12
厳ついレンチを水が入ったペットボトルで受け止めている私。咄嗟の行動だったけど、もし気付かずに反応できていなかったら恐らく――
「灰原、さん……?」
私は頭が真っ白だった。思わず目の前の彼女の名前を呼ぶ。が、灰原さんは無表情のまま私を見下ろしているだけだった。
「――チッ」
……今、舌打ちした? 人形のように可愛らしい、ヒロインである灰原さんから舌打ちが聞こえた。
そして私が呆けている間に再び、灰原さんは鈍器を持った右腕を大きく振り上げて、
「待って、なんで!? ちょっと!!」
それが振り下ろされる瞬間、私は両手でその右腕をホールドした。しかしすごい力で抵抗される。私は絶対にこの腕を離すまいとしがみついていたので、灰原さんに片腕だけで振り回されることになった。
私の叫びで、灰原さんと目が合った。思わず背筋が凍った、何ともハイライトのない眼。そして無表情だったその顔に感情が滲んでいた。
「――――邪魔なんだよ、脇役のくせに」
怒り。……だと、思う。ただ静かな静かな怒りだ、憎しみと言ったほうが適しているか。そして呟くように溢れたその声は普段の鈴が転がるような声色からは一転、低く唸るような声だった。
「お前もだ。お前も悪い、どいつもこいつも……! 全然上手くいかない! なんでお前が、私の役を横取りしてんのよ!」
「何言って……っ!?」
ぐわんと視界が回転した。灰原さんの空いた左手が、私の髪を鷲掴みにして引っ張ったのだ。強い力で後ろに押されて……態勢を崩した私はそのまま背中からテーブルの上に倒れ込んだ。ただ、私はまだ灰原さんの腕を離さなかったので彼女も私に覆い被さるような態勢になる。
鬼のような形相で私を睨みつける顔面が目の前に迫って、私の背筋は滝のような冷や汗が流れている。でも頭は冷静だった。灰原さんが言った言葉の意味について考える。――この反応、やっぱり彼女は……
「脇役って……私のことを言ってるの!?」
「――当たり前でしょ!! 弁えろよ! 私が、本当は私が目立たなきゃいけないのに! 私は――このままじゃ――」
あ――頭を押さえつけられたまま揺さぶられて、目眩がする。最近の寝不足も相まってか、立ち眩みのようになって視界が一度暗転した。
一瞬の目眩のせいで力が緩んでしまった私は、掴んでいた腕を振り解かれてしまった。そして灰原さんは私の襟元に手を掛ける。
「――言われた通りにやらなくちゃいけないのにっ!!」
「は……っ!?」
ガスンと鈍い音と衝撃が、私の左耳の真横から。僅かに身動ぎしたおかげで、灰原さんが振り下ろしたレンチ攻撃は私の顔面を逸れた。しかしそれは私の恐怖を煽るのに十分な威力を持っていた。
灰原さんを恐れながらも、彼女が口にした“言われた通り”という言葉――それって、一体。灰原さんは私と同じ転生者……なんだよね? でも言われた通りにって、一体誰から何を言われたって……?
「待ってよ、落ち着いて!? ちゃんと話そうよ、言われた通りにって誰に!?」
「うるさいッ!! 邪魔者は――消してやる」
ヒュッ、と声にならない声が零れた。これってあれだ、殺気というやつだ。やばいこのままじゃ殺される、ただひたすらにそう思った。
走馬灯――らしい光景とかが脳裏を過ぎった訳じゃないけど、灰原さんが再びレンチを振り上げてからそれを私に向けて振り下ろすまで、その動きがスローモーションに見えた。その間、様々な考えが頭に浮かぶ。
一つ、灰原さんは正気じゃない。
一つ、多分この様子じゃ、美南くんの言った通りトラを突き落とした犯人も彼女で間違いないだろう。
そしてもう一つ、どうして私に対して激高しているのか。それはやっぱり、本来この“イベント”で恭くんとツーショットを飾るのは私じゃなくてヒロインのはずだったから……とか?
それだと色々繋がる。そう言えば以前、灰原さんから「私の邪魔をするな」と言われたことがあったっけ。あの時も去年の今頃、夏祭りを控えた時期だった。
トラが灰原さんに目を付けられたのは、美南くんと仲がよかったからだろう。……そして私が今こうして襲われているのは、きっと今日の出来事が彼女の琴線に触れる“邪魔者ムーブ”だったから、なのか。
だとしたらやっぱり、灰原さんは攻略対象キャラ全員を独占しようとしてるってことになる。だって今日ここに美南くんはいないし――私がしたことと言えば、恭くん一緒にモデルの役目をやらされたこと。そして、北之原先輩のマネージャーを努めたこと。
逆ハーレムルート……それを成し遂げようとしている、のだとすれば。彼女の様子を見るに、それが上手くいっていないというのは「そりゃそうだ」と言わざるを得ない。現に彼女は恭くんとの約束を反故にしたことで彼を傷付けたことがあるのだから……それを彼女本人が認識しているかどうかは分からないけど。
そしてますます、言われた通りにって……何のことなんだろう。誰からか吹き込まれてこんな非行に走ってる可能性も、ある?
