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中言先生と言えば、おっとりした性格ながら多才に全てを卒なくこなすハイスペックな大人……の、イメージだった。彼を関する名が“完璧”であるだけに、どこか抜けているような雰囲気を裏切るまさに非の打ち所のないポテンシャルを持つことでそのギャップに射止められた乙女は後を絶たないことだろう。流石、トラの推しキャラだ。
そんな中言先生だが、私はあまり詳しくないもののそれくらいの情報は知っていた。私のイメージとしては常にのらりくらりと、みんなから向けられる好意も悪意も特に気に留めることはなくマイペースに生きている印象だったんだけど――
「太郎くんは〜、本当に素晴らしい才能を持った音楽家なんですよ〜? 絶っっ対に大学でも音楽を続けるべきだったのに……」
「学生時代の佐藤先生と仲が良かったんですか?」
「同じ吹奏楽部に所属していたんです〜。でも僕は個人でコンクールにエントリーしたり、学校外の楽団に呼ばれることが多かったのであまり部活には参加できなかったんです。太郎くんは僕の卒業後には部長を務めていたと聞いていますよ〜。僕らが学生の頃はよくこのお店にもお世話になっていましたし」
その話には竜さんもウンウンと頷いているので、本当に佐藤先生は中言先生とこんなに近い関係にあったんだ。何より佐藤先生を絶賛する言葉が、中言先生の口から止まらないのだ。確かに先生はピアノがとても上手だし、あの中言先生が認めるのも分かる。
「中言先生は去年の夏祭り、バンドコンテストに参加して優勝してましたよね?」
「おや……そうですが、どうしてそれを?」
「あの時実は、私も参加してたんですよ。中言先生たちの後に演奏してました。あの譜面は佐藤先生が用意してくれたもので、指導もしてもらいました。当日は一緒にあの場にいましたよ」
「――あの時、太郎くんが近くにいたんですか!? ああっ、どうして気付かなかったんでしょう〜〜っ、たくさんお話したいことがあるのにぃ〜!」
やっと落ち着いたかと思ったら、また立ち上がって頭を抱えては発狂に近い声をあげる中言先生。キャラがブレて……いや、私が知らなかっただけで中言先生は元からこんな性格だったのだろうか。ただ思うのは、佐藤先生と仲良くなれるようなタイプではないと思うんだけど……もしや佐藤先生、学生時代はかなり苦労したのだろうか……?
「……失礼。その佐藤太郎とやらは駒延高校に務める教師……ということかい?」
控えめながらも割り込んで尋ねてきたのは、北之原先輩だ。ぱっとそちらを見ると目が合った。隣の中言先生には聞こえていなかったようだし、北之原先輩はどうやら私に聞いたらしい。
「はい、私の担任の先生です。ピアノが上手いんですよ」
「――なるほど。姫ノ上学園のOB、ミスターの後輩。現在は駒延高校の教師……」
「……? あの、どうし……」
「――フ……ククッ……」
一人でブツブツとなにかを呟いていたけれど、その内容まではよく聞き取れず私が怪訝にしていると、今度は肩を震わせて静かに怪しく笑い始めた。思わず私は黙ってしまった、その様子はあまりに不気味だったから。もう何なんだろう、中言先生然り北之原先輩然り、キャラ崩壊もいいトコだ。
「マスター、ボクはもうお暇するよ」
「おお? なんだぁ、随分早いなぁ?」
……そうして笑っていた北之原先輩だけど、ふとその表情が急に“無”へ変貌したかと思うと、おもむろに立ち上がった。
「火急の都合を思い出してね。安心したまえ、またすぐにお邪魔することになるとも」
ちらりと横目に、未だ頭を抱えている中言先生を静かに睨み付けながらそう言った。……かなり意識しているみたいだ、それは原作通りなんだなあ。
「それじゃあ、またね。――子猫ちゃん」
「え? ……あっ、ありがとうございまし……た?」
立ち去る際、北之原先輩は明らかに私を見ながらそう言った。いやそうだよな、子猫ちゃんって竜さんや中言先生には言わないだろうし。いや私相手でも変な気分だけれども。
