15
怒涛の一日、と言って差し支えないと思う一日を終えて、私は家に着くなり泥のように眠り込んでしまった。まだ昼下がりの時間帯だったけど、最近の寝不足のツケが一気に押し寄せてきたのかもしれない。
私を家まで送り届けてくれた新平くんは、特に何か多くを語ることなく「じゃあな」と言って帰って行った。世話焼きだから私のことを送ってくれただけで、先に帰った恭くんのことも心配だろうからね。
目が覚めたのは深夜だった。日付は変わっていて、でも朝にはまだ遠い時間。二度寝しようにも目が冴えてしまって、取り敢えず着替えたりシャワーを浴びたり家のことを済ます。
一息ついた時、自然と手がスマホに伸びる。
最近は毎日、毎晩この時間帯はスマホで例のサイトを見漁っていた。その習慣はすっかり身に着いてしまったらしい……ブックマークしてあったURLを眺めてそんなことを思う。
――そのアイコンを長押しして、私は『削除』ボタンを押した。もう見る必要はない。考える必要はない……と決めた。
これは、灰原さんのことを知りたくて調べていたサイトに過ぎない。彼女にもう関わらないと決めたからには、もうこれを目にする日もないことだろう。
◆
そのまま夏休みに入った。厳密に言えば今日が終業式で、ホームルームを終えたところだ。
「今日から夏休みだってのに浮かない顔だなあ」
帰る準備をするべく、ペンケースとジャージをリュックに詰めていた私の元へやってきた佐藤先生が茶化したような口調で言ってくる。かく言う先生も少し疲れた顔だ。どうやらここ数年で一番、期末テストの補習対象者……つまり赤点が多かったらしく、夏休みは大忙しになるらしい。先程のホームルームで愚痴っていた。私は対象ではなかったけど。
「今回の休みは遊ぶ予定とかないのか? ほら、確かこの前はキャンプ行ってただろ」
「今回は……今のところ特に予定はないですね」
「マジか、そりゃ勿体ない。来年はもう進学や就職に向けてのオープンキャンパスだったりインターンシップで大忙しの夏になるんだぞ、遊ぶなら高校二年生の今しかないのに」
「ああ、そう言われれば……来年はもう三年生か」
それを聞いて少し現実的になる。先生が言う通り、来年はきっと遊ぶ暇なんてないことだろう。そう考えると今年の夏くらいは思いっきりはしゃいで過ごしたいなとも思う。
でも……トラはまだ足の怪我が治ってないし、私も先日あんなことがあったばかりで今はそんなテンションになれないのも事実。遊ぶと言っても、中々難しいんじゃないかな。そもそも遊び相手がいない状態な訳で。
「夏休みはバイトを頑張りますよ。あのバイトも結構楽しいですし、遊びみたいなものでしょう。……あ、そうだ。先生にお願いが……」
「ん?」
「お願い……いや、一生のお願いがありまして」
私がそう告げると、先生はキョトンとした表情になって私の言葉を待っていた。……この夏休み、補習生徒の面倒を見なきゃいけない先生にこんなお願いをするのも申し訳ないんだけど……先輩との“約束”だから、どうにかお願いはしてみないとね。
・・・ ・・・
学校が終わって、私は家に帰らずその足で駅に向かった。電車を使ってトラの家に行こうと思ったのだ。今日は午前中で帰れたから、コンビニで軽い昼食を買って益子家へ向かう。
「おや! これはこれは、詠お嬢さま」
聞いていた住所の付近をウロウロしていたら、庭先の鉄柵を拭き掃除していた瀬葉さんに声を掛けられた。どうやらここが益子家らしい、いや豪邸も豪邸。ここら一体で一番の存在感を放つ大豪邸だった。まさかこの家だったとは……。
案内されて屋敷の中へ通される。トラのご両親は仕事で不在にしてたようで、広い廊下に人の気配は少なくどこか寂しさを感じた。
そして促されるままにとある扉をノックして、中に入ると。
「あら……久し振りね、詠。わざわざありがと」
ベッドの上で本を読んでいたトラが、顔を上げて私のことを見た。
その左手首には白と赤の糸で編み込まれたお洒落なミサンガが巻かれている。――私と美南くんで選んだ、トラへのプレゼントだ。
