少し浅黒い肌色の健康そうな女の人。大柄ではないけれど筋肉で引き締まった身体付き、そして磨かれた刃物のような美しさを宿した顔立ち。勝ち気そうな印象を受けたけど、実際に話してみるととても穏やかに、よく笑う人だった。
もう一つ驚いたのは、マナさんに息子がいたことだ。見た目がかなり若々しい人だったから、結婚していて子持ちだったことも俺は知らなかった。しかもその子供は俺と同い年だと言う。
顔合わせで、マナさんの横に並ぶ不貞腐れた顔のシンペー。顔立ちはマナさんにそっくりで、身長は俺より頭一つ大きい。第一印象は怖い人、だった。あとから聞いた話だとシンペーも顔合わせを直前に聞かされていたとかで、心の準備ができていない状態だったらしい。怒っていたのかと思ったらただ緊張していただけだったそうだ。
「あ、あの……俺、恭って言うんだ。君は?」
「高良新平。十歳。趣味はない。あとは聞かれたら答える」
「え……あ、同い年だね。それじゃあ俺たちってどっちが兄になるのかな?」
父さんとマナさんは二人で席を外してしまって、俺たちは二人だけにされてしまった。シンペーは不機嫌そうにずっと黙ったままだったから、俺が話を振ってみるとぶっきらぼうだけど答えてくれた。でも、あまり会話は好きじゃなかったみたいだ。
「俺の誕生日は四月だ。お前は?」
「あ、俺は……昨日が誕生日だったんだ」
「マジか。四月と三月か、それじゃ実質お前が歳下みたいなもんじゃねぇ?」
「そうだね。じゃあ君が兄さんってこと?」
兄さん、と呼ぶとシンペーは顔をしかめた。これは今でもだけど、「兄貴」とか「兄さん」って呼ばれるのはなんだか嫌な気分になるらしい。そりゃ、俺たちは元々一人っ子だったから仕方ないか。
「名前でいーだろ、名前で」
「あ、うん。それじゃ……よろしく、シンペー」
――そうは言いつつ、一緒に暮らすようになってからもシンペーはどこか俺たちとは距離を置いていて、俺の名前を呼んでくれることはなかった。
俺だけじゃない、父さんも、そしてどうしてか実のお母さんであるはずのマナさんにさえシンペーは心の壁があるようだった。俺には分からない、シンペーの中にある“事情”があったんだろう。でも当時子供だった俺はそんなことまで考えられなくて、何となく愛想もない嫌な奴だなーとさえ思っていた。
◇
父さんは元々、家にはあまりいない人だった。単純に仕事が忙しかったみたいで、朝は早くに夜は遅く。でも家族の誕生日とか、クリスマスとかは病院に急患が運ばれて来ない限りは俺と一緒の時間を過ごしてくれていた。
新しいお母さん、マナさんも芸能人ということもあって、父さん以上に家に帰らない人だった。だから別に、俺としては日常が大きく変わったような気は全くなかったのだ。それに元々俺が住んでいた家にシンペーたちが引っ越してきただけだし。
でもシンペーは、俺たちが家族になってしばらく経ってからも相変わらず素っ気ない態度だった。
俺たちが中学生になった時。俺は姫ノ上学園の中等部に、シンペーは地元の県立中学校に通い始めた。別々の学校を選んだのは、別にお互いを避けた訳じゃなかったんだけど……どうなんだろう。もしかするとシンペーは俺を避けていたのかもしれない。
そして貧弱な俺は、中学生になってからもよく体調を崩して寝込むことが多かった。でも俺も慣れっこだったし、熱にうなされながら一人で過ごすことにも特に抵抗はなく……誰も帰ってこない家で、部屋に篭って一人で過ごすことがほとんどだった。
でもある日、ちょうど家に帰ってきたシンペーと、たまたまリビングで過ごしていた俺が鉢合わせてしまった時があった。
「あ……おかえり。ごめん、すぐ部屋に戻るね」
「あ? なんだその声。お前また熱出してんのか」
「はは……ちょっとね。喘息持ちだし、昔から風邪になりやすくてさ」
俺はすぐに部屋に戻ろうとしたけど、それより先にシンペーが自分の部屋に行ってしまった。その時はやっぱり、風邪を感染されたくないから露骨に避けられたんだと思った。……思い返せば、単純に病人に対してどう接していいのか分からなかったからそっとしておくことにしただけだと思うけどね。