また……ということは、ここで働いていればまた北之原先輩には会えるということか。そしてどうやら中言先生も常連らしいから、つまるところこの二人とは今後とも付き合いが生じる。
なんと、驚くべきことに私は――全ての攻略対象キャラクター、要はメインキャラ六人全員との遭遇と会話を果たした。モブAに過ぎないこの私が、だ。……運がいいのか悪いのか……いや、運がいいと思うことにしよう。だってみんな、素敵な人だから――東条ダイヤのことは置いといて。
でも思っていたより、私はそれほど感動はしていなかった。まあ生きていればその内見かけることもあるだろうとは思っていたからかな。……でも、それより実際に会ってみた彼らは皆一様に私の想像とは少しかけ離れたりしていたから、面食らって感動どころじゃなかったせいかもしれない。
・・・ ・・・
「――ふうぅ〜……マスター、ちょっと落ち着くために僕もピアノを拝借していいですか〜?」
「構わんが、お前さんの得意は違うだろ?」
「今日はヴァイオリンは持ってきてませんから〜。それに、太郎くんのことを思い出したらピアノを触りたくなってしまいましたし」
北之原先輩が退店して間もなく、少し落ち着いたらしい中言先生はのんびりした足取りでアップライトピアノの椅子に腰掛けた。
そう言えば……多才な中言先生だけど、私が知っているイメージではヴァイオリンを弾いている姿が印象に強い。専攻はヴァイオリンだったはずだ、この会話を聞くにそれは正しいらしい。
中言先生が鍵盤に触れると、店内に流れる空気が一気に変わった感覚があった。音階は高めで、しっとりとしたバラード曲を奏でている中言先生。演奏する姿は宛らゲームのワンシーンを切り取ったようだった。
――かと思うと、続いて躍動的なクラシック曲の演奏が始まった。初めて佐藤先生のピアノを聞いた時を思い出す、明らかに非凡な人の手の動き。これが今、無料で聞けていることにとんでもない申し訳なさを覚える。
「う〜ん、やっぱり音楽というのは僕を安らかな気分にしてくれます。たまにはピアノも悪くないですね〜!」
弾き終えると同時に中言先生はそう言った。誰かに聴かせるための音楽じゃなくて、ただ自分のためだけに奏でた演奏だったのに……これだけ惹き付けられたことが、彼の才能を物語っていた。お金を払いたいくらいなのに、あまりに圧倒されて身体が動かず、咄嗟に拍手すら送ることができない。
「これでピアノはただの“趣味”ってんだから恐ろしい男よなぁ。相変わらずの化物だよ、お前さんは」
「ええ〜、化物だなんてそんな〜。酷いこと言わないでくださいよう、僕はただの人間ですよ〜?」
「絵里も対抗心燃やしてる内はまだいいんだがな、お前さんのその才能と性格のせいで心折れちまった奴をたくさん見てきた俺からすりゃあ恐ろしいもんよ。全く、お前さんには大した悩みとかもなさそうだし羨ましいよ」
ピアノからぱっと手を話して柔和に微笑む中言先生は、演奏中の姿を重ねるとまるで別人だ。彼の音楽性は憑依的と言えば伝わるだろうか、本当の音楽家にはこういう人が多い印象だ。……そして竜さんも若干引き気味に言っていたけど、この腕前でピアノが専攻じゃないと言う。“完璧”の王子と呼ばれるだけに桁違いな才能を秘めたこの人に叶う人なんているのかな……プライドの塊みたいなキャラクターの北之原先輩が対抗心を燃やしているのも、それだけですごいと言える。大抵の人は中言先生に対抗しようなんて思わないだろうから。
「いやいや〜、僕だって絶賛お悩み中ですよお。それも一つじゃなくて、最近は学園内でも物騒なことが多いですし〜。あとはさっきも言いましたけど部活のことですかねえ、急な欠員と……本当に困ってるんですよ?」
「――あ、の。最近、姫ノ上学園で階段から落ちた女子生徒のこと知ってますか」
学園内の物騒なこと――中言先生が言ったその言葉に反応した私は、反射的にそう尋ねた。私が突然食い気味に聞いてしまったので、中言先生は目を丸くしている。あまりに突拍子がなかったかな。