美南くんと画策していたトラへのプレゼント、結局二人の予定が合う日はなくて……でも、電話で相談して決めることができた。やっぱり恩返しということで、私たちにとって意味のある形にしたかったのだ。美南くんが貰ったミサンガと、私が貰った薔薇のヘアピン――それを合わせて、薔薇模様が描かれたお洒落なミサンガを私が見つけて、こうして無事に贈ることができたらしい。
買ってきたのは私で、渡したのは美南くん。私はこうしてトラが身に着けているのを見るのは初めてだったから、なんだか少し感動してしまった。
「久し振り、トラ。足の具合は……」
「松葉杖が必要だけど、歩き回れるくらいにはなったわ。それにしてもやっぱりバレちゃったのね、彗星から聞いたの?」
近くまで寄ってみると、思っていたよりも元気そうで安心した。足も順調に回復してるみたいだし。
今朝、私はトラに「お見舞いに行ってもいい?」とだけメッセージで連絡した。トラは住所だけ教えてくれて、それ以上余計な会話はしなかった。
美南くんの話によるとトラは私に怪我のことを隠そうとしてたみたいだから、何か言われるかと思ったんだけど。どうやら、美南くんの行動にも予想がついていたようだ。
「まあ、ね。でもおかげで色々なことが分かったから、お見舞いがてら報告しようと思って」
そう言うとトラは何のことかと首を傾げる。取り敢えず私は持参したカットフルーツをトラに渡して、近くの椅子に腰掛けてから――先日の出来事を話し始めた。
「――そんなことが」
話を聞いたトラは、絶句していた。色々と混乱しているらしくて、まさに宇宙に放り出された猫みたいな顔になっていた。
「私、灰原姫乃に突き落とされたって詠に言ってないわよね?」
「うん、私は美南くんから聞いたよ。と言っても、美南くんも灰原さんを疑ってるって言ってたのを聞いただけなんだけど」
「そう……彗星が。それで、灰原姫乃は西尾兄弟のイベントを再現しようとして失敗して、詠が邪魔したと思い込んで殴りかかってきたってこと?」
うーん、改めて聞いてみるととんでもない話だ。私はそれに頷きつつ、それでいて気になっている点についても続けて話すことにした。
「イベント再現かも、って私も思ったんだけど。灰原さん、やけに気になることを言ってたんだよね。――“言う通りにしなきゃ”って」
「え、誰の?」
「分からない。……だからさ、もしかすると灰原さんに何かを吹き込んだ人がいて、そのせいでトラを突き落としたりしたってこともありえるのかなーって」
「ええ……? そんな、まるで心当たりがないけれど」
トラは鳥肌を擦る動作をしながら眉をハの字にさせた。まあそうだよね、私もそんなラスボス的存在に心当たりなんてないし。ただ、もしそんなのが存在するならまだ安心しきることはできないだろうから、身震いする気持ちも十分に理解できる。
「でも、今はもう気にしなくていいんじゃない? どっちにしろ夏休みだし……灰原さんに会うことはないでしょ」
「……そうね。ええ、そうよね」
だって、とトラは続けて言う。
「ヒロインが不在なら、“トラウマイベント”も発生しないってことよね。余計な心配をしなくて済むわ」
それを聞いて、私は思わず硬直した。――そうだ、そう言えば、そんな俗称があった。
「……トラウマか」
頭になかった訳じゃない。実際、私はそれを気にして行動に起こしたことがあるのだから。
去年の文化祭。それが、ちょうどそれだ。
「美南くんのトラウマイベントってどんなもの? 悪いけど、私は新平くんと恭くんルートしか詳しくないもんだから」
「彗星のは確か、他校のライバル――これも駒延高校だったかしら。とにかくバスケの推薦枠を中等部の時に奪われて恨まれてた奴から怪我を負わされるイベントだったはずよ、卒業式を目前にしたタイミングでね。それで言えば西尾兄のトラウマイベントも似たようなものかもしれないわね」
「……そうかもね」
トラウマイベントとは。
一言で言えば、物語の起承転結で例えると“転”に該当するような内容のイベントで、各攻略対象キャラクターに合わせたそれぞれの“痛々しい”イベントである。