――ところでシンペーは、ちょっとやんちゃな奴だった。小学生の頃からガキ大将気質というか、あからさまに悪戯好きって感じの性格だった訳じゃないけど自然と誰かを従えているというか。シンペーが通っていた中学生というのも、世間的に見れば少し荒れ気味な学校だったらしい。シンペーはピアスを開けていたし、学校をサボったりするのも日常だったらしい。でも素行で言えばその程度で、補導されるような悪行はしていなかった。ただ本当に授業が面倒だったんだろうな。
しかしシンペーとよく一緒にいた友達は、少し……いや、かなり怖い人たちだった。たまに家の周りでシンペーと歩いているところを見掛けたけど、どうしてシンペーはこんな人たちと一緒にいるのか理解できなかった。怖いというより、下品な印象だったかな。服装も、喋り方も、喋っている内容も。その中にいるシンペーはちっとも楽しそうじゃなかったのも気に掛かった。
俺は、話したこともなかったし近付いたことすらなかった。彼らは俺がシンペーの家族だってことも知らないはずだ。シンペーは家で学校のことなんで絶対に話さなかったし、そもそも俺との会話はほとんどない。
ただ俺たちが中学二年生だった時のある日、シンペーが傷だらけの姿で帰ってきた時は流石に問い詰めた。その時も父さんとマナさんは家にいなくて、俺とシンペーはリビングで鉢合わせた。目が合った時、シンペーは明らかにバツが悪そうな顔をした。
「ちょ、なんでそんな、怪我」
「――――。」
「駄目だよ手当てしなきゃ、俺やるよ!」
「うるせぇ。ほっとけ」
いつにも増して素っ気ない態度。縋ろうとした俺を全力で拒否して、絶対に触るどころか近付かせてもくれなった。そんなに深い傷を負ってた訳じゃなさそうだけど、顔の青痣や口の端が切れているのを見るに誰かに殴られたのだろう。それでいて、シンペーの拳も赤く腫れ上がっていた。――それで、喧嘩だと悟った。
「ねぇ本当に、化膿しちゃうよ。父さんに連絡するから病院行ってきたら?」
「ほっとけって言ってんだろ! これくらいで……大袈裟なんだよ」
「大袈裟って……」
イラついた自分を抑えるのに必死なようだった。理性で何とか、俺に対して口調が強くならないように気を付けてくれていたんだと思う。でもその時の俺はそんな姿のシンペーに怯えることしかできなかった。怪我は心配だったけど、その拳で誰を傷付けたんだろうと考えたら……誰かに暴力を振るうなんて、俺の中では『許せないこと』だったから。
そんな出来事があって、二週間後くらいだっただろうか。俺は学園から家に帰る途中、誘拐に遭った。
誘拐と言っても、三人に囲まれて脅されて言われるがままに後を着いて行っただけだけど。
俺を「黙って着いて来い、反抗したら殺す」と言って脅したのは――あの、シンペーとよく一緒にいた三人の友達だった。
「お前、あの野郎の弟なんだってな」
――連れて来られたのは、昔あった小学校の跡地、廃校舎の敷地内だ。薄暗くて埃だらけの小さな小屋の中に入れられて、改めてその三人に囲まれる。小学校に忍び込むのも、この小屋の鍵が掛かってないのを見るにもきっと普段から常習的にここへ訪れているのだろうと思った。
そしてその三人は、全員が顔に傷を負っていた。それは先日シンペーが負っていた傷と似通っていて、喧嘩の跡だとすぐに分かった。それでシンペーはこの三人と喧嘩したのだと理解する。そして俺が連れて来られた理由も。
「あいつ、一人だけお高くとまってて前から気に食わなかったんだよ。俺らがいなきゃずっと一人なのに、生意気に俺らのやることに口出してきやがって……」
「この傷もこの傷も、お前の兄貴にやられたんだよ。ん? どう落とし前つけてもらおうか。なぁ、姫ノ上のお坊ちゃんよ?」
三人の内、二人は同い年とは思えない俺とは比べ物にならない体格で、それでいてもの凄く怒っていて、その怒りは真っ直ぐに俺へ向けられていた。俺は何も答えることもできずに、ただ震えてその場に座り込んでいるしかなかった。だってどうしろと言われたって、俺は全く関係なかったのに――。
「っつーかお前、持ってるもん全部高そうなのばっかだな。んだよあいつ、ケチな癖にやっぱり実家は金持ちってオチか」
「あ――やめろ、返せ!」
「なんだこいつ、力よわ……ほらよっと!」
持っていた鞄も取り上げられて、平然とその中身を暴かれる。財布に触られた時は流石に俺も飛び掛かった。でも、たった一人の片腕で簡単にいなされて床に転がる羽目になる。