確かにそうだ、可能性はゼロじゃない。だって私はあのサイトで、“ゲームの内容”や“攻略対象キャラ”について語っている人々を知っているのだし。その不特定多数の誰かから灰原さんに情報が入った、というのも考えられる……?
……と、まあ。灰原さんがレンチを振りかぶっている間にそれだけのことが頭に浮かんでいた私は、一通り思考を回したあとに諦めモードに入った。恐らくこれから私の脳天を襲うであろう衝撃と鈍痛に覚悟を決める。
ああでも、これって普通に殺傷性のある凶器じゃない? 最悪死ぬんじゃないか、私。
覚悟が決まったようでやっぱり怖くて、結局何も考えられないまま、目を閉じることすら躊躇われて、私はじっと灰原さんの動作を見つめたまま動けずにいて――。
ゆっくり、ゆっくりコマ送りのようにその凶器が私の眼前に迫り、そして次の瞬間にはそれが私に振り下ろされる刹那、大きな手のひらが灰原さんの手首を鷲掴みにしてそれを制止させた。
「――――なに、やってんだッ!!」
怒気を含んだ大声。同時に灰原さんは私から引き剥がされ、床に投げ出された。
それを片手で成し遂げたのは、額に青筋を立てながら拳を握り締めている――新平くんだった。
「灰原! 説明しろ、なんだこの状況は!? ふざけてたんじゃ済まされねぇぞ!!」
私はよろよろと顔を上げて、床に座り込んだ灰原さんに視線を向けた。俯いているので表情は見えない。じっと黙って、何も言わなかった。
次いで、私の視界から灰原さんを遮るように仁王立ちする新平くんの背中を見上げた。こちらも私に背を向けているので顔は見えない。でも、張り上げている声と背中から彼がとんでもなく怒っているのは見て取れる。
「何事……っ、え? シンペーと……ヒメちゃん?」
パタパタと足音が聞こえてきたと思ったら、息を切らした恭くんが現れた。新平くんの大声によって駆け付けたらしい。恭くんはまず新平くんを見て、その背後でテーブルの上に蹲るようになっている私を見て怪訝そうに眉をひそめる。そして床に座り込む灰原さんを見下ろして、戸惑いの声をあげた。
「――茂部、大丈夫か、お前……」
心配そうな声が上から振ってきて、目線を上げると身体を半分振り返らせた新平くんが私を見下ろしていた。その瞳からはまだ怒りの色が消えていないけど、それは私に向けられたものではないことは分かる。
「あ……」
なにか、言おうと思ったんだけど。頭は回っていたけど、どうしてか言葉が出なかった。それどころか喉が震えて、何かが込み上げてくるような感覚ばかりで。
気付けば私は、大粒の涙を零していた。泣くなんて、そんなつもりはなかったのに。声も出せずにただ涙だけが溢れてくる、私も自分の感情を整理できていなかった。
「っ、クソッ……ほらもう、大丈夫だ。大丈夫だから」
新平くんが私の背中に手を回して、ぐいっと身体を起こしてくれる。テーブルの上に座るようにされて、新平くんは自分の袖で私の涙を拭い始めた。両手を使って少し雑に、ゴシゴシと私の目の周りを擦り続ける。ぶっきらぼうにも思えるその動作だけど、手つきはあまりにも優しいものだった。その安心感もあってか私の涙は止まらなくて、新平くんの袖はどんどん湿っていく。せっかくの衣装なのに。でも相変わらず声は出なかった。
「……ヒメちゃん。どういうこと? 茂部ちゃんに何したの?」
悲痛な表情を浮かべて、恭くんが静かに問い掛けた。それでも灰原さんは動かず、そして何も言わない。数秒間は沈黙が続いて、恭くんは小さなため息をついた。
「ああ……参ったね。これは」
……しばらくして現れたのは、騒ぎを聞きつけてやって来たらしいスタッフたち。その筆頭に立っていたのは北之原先輩だった。
けれど全員以外の、監督を含めたスタッフたちは全員複雑そうな表情を浮かべていた。そしてそれを率いる先輩は無表情に近い薄ら笑いを浮かべ、腕組みをして仁王立ちしている。
「やはり騒ぎを起こしたね――灰かぶり。個人的には癪だが、ミスター・パルフェの憂いは的中していたという訳だ……全く癪だが。今ばかりは賛辞を贈らざるを得ないな」
そう言う北之原先輩の言葉に、私だけでなく新平くんや恭くんも目を丸くさせて彼を見た。
そしてそれは灰原さんも同じで、ゆるりと顔を上げて北之原先輩を見上げる。その顔は、まるで幽霊のようにも見えた。