ゲームのタイトルに“シンデレラ”と名付けられているだけに、各ルートのエンディングを控えた卒業式間近のタイミングで必ず発生するイベントのそれは、攻略対象キャラクターが何らかの理由を持って一度主人公の前から姿を眩ますというものだった。いや、原典のシンデレラだとヒロイン側が逃げるんじゃないんかい、とも思うけど。
逆に言えばこれが発生することでエンディングのルートが確定したことを確認できる、重要なイベントだ。そして“痛々しい”というのは、これがプレイヤー間で“トラウマ”と称されるほどの非常にこちらの精神を抉ってくる内容なのだ。
そして新平くんのルートで用意されたトラウマとは、『喧嘩』だ。そう、あの信号機トリオ――あの因縁こそがトラウマイベントとしてフラグ回収されてしまう。
「でも……逆に不安になるんだ」
「どうして?」
「だって彼らは、苦しい出来事があって心が折れそうになって、その時にヒロインのおかげで立ち直ってエンディングを迎えるでしょ? そのヒロインが不在ってことは……」
――だから私は、去年の文化祭で信号機トリオと新平くんが鉢合わせる可能性があったから灰原さんに相談をしたことがあったのだ。
結局、あの時も灰原さんは「邪魔しないで」とだけ言って協力はしてくれなくて、私の覆面ゴリラ作戦が成功(?)した訳だけど。
「みんなが立ち直れるきっかけを、奪ってしまったんじゃないかなって……」
「――そうだとしても、あのヒロインにそれが務まったと思う? 私のことはともかくとして、詠のことを鈍器で殴ろうとしたのよ。下手したら死んでたかもしれない事件よ、そんな人間が他人の心を救えるかしら。だからもう、ヒロインなんて最初から存在しなかったと思うしかないのよ」
トラに諭されて考える。……私のことはともかくって……トラが突き落とされたのも結構な事件だし、それこそ当たり所が悪ければ取り返しのつかないことになってたと思うけど。
ヒロインなんて最初から存在しなかった……か。確かに、そんな考え方もあるかもしれない。
「まあ、詠の言う通り。トラウマイベントのことは置いておくとして、灰原姫乃のことはもう気にせず過ごすことにするわ。下手に関わってもいいことがないって分かったことだし……」
「うん。でもトラたちはやっぱり同じ学校な訳だし、気をつけてはほしいかな」
「それは勿論。……彗星にも伝えておくわ」
少し恥ずかしげにはにかみながら言ったトラの表情を見て、そう言えば美南くんとは無事に和解できたって話を美南くんからチラッと聞いたことを思い出した。わだかまりが解けたならよかったけど、告白されたって話はどうなったんだろう?
……何となくこの二人はまだ恋人未満って感じがするから、付き合ってはいないとして。返事は保留にしてても、二人にとって今は落ち着いた関係に収まったってことなのかな。
それにしても美南くんがトラに告白したって聞いた時は、また予想通りっていうか美南くんの態度を見ていれば誰にでも分かるっていうか。
でも冷静に考えてだ、美南くんは攻略対象キャラクターの一人であって告白イベントは卒業式に、というのが私の中のイメージにあるだけあって、このタイミングで突然告白したっていうのは少し驚きだったな。
だからこそやっぱり、美南くんは私の知っている美南彗星ではないんだなあ、っていうのと、同時に新平くんや恭くんにも同じことが言えるのだと改めて実感した。前に、トラとこんな会話はしたけれど。
ところで――私が好きだった、推しキャラの西尾新平くん。その彼と今の私が知る新平くんは、今の私にとって“推し”と言える……のだろうか?
前は確信を持ってそうだと言えた。そう思っていた。なのに、今はどうしてかその心に違和感を覚える。
好きかどうかと言われれば好き、だと、思うけど――
「詠? どうしたの急に黙って。少し顔が赤いけど」
「う――あ、いや。ちょっと考えごと、を……」
――好き、って。あれ?
ちょっと待って、なんだろうこの感情は。好きって言葉を思い浮かべるだけで変な汗が出てくるというか、変な気分になるのは、どうして。
新平くんのことが好きだなんて、ずっとずっと前から思ってたことだし今更――今更、
「あ……あれ?」
「詠……本当にどうしたの?」
――なんで、今更、こんな恥ずかしくなってるのさ。