でも聞かずにはいられなかった。私の中での今の最優先事項は、美南くんから協力をお願いされた『トラを突き落とした犯人探し』なのだから。正確に言えば、それが美南くんが予想する人物と合致しているかどうかの確認だけど。
「私、姫ノ上学園に通ってる友達がいるんです。その子が先日に階段から落ちて怪我をしたって聞いたので……物騒なことって、そのことかなって思いまして」
「……そうなんですね。確かに先日、階段から落ちて怪我をしてしまった女子生徒がいました。君、彼女とお友達だったんですね? よ〜く知っていますよ、その場で介抱したのは僕でしたからねえ」
「先生が介抱を!?」
腕を組みながら、視線を宙に投げてその時のことを思い出すようにしながら中言先生は話してくれた。そして驚いた、トラったら中言先生に介抱されてたのか。推しキャラに介抱……それこそ乙女ゲームにありがちなシチュエーション。よかったね、と言いたいところだけど結構な大怪我だっただけに下手に喜べやしないだろうな。
「でも待ってください。君はそれを“物騒”と定義付けたのはどうしてですか? ……彼女は足を滑らせたのではないと?」
「あ――」
「姫ノ上学園では最近、非行に走る女子生徒が多くてですね。街中で深夜に迷惑行為に走る生徒たち、本来高校生が居てはいけない場所で目撃される生徒たち……我々はそれに手を焼いているのです。……ただ、君の話も聞き過ごすことはできないですね。差し支えなければ教えてくれませんか?」
真剣な眼差しをしてそう言う彼は、すっかり“教師”としてのモードに入ったようだ。温厚な口調はそのままで、真っ直ぐに私に対して問い詰めてくる。また雰囲気が変わった中言先生に私は一瞬気圧されたけど、これは反対にチャンスだと思い立った。
「本人は隠しているみたいですが、その子と親しい別の友達の考えでは突き落とされたんじゃないかって話です。誰かまでは分からないんですが」
「……なるほど。ええ、確かに、あの態勢を見るに強い力で頭から転げ落ちた……と言ったところでしょうか。ですが本人が何も言わず、ですか。学園側も特定は難しいでしょうね」
「……信じてくれますか」
「生徒を指導するのが僕の役目ですから、それが事件であれば見過ごせませんよ。大変貴重な証言をありがとうございます、ある程度育った子供というのは未熟な部分を隠しがちです。子供たちの間で起きた問題に大人が介入することは困難な場合もあります。それは、それに我々が気付けないことが原因なのです」
そう言って微笑む先生が、かなり大きな存在のように思えた。言ってよかった、のだろうか。頼れる味方を手に入れた……と思っていいのかな。
「ですから君は、あまり心配せず過ごして大丈夫ですよ。お友達のことを気遣ってあげてくださいね、本人が一番辛い思いをしていることでしょうから」
「――っ、は、はい……!」
私が元気よく返事をしたところで、眉間に指を当てながら大袈裟に感嘆の声をあげたのは竜さんだった。
「タカ、お前……立派になったなぁ。昔っからできる男だとは思ってたがどこか抜けてて……俺ぁ今、めちゃめちゃ感動してるぜ……!」
「あはは〜、竜さんにそんなこと言ってもらえると照れますねえ。これからも精進しますよお」
そして中言先生は通常モード、間延びした口調の天然スタイルに戻った。……少し危なかった、あの真剣な眼差しからの微笑みと私を安心させる言葉……それに思わず、私の胸は高鳴ったのだ。……この魅力に今まで何人の女性が堕ちたことだろうか。あまり考えたくはないけど、恐るべし攻略対象。
顔が暑い。赤くなってしまった顔を見られたくなくて、私は二人から顔を背けた。そのまま手で扇いで熱を冷まそうとする。
こうしていると、新平くんの挙動に一々こんな風に胸を高鳴らせていた頃を思い出す。未だに新平くんがカッコよすぎる時はドキドキしちゃうけど、去年よりは耐性がついたというか慣れてきた自覚はある。
それは新平くんが推しだからと思っていたけど、中言先生に対してもまさかこんな感情を抱くことになるなんて……いや、これは不可抗力だ。しかし私が案外チョロいだけかもしれない、そう思うとやるせない気分になる。