《約束》①
小さな女の子たちが少女漫画のような展開を夢見るように、俺も運命とかを信じるタイプの人間なんだと思う。
俺は自分のことを結構幸せな奴だと思っていて、それは周りにいる人たちに恵まれているからっていうのも分かってる。だからこれは俺の性分で、誰だって根っからの悪人ではないんだって、“性善説”とかを盲信してる自覚はあった。でもそれって悪いことじゃないと思うんだ、だって人を疑ってばかりだと人生つまらないでしょ?
だからこそ、俺にとって説明がつかないような手酷い話――例えば全国ニュースで報道されてる残酷な事件だとか、そういうのを目の当たりにすることは苦痛だった。被害者に同情するのもそうだけど、どうして犯人はこんな考えに至ってしまったのかとか……そんな余計なことばかりが頭を過ぎってしまうから。
要は弁明の余地のないほどの悪人を目の前にした時、それは俺にとっての信念のようなものを全否定されたような気分になってしまう。俺はそこまでを自覚しているからこそ、こうして今もずっと一人で苦しんだままなのだろう。
◇
物心がついた頃から、隣の家に暮らしていたある女の子と俺はいつも一緒に過ごしていた。いつもどちらかの家で遊んでいて、同じ幼稚園に通って、同じ小学校に通って。
彼女のことを俺は、ヒメちゃんと呼んでいた。
ヒメちゃんはいつも本を読んでいた。というより彼女の家にはたくさんの本が置いてあって、ヒメちゃんはそれ以外の時間の潰し方を知らないようだったのだ。
でも俺が気になったのは、その本はどれも同じような内容だったこと。違うと言えば違うのかもしれないけど、共通しているのは「王子様とお姫様が登場する」ことだった。お決まりの展開、お約束の結末。そんな話ばかりで飽きないのかと聞いたことがあった。でもヒメちゃんは笑って、それでもこれが好きなんだと言っていた。
俺たちが七歳の時、公園で遊ぼうと誘ったのにヒメちゃんはブランコでずっとまた同じ本を読んでいて、面白くなかった俺はこんなことを言った。
「変な話。王子様なんて、本当はいないのに」
俺が不貞腐れてそう言うと、彼女は目を丸くしてこう答えた。
「いるよ! だって、ママがいつも言ってるもん」
「嘘だぁ、王子様もお姫様も見たことないじゃん」
「でも、ママは私がお姫様だって教えてくれたよ?」
最初は冗談でも言ってるのかと思った。でももっと聞いてみると、どうやらヒメちゃんは至極真面目に「そう思ってる」ということに気がついた。
「なんで? 名前が『姫』だから?」
「違うよ、私がお姫様だから名前が『姫』なんだって」
「? ごめん、難しくてよく分かんない……」
「んー、あとはママに聞いて!」
そう言われてしまって、俺は困った。実のところ俺はヒメちゃんのお母さんが少し苦手だった。怖いというか……怒ったりはしない、寧ろとっても優しい人なんだけど……ずっと話し掛けてきたり、変に近付いて来たり、たくさん写真を撮ってきたりで。
小学校に上がった時、父さんから「もうあの家には上がるな」と言われてしまってからヒメちゃんのお母さんと鉢合わせることは少なくなっていたけど。
「あっ。あとね、キョウくんは実は王子様なんだって」
「俺? 違うよ、俺は王子様じゃないよ?」
「えー? でもママが言ってたよ? キョウくんと、あと……忘れちゃったけど、王子様っていっぱいいるんだって」
聞けば聞くほど混乱する、ヒメちゃんの話。そう言うヒメちゃんもよく分かってないところもあったんだろうけど、ヒメちゃんはお母さんの話を疑ったりはしていない様子だった。
ヒメちゃんのお母さんの話によると、俺はどうやら王子様らしかった。思い返せば言葉の綾とか、そういうものだったんだと思う。
「でもさ、お姫様と結婚できるのって一人だけでしょ? 王子様がいっぱいいたら、ヒメちゃんが困っちゃうんじゃないの」