この小屋が埃っぽかったのもあって、俺は大きく咳き込んだ。元々体調が優れなかったのとこの状況下の強いストレスで、咳は治まるどころかどんどん酷くなった。
「煩えなぁ。病弱アピールか? ま、俺らにとっちゃ都合はいいんだがな」
「う、ぐっ」
胸倉を掴まれ、ズルズルと壁際まで引き摺られた。何となく分かった、こいつらはシンペーにボコボコにされた腹いせに代わりに俺をボコボコにする気なんだ。この上ない理不尽だし、恐怖が俺の頭を支配した。
いっそ気絶してしまえば楽だったかもしれない。息ができないくらい苦しくて、恐怖で手足に力も入らなくて、俺はただひたすら震えていて。
でも――奴らがいよいよ俺に向けて拳を振り上げた時、錆びついた小屋の扉を勢いよく蹴り破って現れたのがシンペーだったのだ。
「お前ら……っ! そいつは……俺の弟は関係ねぇだろうが! ふざけんじゃねぇぞ――!!」
――シンペーは、家に帰って誰もいなくて、いつもだったら俺は既に帰ってるはずの時間なのにいなかったことに不信感を抱いたそうだ。変に胸騒ぎがして、この三人がよく溜まり場にしていたこの場所に赴いたら案の定、という事情らしかった。
シンペーが助けに来てくれたのはたまたま、という考え方もあるかもしれない。でもシンペーが、俺がいつも家にいる時間を把握してたこととか、それで俺がいなかったから不安になってくれたことが、そしてこの時シンペーが「兄」として怒りを示してくれたことが、俺にとっては大きな意味を持っていた。
三人は束になってシンペーに襲い掛かったけど、簡単に返り討ちにされていた。でも俺の目の前だからなのかシンペーは自分から彼らのことを殴ったりはしていなかった。あくまで殴り掛かられたらそれをいなし、地面に叩きつけるくらいのことはやってたけど。
ある程度奴らが動けなくなった頃合いで、シンペーは俺の荷物と俺の手を引いてその小屋から連れ出してくれた。そのまま真っ直ぐに大学病院――父さんの職場へと連れて行かれる。事前連絡も何もしていなかったから看護師さんはみんな戸惑っていた。でも、よく入院してた俺はそのほとんどと顔見知りだったのですぐに父さんは俺たちの元へ駆けつけてくれた。
シンペーは自分が怪我をしていた時は頑なに手当てを拒んでいたのに、俺は無傷とは言え過呼吸気味になっていたのを見てすぐに病院に連れてきてくれたのだ。そして俺と、父さんに深々と頭を下げて謝った。こんなことになったのは自分のせいだ、と。
「新平くん、顔を上げなさい。君はとても真面目で、君が非行に走っていたお友達を許せなかったことをよく知っているよ。担任の先生から話は聞いているからね」
父さんは、不安に揺れる患者さんに語り掛ける時と同じような口調で穏やかにシンペーそう言った。父さんは俺よりもシンペーの事情を把握していたらしい。
聞くと、俺を連れ出したあの三人は普段から万引きなどに手を染めていたらしい。それを知ったシンペーが激怒して、二週間前に大喧嘩に発展した。それは学校側も把握していたみたいで、その連絡が父さんに入っていたのだ。
「恭のことを助けてくれてありがとう。君はヒーローだね、私の自慢の息子だ。胸を張って、どうかこれからも恭のことを支えてくれるかな? なにせ、恭は昔から少しばかり身体が弱いから」
「――いや、俺は」
「どうか、頼むよ。私と約束してくれないか?」
……そんな父さんからの懇願がシンペーの心の壁にヒビを入れたのか、その日からシンペーはぎこちなくも俺と何でもないような世間話を交わしてくれるようになったのだ。
父さんがシンペーにお願いした“約束”。それをシンペーが了承したのかは分からない。その時も返事はなかったから。
でも俺は、ちゃんとシンペーは約束を交わしたんだと思う。だって今も変わらず、シンペーは俺を見限らずに面倒を見てくれている。初めの頃の素っ気なさが嘘のように、今では過保護が過ぎると思うほどにまで。
シンペーの世話焼き性は、俺だけじゃなくて誰にでも働くようだった。高校生になって、同じ姫ノ上学園に通うようになってからその事実に気が付いて、俺はちょっぴり妬いた。
不器用な優しさ、それをぎこちなく抱えようとして、実は誰よりも上手に扱えている。そんな面白い俺の自慢の兄貴、シンペーの“約束”がそれだ。