「あ、そっか。そうだね? 一人しか選べないね」
「じゃあ、今は俺だけだから。俺しか選べないじゃん」
「そっかあ。でもさー、私たちまだ結婚できないよ」
その時の俺は、今は俺だけだとしてもヒメちゃんが言った「他の王子様」がいつか現れて、そいつに彼女を取られてしまうんじゃないかって不安があった。
だから俺は、小指を差し出して言ったのだ。
「じゃあ今、約束しようよ。いつか、俺と結婚するって」
「約束?」
「うん。ヒメちゃんは他の王子様が現れても俺を選ぶの」
ヒメちゃんは首を傾げて考えるようにして、うーんと小さく唸って……しばらくして、笑いながら答えてくれた。
「ママがなんて言うか分かんないけど、分かった! 約束ね!」
「うん。約束」
その日の約束を、俺は今でも忘れてなんかいない。
『約束』。これは、俺にとって大きな意味を持つ大切なものだ。そして俺とヒメちゃんの約束はこれだけじゃない、もう一つ交わした大切な約束があった。
それは、その約束から一年後。ヒメちゃんがこの街を引っ越して、転校してしまうことを知った日だ。
「ママが引っ越さなきゃいけないって言ってたから。なんか、そうしなきゃダメなんだって……でも、寂しいな」
どうして引っ越してしまうのかと聞くと、やはりヒメちゃんは困ったように「お母さんが言ったから」と答えるのだ。ヒメちゃんのお母さん、その時はどんな仕事をしていたのか、その時の事情なんて今でも分からないけど……やっぱり俺は、あの人を少し不気味だと思った。
だってヒメちゃんですら理由が分かってないまま引っ越しを決めるだなんて。それも、ヒメちゃんを転校させてまで。……事情も知らないままこんなこと言うのはよくないか。ヒメちゃんのお母さんはシングルマザーだったみたいだし、色々と大変なことがあったのかもしれない。そう思うことにした。
「ねえ、キョウくん。もう一回約束してくれない?」
「えっ……なにを?」
「いつか王子様として、迎えに来てよ。だって私たち結婚するんでしょ? 待ってるから。お願い」
あまりに誠実な目でそう言われて、断る理由なんてなかった俺は「もちろん!」と元気よく答えた。
「俺、この街で友達千人作って、それでヒメちゃんのこと迎えに行くからね!」
「えへへ……ありがと。待ってるね?」
そしてまた小指を絡めて、俺たちは二つ目の『約束』を交わした。
ヒメちゃんがこの街からいなくなってすぐの頃、俺は風邪を拗らせて生死を彷徨うほどの大変な目に遭うことになった。元々身体が丈夫じゃなかった俺は、そこから何度も入退院を繰り返した。
全国屈指の名医を父に持つ俺は、父さんにとってまさに目の上のたんこぶのような存在だったに違いない。父さんはとても俺のことを大切にしてくれたし、酷いことを言われたりは一回もない。常に俺のことを気遣ってくれる優しい人だ。だからこそ俺は父さんに申し訳なかった、きっと俺は父さんにとって足枷にしかなっていなかった。
俺のことを産んでくれた母さんは、俺が物心がつく前に家を出て行ってしまったらしい。父さんはあまり多くを語らない人で、俺は母さんの記憶が一切ないし、会いたいと思ったこともない。母さんがいたという実感すらなかったからだ。
父さんはなにも言わないけど、母さんが出て行ったことに対するトラウマは少なからずあるんだと思う。それで少し過保護なところがあったんだろう。
病弱なところは母さんに似てしまったみたいなんだよね。父さんが院長を務める大学病院の一室である年のクリスマスの夜を過ごした時、父さんから「お前は母親似だな」と言われたことがある。……どうせなら聡明な父さんに似たかった、という本音のは今でも口にすることはない。
さて。まずこれが、ヒメちゃんとの“約束”。